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第1章・4

 再びカップを取り上げ、一口飲んでから、
 「いや、4月以降は……先週に約束してたけど急にダメになって」
 軽く言おうとしているけれど、どことなく無理を感じさせる響きがある。
 「ダメになったって、どっちの都合で?」
 「茉莉さんの方。急に入った重役接待にどうしても同行しなきゃいけなくなったからって」
 と言っている間、先生はほとんどわたしと目を合わせない。そうすることが徐々に増えているのに、先生は気づいているだろうか。
 祐太先生と姉が恋人同士になってから、何年経つのか——わたしが中学を卒業する前に二人が付き合い始めたから、丸4年が過ぎたわけだ。
 実は理子ちゃんのお姉さんが好きなんだけど、と先生に打ち明けられた時のことは、今でもはっきり覚えている。あんなにショックで、頭がくらくらして何も考えられなくて、泣き出してしまいそうなのを必死にこらえていた瞬間は、後にも先にもなかったから。
 先生にとってわたしが生徒以上でも以下でもないのは、それより前からわかっていたことだ。彼女がいないことは知っていたから、冗談ぽく「じゃあ、わたしが彼女になってあげようか?」と言ってみたことが何回かある。そのたび先生は、さっきと全く同じように目を丸くしてから笑って「理子ちゃんは可愛いけど、大事な生徒さんだから」と言うばかりだった。
 一度でも本気に取ったことがあるのかないのかはともかく、少なくともわたしと付き合うという選択肢を先生が考えたことがないのは、その表情と声音でよくわかった。
 そして、祐太先生が姉を好きなことも、とっくに気づいていた——初めて二人が顔を合わせた時、先生がどんな目をしていたか、今でもはっきり覚えている。
 いきなり夢の中に飛び込んだような……見ているものを信じられないと思いながらも、それ以外に世界に存在するものがないように見つめる、心ここにあらずの目。
 茉莉ちゃんを初めて見た男の人は、たいてい同じ目をする。ああいうのを一目惚れっていうんだろうなと、それまでにも何度も思ったものだ。
 ただしその時違っていたのは、いつもなら気がつかない素振りで受け流す姉が、びっくりしたように先生の視線を受け止めていたこと。そして、先生に返した、いつもより格段にきれいな笑顔。
 だから最初からわかっていたのだ。けれど、二人とも何も言わなかったから、わたしも気づかないふりをした。いつか現実になると、わかっていても考えたくはなかったから——大好きな先生が、よりによって姉と付き合うなんてことは。
 しょせん意味のない努力、無駄なあがきだった。
 しかたない、先生が幸せならいいとずっと自分に言い聞かせてきて、実際にそう思ってもいた。
 ……なのに、ある日わたしは気づいてしまった。
 いつ頃からそうだったのかはわからない。けれど確かに、先生が茉莉ちゃんに対して、複雑な感情を持っていることに。
 「じゃあ、研修から帰ってきたら、会う約束はしてるの」
 この連休、今日からの3日間、会社の保養施設での新入社員研修に茉莉ちゃんも参加している。
 先生はしばらく首をひねってから、答えた。
 「……わかんないな、かなり忙しそうだから」
 「先生だって忙しいの同じじゃない。一日ぐらい、休みが合う時とかあるでしょ?」
 たたみかけるように言うわたしに、先生が返した笑みは、今度は苦笑いと呼べるもの。
 「ごめんなさい、余計なお世話だったね」
 だからわたしは素直に謝る。
 すると先生は、笑い方をやわらげて言うのだ。
 「理子ちゃんは優しいね、心配してくれてありがとう」
 そう言われて、わたしはいつも笑い返しながら、もうひとりの自分が先生の言葉を否定しているのを感じている。
 ——優しくなんかない。
 二人のことを気にかけてはいる。
 けれど、それ以上に、茉莉ちゃんへのコンプレックスを先生と共有できている事実に、満足感を覚えているのだから。

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