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2008年9月7日 - 2008年9月13日

【3】-15:ほんとに好きな人

 自分のマンションから自転車で行ったことの方が多いので、駅から歩いたのは、この半年で2・3度ぐらいである。少しばかり道順に不安があったが、歩いてみたら意外とスムーズに思い出して、白壁に青い屋根の建物が見えた時にはほっとした。
 奈央子は2階へ上がり、3つ目の部屋のインターホンを押す。……応答がない。
 もう一度押しても同じだった。ひょっとして中にいないのだろうか、と思いつつドアノブを回してみると——驚いたことに、鍵が開いていた。
 きぃ、と小さな音とともに、ドアが開く。
 そっと中をうかがうと、明かりはついているようだが、人がいるかどうかはわからない。そのくらい静かだった。

 インターホンの音に、柊は唐突に意識を呼び戻される。今の状況を思い出すまでにいくらか時間がかかった。
 (……そうだ、確か朝早くに望月が来て……)
 奈央子とのことを聞くために、家に入れたのだった。最初はごく普通に、何を話したのかと尋ねていたのだが、里佳は言葉をにごすばかりで詳しく言おうとしなかった。何度も同じ質問を繰り返すと、いきなり里佳がうんざりした口調で「そんなことどうでもいいじゃない」と口走った。そう言った直後に顔色を変えたので、彼女にとっても失言だったのだろう。しかしその時はそう考える余裕などなく、自分でも驚くぐらいに頭に血がのぼった。
 それから先は、穏やかに話をするどころではなかった。こちらは怒って責めるような口調になるし、そうなればなるほど里佳の方は逆上する。そのうち「今まで黙ってたけど——」といったことを片端から挙げ始めた。いまだに名前で呼んでくれない、何かに誘うのもいつも自分から——あまりに多かったので全部の内容はいちいち覚えていないが。
 だが、最後に言われたことだけは、はっきり覚えている。
 『わかってたわよ、羽村くんが私のこと、本当は好きじゃないって』
 半分以上泣き顔で、里佳は言った。
 『ほんとに好きな人は別にいるって、とっくに知ってた——そうよ、あんな人が近くにいて、好きにならないわけない』
 そう言われてもなお、柊には何のことだかわからなかった。里佳が泣くのをこらえながら部屋を出ていった後もまだ、その意味を考えていた。
 (ほんとに好きな人は別に——)
 自分の近くにいる他の女といえば、幼なじみしか思い浮かばない。
 里佳が言っていたのはそれなのか。だが。
 (おれが奈央子を?)
 好きかどうかと聞かれれば、当然嫌いではない。
 生まれた時からの縁があるし、昔からいろんなことを相談して助けてもらってきた。一番長い付き合いの女友達、かつ姉妹みたいな幼なじみとして、大事に思っている。



