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2008年8月3日 - 2008年8月9日

【2】-7:抱きしめたくて

 さっきから、何かおかしい……奈央子が訪ねてきた時からそうだ。
 ドアを開け、彼女の姿を目にした瞬間、動けなくなった。急いで来たのか息を少し切らし、頬がやや紅潮した顔。こんなに美人だったろうか、とその時思った。
 奈央子の不審げな声で我に返り、自分がどれだけ無遠慮に相手を見ていたかに気づいた。とっさにごまかしたが、ひどくバツが悪い気分だった。
 今も同じだ。
 考えまいとしているのに、先ほどのことが脳裏から離れない——髪の甘い香りと感触、受け止めた体のやわらかさ。
 抱きしめたくてたまらなかった。
 「——っと、それじゃコピーしに行ってくるから。あ、晩ごはんどうせまだよね?」
 「あ、そうだな、コンビニ行くんなら何か弁当でも買って」
 「そんなことだろうと思った。コピー終わってから30分か40分待てるなら何か作るから。どうせ今晩の材料そこにあるし」
 奈央子が差し示した方向には例のスーパーの袋。
 軽い驚きとともにそれを見ているうちに、奈央子は玄関へと走っていた。ついて行こうとしたが、自転車があるからと奈央子は言いおき、素早く出ていった。
 外階段を下りていく足音を聞くともなしに聞きながら、柊は考えた。
 ……やっぱり、今の自分はおかしい。
 どうしてこんなに焦ったような気分になるのか。
 それも、20年近くの付き合いで、兄弟か親戚みたいな幼なじみに対して。
 そう、奈央子は一番近くにいる、ほとんど家族のような存在だ。3歳上の姉よりも近しい女きょうだい、そういった感じの。
 なのに、どうして今さら——知らない女に接したみたいに、心が落ち着かなくなるのか。
 ましてや、抱きしめてみたいなどと思ったのか。
 (……木下の話のせいだ、きっと)
 木下が思わせぶりな話をするから、それが今日のことだったから変に意識してしまっただけだ。きっとそうだ。
 一晩眠れば、気分も落ち着くだろう。柊はそう結論づけた。



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【3】-1:10月初め

 10月初め。
 前期試験後、1週間の試験休みが過ぎ、K大学は後期の履修科目選択期間に入った。
 選択とは言っても、語学などの基本教養科目、及び学部・学科ごとの専門科目は最初から決まっているので、純粋な意味で「選択」するのは自由選択科目のみとなる。
 つまり最低限取得すべき単位数のうち、4分の1ほどは、どの学部・学科の講義を選択しても良いという扱いになっている。資格を取るための科目に割く学生がいれば、単なる穴埋めとして単位取得が楽な(と噂される)講義を選ぶ学生も当然存在する。
 奈央子の場合、どうせ受けるなら興味を持てる科目がいいと考えるタイプだった。休み中に考えた結果、福祉学やコンピュータ系の科目などを選ぶ。
 その中に西洋史概説が入っていたのは特に意図的ではない。日本史学科の柊にとっては専門科目であり、ゆえに同じ講義を受けることになるのを多少は意識してはいたが……高校時代から世界史は好きな科目だったし、英文学を読む上で知識として役立つ時があるかも、と考えたのが主な理由である。
 その、選択期間の2日目。午後一番の3時限目、奈央子はドイツ語Bの講義を受けていた。
 必修の語学は英語を含めた2種で、それぞれテキストを訳するのが中心のA講義と、内容の自由度が高いB講義に分かれている。奈央子、及び柊が属するクラスを担当する講師は前期と同人物で、ヒアリングを重視した講義を行っていた。
 区切りの良いところで講師が終了を告げたのは、チャイムが鳴る5分前だった。数人が講師に質問しに行く中、他の学生はばらばらと教室の外へと向かう。
 奈央子もテキストや筆記具をカバンに入れ、席を立つ。今日の午後の講義は今のドイツ語と、5時限目の専門科目だから、4時限目が空いている。時間つぶしに大学生協内の書籍売場へ行こうか、と考えながら教室を出ると、すぐ前の通路に、壁にもたれる格好で女子学生が1人立っているのに気づいた。
 淡い黄色のカットソーと薄茶のロングスカートを着た彼女は、奈央子が中から出てくるのを認めて顔をこちらに向ける。ゆるくパーマのかかった髪が、肩の上でわずかに揺れた。
 (あ——)
 里佳だった。
 思わず足を止めた奈央子の顔を、黙ったままじっと見つめる。その沈黙が居心地悪く、思い切ってこちらから口を開いた。
 「……えっと、柊なら中にまだいるけど」



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【3】-2:「好きなんでしょう」

 言うまでもない気はしたが、他に適当なことを思いつかなかった。社会学部生の彼女が文学部棟に来るなら、それぐらいしか理由がないだろうと思ったからでもあるが。
 「知ってるわ」
 案の定そう返された。でも今日は、と続ける。
 「あなたに話があるの、沢辺さん」
 「え?」
 「時間ある?」
 一瞬嘘を言うことも考えたが、結局は正直に4時限目が空いていると答える。それを聞いて里佳は、身振りでついて来るようにと促した。
 思わず出てきた教室を振り返ったが、柊はまだ席を立たず、他の学生としゃべっている。
 仕方なく奈央子は、里佳の後ろについて歩き出した。
 しばらく歩き回った結果、学内の喫茶室に席の空きを見つけ、そこに入った。互いに注文を終えて店員が去ると、里佳はすぐ口火を切った。
 「単刀直入に聞くわ。あなた、羽村くんのことどう思ってるの。……いいえ、聞くまでもないわよね。好きなんでしょう」
 断定口調で言われ、すぐには返す言葉が出てこなかった。
 なるべく、周囲には気取られないようにと振る舞ってきたつもりだが——里佳には気づかれているだろうとは思っていた。
 そしていずれは、こうやって正面切って話をしなければならないだろうとも。今さら隠しても仕方ないと腹をくくり、奈央子は言った。
 「そうね、望月さんの言う通りよ」
 やっぱりね、という表情を里佳は浮かべた。
 「だったら、言わなくても分かってるわよね……羽村くんに近づかないでほしいって」
 「それは……」
 「あなたたちが幼なじみなのは知ってる。彼が、あなたのことを頼りにしてるのも——私とのことだって、真っ先にあなたに相談するぐらいだものね」
 確かにそうだった。
 高2の夏、里佳に告白された日の夜、わざわざ部屋まで訪ねてきて柊は言ったのだ。『どうしたらいいと思う?』と。それまで女の子から告白された経験がなく、また付き合ったこともなかった彼としては、ともかく戸惑ってしまったらしい。
 だがそんなふうに聞きながらも、柊はやけに嬉しそうだった。望月里佳が、柊の通う高校内では噂の「注目株の女子」だという話は何度か聞かされていた。同じく女子としては品定めっぽい言い方が気になったが、件の里佳が可愛らしくて魅力的なことは(写真を見たことがあったので)、奈央子も認めていた。
 だから、『そんなに嬉しいんだったら付き合えば?』と答えたのだ。



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