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2008年10月19日 - 2008年10月25日

【5】-1:12月

 5時限目が終わって外に出ると、もう真っ暗だ。
 12月になってから、日没の時間がさらに早くなったように感じる。実際、冬至までは今後も少しずつ早くなっていくのだろう、と奈央子は思った。
 あと2週間もすれば、年内の講義は終了し、冬期休暇期間に入る。今のところ、休暇中の課題提示はどの担当者からもされていないが、まだ油断はできない。英文学講読Ⅰの講師はレポート好きだし、2月の後期試験に代わる課題を出す講義があるとしたら、冬期休暇明け提出になる場合が多いと噂されているからだ。
 先ほどの英語音声学担当の助教授も、それらしきことを話のついでに口にしていた。もっとも、そうやって学生を脅して面白がる癖のある人物なので、信憑性がどれほどかはわからないが。
 それでもやはり気にはなる。今も並んで歩きながら、彩乃はぶつぶつと呟いていた。
 「ったくあのオヤジ、中途半端な言い方ばっかりして。結局、こっちを焦らせて自分が楽しんでるだけなんじゃないの」
 半ば本気で怒っているらしい。その気持ちは奈央子もわかるので、苦笑しながらうなずいた。
 「確かにそうかも、ってわりと本気で思っちゃうよね、あの人の言い方だと」
 「そうそう。なんだろ、欲求不満? 指輪してないし、多分独身だよね。あの性格じゃ彼女もいないんじゃないかな。ね?」
 「さあ、そこまではわからないけど」
 最寄り駅へと歩く途中、赤信号に捕まった。青になるのを待つ間、たまたま会話が途切れる。
 「……ねえ、ところでさ」
 彩乃がふいに、真面目な口調でそう切り出した。たぶんあのことだな、と条件反射で予測をする。
 「全然、連絡ないの? 羽村から」
 「——うん」
 「まだ何にも? もう2ヶ月近いじゃない」
 10月下旬のあの日から、再び柊とは話をしていない。奈央子が柊を避けがちなのは前と同じだが、今度は柊の方も、こちらに接触してこずにいる状況だった。
 大学祭には、彩乃のサークルのコンサートがあったし、初めての行事自体に興味もあったので、一応訪れてひと通りは見て回った。……柊のサークルの出店のことも覚えてはいたけど、やはり足を向けにくかった。しかしもらった割引券を無駄にしたら悪いかも、という思いもあって、遠くから柊がいないのを確認した上で、一度だけ行ってみた。