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【3】-16:彼女という存在

 けれど、異性としてどう思っているのかと聞かれると……よくよく考えると、答えが出てこない自分に気づいた。
 そんなふうに意識したことがない、と言うのは少し違う気がする。奈央子がいわゆる「才色兼備」なのは確かだし、そのことは認めていた。
 しかし、子どもの頃から見てきた柊にとっては、ある意味でそれは当たり前すぎて……意識する必要もないぐらい、身近な存在だったと言うべきか。
 ふと、先月のことが思い出された——奈央子がドイツ語のノートを持ってきてくれた日のこと。同時に、その時に感じた焦りに似た気持ちも蘇り、途端に胸が騒ぐ。思いもしない反応とその激しさに柊はうろたえた。
 気分を落ち着かせようと、違うことを考えようとしているうちに、寝不足のせいもあってかしばらく眠ってしまったらしい。今は何時なのだろう。
 再びインターホンが鳴る。億劫で起き上がらずにいると、ドアの開く音がした。一瞬驚いたが、里佳が出ていった後、鍵をかけた覚えがないのを思い出した。
 「……柊、いるの、いないの?」
 しばらくの間の後、聞こえたのは奈央子の声だった。頭の中に残っていた靄が一気に取り払われる。
 慌てて起き上がった直後、幼なじみがそっと顔をのぞかせた。目を見開く。
 「なんだ、いるんじゃない。どうして電話に出なかったの?」
 そう言われてみれば、しばらく前に携帯が鳴ったような気もする……半分眠っていたし、面倒で出る気もしなかったのだが。
 答えを待たず、柊の様子と、部屋をさっと見回して、奈央子が言う。
 「今まで寝てたわけ? 風邪でも引いた?」
 「……いや、そういうわけじゃ」
 歯切れの悪い柊の返答に、奈央子が眉を寄せた。
 「じゃあ、どうしたのよ。1限に演習があったんでしょ? レポートの打ち合わせだったのに来なかったって、語学一緒の史学科の人が困ってたわよ」
 半分怒ったような口調だが、心配して言ってくれているのだとわかる。そのことが今はひどく嬉しくて、そして心地良かった。
 奈央子はその後しばらく、視線を下に向け、なにか考えているようだった。一度はこちらを見て口を開きかけたが、迷うような間を置いて何も言わずにまた視線を落とす。
 なぜかため息をひとつついてから、柊が座っているベッドの方へと近づいてきた。カバンを肩から下ろし、紙の束を挟んだクリアファイルを取り出す。



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【3】-17:泣かせた

 立ったまま、少し前かがみになった状態で、奈央子はその中身について話し始めた。
 「これね、その史学科の人から——根本さんだったかな。渡してほしいって頼まれたの。こっちが必要な資料のコピーで、こっちが今日話し合ったことの大まかな内容。早めに目を通して、夜にでも連絡してほしいって——」
 幼なじみの声を聞きながら、柊は不思議なほどの充足感が自分の中に広がるのを感じていた。
 彼女が近くにいるのがこんなに心地良いものだとは、今まで思いもしなかった。それが当たり前のことだったから——少なくとも、柊自身はそんなふうに認識していたからだ。
 顔を合わせることすらほとんどなかったこの何日かの間、奈央子のことを考えるたびに漠然と感じていた、空ろで居心地の悪い感覚。今はそれも消え、隙間が満たされていくような気持ちだった。
 目を上げて、奈央子の顔を見た瞬間、経験したことのない激しい衝動に襲われた。
 つき動かされる心のまま、奈央子の腕に手をかけて引き寄せる。いきなりバランスを崩されて倒れこむ体に、柊は腕を回した。この間と同じ、髪の甘い香りとなめらかな感触を確かめる。
 相手の戸惑いは伝わってくるが、抵抗は感じられない。それに背中を押された気分で、柊は奈央子を抱きしめる手に力をこめる。
 その時初めて状況に気づいたように、奈央子が腕の中で体をこわばらせ、逃れようと身じろぎした。だが離すつもりはなかった。肩に回していた手を、奈央子の頭を支える位置へと動かし——吸い寄せられるように唇を重ねる。そのやわらかな温もりに、柊が我を忘れてしまいそうになった時。
 必死にもがき続けていた奈央子の手が、胸の真ん中を思いがけず強く叩いた。不意をつかれ一瞬息ができなくなり、力がゆるんだ瞬間、柊は思いきり突き飛ばされていた。
 こちらがベッドの上に半ば倒れこむ間に、奈央子は素早く立ち上がり、カバンをつかんで玄関へと向かっていた。慌てて身を起こし、呼び止めようとする。だが。
 走りながら一瞬振り向いた奈央子の横顔。
 その頬に流れる涙に、声を失った。
 呆然と柊が見つめる前で、部屋のドアが閉まる。通路から階段へと駆けていく足音が小さくなり、やがて聞こえなくなった。
 フローリングの床に、奈央子が落としたファイルと、いくつもの紙束が散らばっている。それはそのまま、奈央子の動揺とショックを表しているように見えた。
 ——同じ日に、自分のせいでまた女を泣かせた。それはひどく心に重たい事実だった。
 そして、1人目よりも2人目の涙の方が、今の柊には何倍も重くのしかかっていた。



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