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【3】-17:泣かせた

 立ったまま、少し前かがみになった状態で、奈央子はその中身について話し始めた。
 「これね、その史学科の人から——根本さんだったかな。渡してほしいって頼まれたの。こっちが必要な資料のコピーで、こっちが今日話し合ったことの大まかな内容。早めに目を通して、夜にでも連絡してほしいって——」
 幼なじみの声を聞きながら、柊は不思議なほどの充足感が自分の中に広がるのを感じていた。
 彼女が近くにいるのがこんなに心地良いものだとは、今まで思いもしなかった。それが当たり前のことだったから——少なくとも、柊自身はそんなふうに認識していたからだ。
 顔を合わせることすらほとんどなかったこの何日かの間、奈央子のことを考えるたびに漠然と感じていた、空ろで居心地の悪い感覚。今はそれも消え、隙間が満たされていくような気持ちだった。
 目を上げて、奈央子の顔を見た瞬間、経験したことのない激しい衝動に襲われた。
 つき動かされる心のまま、奈央子の腕に手をかけて引き寄せる。いきなりバランスを崩されて倒れこむ体に、柊は腕を回した。この間と同じ、髪の甘い香りとなめらかな感触を確かめる。
 相手の戸惑いは伝わってくるが、抵抗は感じられない。それに背中を押された気分で、柊は奈央子を抱きしめる手に力をこめる。
 その時初めて状況に気づいたように、奈央子が腕の中で体をこわばらせ、逃れようと身じろぎした。だが離すつもりはなかった。肩に回していた手を、奈央子の頭を支える位置へと動かし——吸い寄せられるように唇を重ねる。そのやわらかな温もりに、柊が我を忘れてしまいそうになった時。
 必死にもがき続けていた奈央子の手が、胸の真ん中を思いがけず強く叩いた。不意をつかれ一瞬息ができなくなり、力がゆるんだ瞬間、柊は思いきり突き飛ばされていた。
 こちらがベッドの上に半ば倒れこむ間に、奈央子は素早く立ち上がり、カバンをつかんで玄関へと向かっていた。慌てて身を起こし、呼び止めようとする。だが。
 走りながら一瞬振り向いた奈央子の横顔。
 その頬に流れる涙に、声を失った。
 呆然と柊が見つめる前で、部屋のドアが閉まる。通路から階段へと駆けていく足音が小さくなり、やがて聞こえなくなった。
 フローリングの床に、奈央子が落としたファイルと、いくつもの紙束が散らばっている。それはそのまま、奈央子の動揺とショックを表しているように見えた。
 ——同じ日に、自分のせいでまた女を泣かせた。それはひどく心に重たい事実だった。
 そして、1人目よりも2人目の涙の方が、今の柊には何倍も重くのしかかっていた。



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