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2008年7月27日 - 2008年8月2日

【2】-4:気にかかること

 ……同時に、奈央子が湯浅と付き合わなくてよかった、と安堵している自分に気づいた。気づいた途端に戸惑う。
 当時もし、気づいていたとしたら。そうならなくてよかったと思うのは同じだったろう。湯浅の自信過剰さ、そこに基づく嫌味な態度が気に入らなかったからだ。
 しかしその場合、湯浅がふられたのがいい気味、と感じるのが基本だったと思う。今みたいに、あんな奴と付き合わなくてよかった、と奈央子の方に比重を置いては考えなかったのではないか——  
 無意識に、それ以上深く考えるのはやめた。ちょうど自宅に到着したからでもあった。
 郵便受けを確認し、中身を手に取る。1DK部屋の隅のゴミ箱に、生命保険やら何やらのダイレクトメールをまとめて放り込んだ。
 晩メシをどうしようか、と考える。自炊を全くしないわけではないが、どうも面倒くさいと思う方なので、外食やコンビニ弁当が多くなりがちである。
 しかし給料前で、仕送りは月初めなので、懐はあまり暖かくない。米はまだ残っているが、おかずにできる材料があったかどうか。
 などと考えながら、本棚兼物入れにしているラックの方へ目をやると、明日の試験科目であるドイツ語のテキストが半分はみ出している。
 それを見た途端、気にかかることを思い出した。

 携帯が鳴った時、奈央子はちょうど家に帰り着いたところだった。マンションの自分の部屋の前、手にしたスーパーの買い物袋をいったん下に置き、さて鍵を開けよう——というタイミングだった。
 慌ててカバンから携帯を取り出し、ディスプレイを見ると、登録してある名前が表示されている。柊の番号だった。
 この時間に電話してくるということは、今日はバイト休みなんだろうかと考えつつ、通話ボタンを押す。
 「もしもし」
 『もしもし、奈央子? 聞きたいことがあるんだけど』
 「ちょっと待って、今家に入るところだから……オッケー、いいわよ。なに?」
 『明日のドイツ語のことなんだけど。範囲何ページまでだったっけ?』
 「えーっと——確か47ページまでだったと思うけど」
 『げ、マジ?』
 「マジよ。それが?」



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【2】-5:お願い

 『……こないだノート借りた時、途中までしかチェックしてなかった』
 しばらくの沈黙ののち、そう答えた柊に、奈央子は呆れた。
 「——それこそ『マジ?』って聞きたいわね。貸す前に範囲教えたはずだけど」
 『そうだっけ?』
 「そうだっけ、じゃないでしょ……まったく。試験は明日の朝一なのよ、わかってんの」
 『わかってるから電話してるんだろー。なあ、悪いけどもう1回貸してくれないか』
 「今からー?」
 『悪いっ、頼むよ奈央子、お願いします』
 電話の向こうで、実際に手を合わせている柊の姿が見える気がした。子供の頃から何度となく耳にしている、彼定番の台詞だった。
 ……そして、奈央子が幼なじみの「お願い」に弱いのもまた、定番になっていた。相手に気取られないように、いろんな意味をこめたため息をつく。
 自分自身にも呆れつつ、結局はこう言った。
 「わかった。今からそっち行くから、ノートの準備しといて」
 奈央子の住む女性専用マンションと、柊のアパートとは、最寄り駅で換算すると2つ分離れている。しかしどちらも駅から徒歩10分ほどの住宅街の中であり、加えて交通量の比較的多い国道に沿って行けば、自転車で20分程度の位置関係にあった。自宅からなら、わざわざ電車を使うより、自転車で直接行った方が手っ取り早い。
 マンションの駐輪場に停めてある自転車を引き出し、ライトをつけて出発した。6時を過ぎるとさすがに空が暗くなりつつある。
 信号であまり足止めされずにすんだからか、15分ちょっとで目的のアパートにたどり着いた。外階段の脇に自転車を停め、2階へと駆け上がる。
 203号室のチャイムを押すと、ほとんど間を置かずにドアが開いた。中に入りかけるが、なぜか柊が動こうとしない。
 不審に思って見上げると、柊がこちらをじっと見ていることに気づいた。数秒待ってみたが、状況は変わらない。
 居心地の悪いものを感じて、半分わざと、いつもより強い口調で尋ねた。
 「なんなの?」
 その瞬間、柊がはっとしたように目を見開いた。次いで、まばたきを何度も繰り返す。
 急に夢から覚めたような、そんな様子だった。



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【2】-6:バランス

 もう一度「なに?」と尋ねると、柊は視線をやや下方へと移した。
 「……それ、何なんだ?」
 指差された先、自分の手元を見ると、持ち帰ってきたスーパーの袋。勢い半分、なんとなくの予感半分で、自転車に積んできたのだった。
 指摘されて少々恥ずかしくなり、
 「買い物して帰ってきたところだったの。勢いで持ってきちゃったのよ……それより、ノートは?」
 「あー、それがなあ、探してるんだけど見つからなくて」
 「ええ? 何やってんのよもう」
 スーパーの袋を台所スペースにひとまず置き、奥の部屋へ入る。ラックを調べると、テキスト類がまとめて入れられた段に、目的のノートは横向きにつっこまれていた。
 「あるじゃない。どこ探してたのよ」
 「あれ、おかしいな……」
 などと呟いている柊は放っておいて、ノートに何ページ目までの訳が書かれているのか、急ぎ確認する。
 「37ページまでね、じゃ38ページからの分コピーしてくるから——」
 片膝をついた姿勢から立ち上がりつつ、振り向きかけた時、カバンのひもが肩からすべり落ち、肘の内側に引っかかった。急に移動した重みに反射神経がついていかず、奈央子は態勢のバランスを崩した。

 「きゃ!?」
 カバンに腕を引っぱられた拍子で、奈央子が突然ふらついて斜めに倒れかけた。
 それが目の前だったものだから、反射的に前へ出て腕を伸ばす。
 ……受け止める直前、甘い匂いが鼻をかすめた。
 「ご、ごめん。バランス崩しちゃって——」
 奈央子が何か言っていたが、柊は半分も聞いていなかった。ただ一つの感情で頭がいっぱいだった。
 ほとんど無意識に、奈央子の腕に添えた手に力をこめた時。
 「——柊?」
 戸惑うような呼びかけ。途端に、今の状況を把握するだけの冷静さが戻ってきた。抱きつく格好になっていた奈央子からさっと体を離す。
 「あ——大丈夫か?」
 「……うん、別に何ともない」
 そう言って目をそらした奈央子の顔が、心なしか赤いように見えた。なにやら怒っているようにも見えるから、そのせいかも知れない。
 自分の視線が、幼なじみの長い髪から胸元へと動くのに気づいて、慌てて顔をそむけた。



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