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2008年9月14日 - 2008年9月20日

【4】-1:翌日、水曜日

 「……奈央子? 目、真っ赤じゃない」
 翌日、水曜日。
 2時限目の英語学概論で会った彩乃は、奈央子の顔を見て開口一番そう言った。
 「——やっぱりわかる?」
 「わかるよー。どうしたの」
 「うん……ちょっと昨日眠れなくて」
 眠れなかったのは事実だが、理由を言う気にはなれなかったので語尾をにごす。幸い、彩乃は追求してこなかった。
 「そうなんだ。じゃあ語学概論、眠くなったらちょっと寝たら? 後でノートコピーしてあげるから」
 「ん、ありがと」
 少し笑ってそう答えた時、チャイムが鳴り、担当教授が教室に入ってきた。百数十名の英文科学生が一瞬ざわめいた後、波が引くように静かになる。
 ——90分後、終了のチャイムと同時に、再び教室内にざわめきが広がった。これから50分間は昼休みである。
 隣にいる彩乃が、「学食行かない?」と誘ってきた。食費節約のため、週に何度かは弁当にしている奈央子だが、今朝はさすがに作る気力がなかった。
 彩乃と連れ立って講義棟を後にし、学生食堂へと急ぐ。時間が時間だけに、入り口から中をのぞき見た限りでも、すでに大部分の席が埋まっているようだった。食券売場の前にも長い列ができている。
 しばし相談の結果、彩乃が券を買い、奈央子が席を探しに行くことにした。食堂の中に入り、2人分の席がないかと見回す——と。
 奈央子が立っている、テーブルとテーブルの間の通路、その延長線上に柊の姿があった。同じように席を探しているのか、食堂内をきょろきょろと見回している。
 思わず硬直したその時、柊がこちらに気づいた。はっと息を飲むようにわずかに口を開き、動きを止める。
 奈央子も、動くことができなかった。
 何秒か、何10秒かののち、柊がこちらを目指して歩き出そうとした。それを認めた途端、金しばりが解けたように、体が勝手に反応した。
 柊に背を向け、出入口を目指して走る。追いかけてきませんようにと願いながら、食堂を、学生会館をも走り抜け、建物の裏に出た。
 近くの石段に腰を下ろし、呼吸を整えていると、こちらに向かって走ってくる足音が聞こえた。反射的に立ち上がったが、姿を現したのが彩乃であるのに安心し、再び石段に座り込む。




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【4】-2:本気とは思えない

 「ど……うした、のよ」
 息を切らしながら尋ねる彩乃の手には、食券が2枚握られていた。そういえば完全に忘れていた。
 「……ごめん」
 食券に目をやりながら謝る奈央子に、彩乃は顔を近づけた。すでに隣に場所を確保して座っている。
 「それよりも理由を話してよ。ちょうど券を買って食堂に入ったところで、あんたを見つけたの。なんか様子が変だったから見回してみたら、羽村がいたでしょ。あっちが近づこうとしたらあんたが逃げて……羽村は追いかけようとしたけどやめたみたいだった。何があったの?」
 奈央子は、胸と喉につかえる苦みを感じた。
 見られてしまったのなら、話さなければ納得してもらえないだろう。……どのみち、彩乃にはいずれ気づかれるはずのことだ。いつまでも秘密にはしておけない。
 けれど、口に出そうとするとつらかった。言おうと何度も努力するが、言葉が出てこない。そんな様子に、彩乃は顔を曇らせた。小さな声で尋ねる。
 「そんなに言いにくいことなの?」
 逡巡した後、奈央子は首を振る。縦でなく横に。
 「——確かに言いにくいんだけど、でも……一人で考えてるともっとつらいから。あのね——」
 意を決して、昨日のことを全部話した。泣きながらマンションに帰り、夜もほとんど眠れなかったことも。
 聞き終わった後、彩乃はちょっと待っててと言いおき、建物の正面方向へ走っていった。10分ほどして戻ってきた時には、売店の紙袋を抱えていた。サンドイッチの包みを取り出し、奈央子に差し出す。
 「食べられる?」
 「……ありがとう」
 ミックスサンドと緑茶のボトルを受け取り、礼を言った。お互い、5時限目まで講義がある身だ。何も食べなかったら腹の虫の我慢が保たないだろう。
 しばらく、無言で食べることに専念した。
 最後の1口をお茶と一緒に飲み込んでから、「それで」と彩乃があらためて口を開いた。
「奈央子はどう思ってるの、……その、昨日のことの理由」
 尋ねられて、奈央子はどう言うべきか、頭の中で思いつく限りの言葉を反芻した。しかし結局、最初に思ったようにしか表現できないことに気づいた。
「——わからない、けど、本気だとは思えない」




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【4】-3:同じ日の夜

 同じ日の夜7時過ぎ。柊は住宅地の中の女性専用マンション、つまり奈央子の住むマンションの前にいた。入り口前を行き来したり、花壇を囲うレンガに腰かけたりしながら。
 本当は部屋の前まで行きたかったが、オートロック式だし、無理に入り込めば目立つだろう。奈央子に余計な迷惑はかけたくなかった。
 ——昼間、学生食堂で思いがけず会った時。
 どうすべきかしばらく迷ったが……ともかく謝らなければならない。だから話しかけようと近づきかけた途端、奈央子は逃げ出した。当然の反応だとは思ったものの、やはりショックだった。
 とにかく、昨日のことを早く謝りたかった——自分の理由がどうであれ、奈央子を傷つけたのは確かなのだから。
 だから4時限目が終わってすぐ、5時限目のノートを同じ講義に出る知り合いに頼み、このマンションへと走ってきた。学内で見つけてもまた逃げられるだろうから、帰ってくるのを待つつもりだった。
 念のため、着いてすぐにエントランスのインターホンを鳴らしてみたが、応答はなかった。……居留守を使われる確率が今までで一番高い状況ではあるが、少なくとも今日はまだ帰ってないと(希望的観測もあるが)直感で思った。
 それから2時間強。とうに日は沈み、辺りは街灯の光と、マンションから洩れる明かりのみ。待ち続ける間に数人の女性が出入りし、それぞれに程度の差はあれど、怪訝な目つきで柊を見た。そのたび、気まずいという言葉では足りないぐらいの気分がしたが、目的を果たさずに帰るわけにはいかない。
 ……しかし、できれば通報されたりしないうちに帰ってきてほしい。などと考えていると。
 視線の先、街灯に照らされて、こちらに歩いて来る姿が見える。
 奈央子だった。
 幸い、まだ柊がいることには気づいていないようで、少し顔をうつむかせたまま、マンションに近づいてくる。
 互いの距離が5メートルほどになった時、柊は立ち上がり、数歩前へ踏み出した。その時ようやく、そこに人がいることに気づいたらしく、奈央子が顔を上げる。
 柊の姿を認めた途端、予想通り表情をこわばらせた。
 数秒の静止ののち、慌ててマンションに駆け込もうとするが、それも柊は予測していた。エントランスに続く階段の手前で、奈央子の前に回り込むことに成功する。進路をふさがれて、奈央子は再び足を止めた。
 こわばった表情のまま、視線をあらぬ方向へそらし、まばたきを速くする。どう対処したらいいのかわからず、困惑しているようだった。




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