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【5】-2:戒め

 たまたま、券をくれた木下という学生が店番をしていて、割引以上のサービスをしてくれた。平たく言うと、タダで食べさせてもらった。
 ちょうど交替の時間だとかで、そばにいた学生にエプロンを押し付け、空いてるなら少し一緒に回らないかと言ってきた。サービスへの義理を感じて、一時間だけは付き合った。だがその後の「もし次の週末、予定なかったら映画でも——」という誘いには、謝りながら首を振った。
 木下氏は見るからにがっかりした後、「彼氏いるの?」と尋ねた。奈央子は少し迷ってから、彼氏はいないけど好きな人はいる、と正直に答えた。肩を落として店に戻っていく木下氏の後ろ姿に、やはり最初から断った方が親切だったかも、と後悔した。
 ……加えて、いっこうに「前向き」になれない自分が、ひどく腹立たしかった。いっそ、申し込んできた誰かと付き合うことを考えられればいいのに、そういうふうには割り切れなかった。その気もないのに良い顔をして、交際することはできない。好意を示してくれた相手に対して、断るのは気の重いことだが、誠意のない態度を取るのはもっと失礼だ。
 そう考えるのは、奈央子自身の主義でもあるが、何よりも思い切れていないからだ——柊への気持ちを。わざわざ髪まで切ったにもかかわらず。
 それなのに、あの日の柊の告白を信じられないでいる。……あまりにも予想外で、取り乱すほど驚かされたのは確かだ。しかし彼が、あの状況で、あんな嘘を言うとは思っていない。彩乃からも、羽村は本気だよと念を押されている——なのにどうして、信じることができないのだろう。
 本当は、自分で理由はわかっている。
 中学時代に一度、恋愛対象として見てもらうことをあきらめてから、その決心をずっと忘れないようにしてきた。柊が里佳と付き合い始めてからは、特にそうだった。好きでいることはやめずにいても、想いが成就する日は来ないから期待はするなと、言い聞かせてきたのだ。
 そのことが今も戒めになって、心を縛っている。 ……けれど、いつまでもそのことから目を背けているわけにはいかない。
 何度もそう思うのだけれど、どうしても一歩踏み出すことができないでいる。
 長年の自己暗示は、自分でも驚くほどに強力で、そして堅固なものだった。胸の奥底に、頑なに閉ざされた部分があるのを知りながらも、それを自力で開くことはとても難しく感じられた。
 何か、よほどのきっかけがなければ——
 「やっぱり、そっちから電話はしてないの」
 「ん——なんか、しづらくって」
 「まあ、わかるけど。あたしの方も相変わらずだから、奈央子が今かけてみても出ないかも知れないしねえ……」
 行動を起こすことを躊躇する奈央子に代わって、彩乃は数回、柊に連絡を取ってくれていた。それによると、当日の夜にはある程度の話をしたものの、それ以降は留守電か、つながっても短い会話しかできていないという。なにやら忙しいようなのだが、聞いてみても理由は言わず「時期が来たらちゃんと話すから」の一点張りらしい。



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【5】-3:信じること

 彩乃が「奈央子をほっとくつもり?」と脅し文句を出した時も、やや沈黙したものの、やはり同じ調子だったらしい。だが、
 『いずれ必ず連絡するから、奈央子にはそう伝えておいてほしい』
 そう言った口調がとても真摯なものだったので、彩乃はそれを信じることにしたという。歯がゆい気分は変わらないけど、と後に付け加えはしたが。
 「昨日も電話してみたけど、やっぱり留守電だったわ。ちょっと腹立ったから、いいかげん何とかしろってメッセージ入れといた」
 「どんなふうに?」
 「そりゃもう、ドスのきいた感じでね」
 と言って彩乃が実演したので、奈央子も「そんなのが入ってたら怖いだろうね」と太鼓判を押した。
 「でしょ、それが目的だもの。なのに効いてないのかね、あの朴念仁には」
 「……忙しいんじゃないの、まだ」
 確かに、たまに見かける最近の柊は、いつもバタバタとした様子でいる。講義には出席しているが、たいてい来るのは直前で、時には遅刻してきたりもする。今日のドイツ語Aでもそうだった。そして、終了後はまたバタバタと荷物をまとめて教室を走り出ていく。
 こちらには声をかける気配がないので、奈央子はほっとしているのだが、一抹の不安はあった。先がわからない不安とでも言おうか。
 彩乃に明言しているのだし、柊が今の状態のままでいるとは考えにくい。……だが、もし万一、自分や彩乃の考え違いだったら。このまま、話すどころか見かける機会も少なくなってしまったら。
 柊が何をしていて、どうするつもりなのか予測ができないので、そんなことはないはずだと思いながらも、気がかりな思いを捨てきれなかった。
 ——もし、柊が離れていってしまったら。
 そんな不安を口にすると、間髪入れずに彩乃は奈央子の頭をこづいた。
 「バカ言ってんじゃないの。そんなわけないでしょう」
 「でも……」
 「信じることにしたんでしょ?」
 「……うん」
 「だったら、待ってあげなさいよ。まあとりあえず今年いっぱいぐらいは。それでもなにも言ってこないようだったら、あたしが怒鳴り込んでやるから」
 真剣に言ってくれる彩乃の気持ちが、とても嬉しくて有難かった。
 「わかった。その時はよろしくね」
 そう応じると、彩乃はくすりと笑った。奈央子も微笑み返した。



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