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第4章・5

 どんな時でも先生は、わたしの前ではできるだけ笑おうと努める。今だってそうだ。やり場のない、辛い気持ちでいるのは明らかなのに。
 わたしにはこれ以上、何もできないのだろうか。できることなら何だってするのに……少しでも先生を、なぐさめてあげられるのなら。
 家に、少しずつ近づいている。それに比例して心はせき立てられ、逸った。
 今までに先生に呼び出された時と同じように、今日は、講義の後は友達と食事に行くと言ってある。終電がなくなるほど遅くなるのでない限り、帰りが何時でも両親は何も言わない。……今は、まだ8時にもなっていない。
 最寄り駅から家へ向かう途中の道。急に足を止めたわたしに、先生はすぐには気づかなかった。何歩か先へ行ってからやっと振り返り、何秒かの沈黙の後「どうかした?」と言いながら引き返してきた。
 一番近くの電柱の照明は、しばらく前から蛍光灯が切れかかっていて、今は残り火のような光も点滅を繰り返している状態。周りの家々も、半分ぐらいは留守なのか、室内から明かりは漏れていない。
 加えて空が曇っているから、わたしの立ち止まったあたりはかなり暗かった。
 先生がすぐ前まで来るのを見計らって、わたしはさらに一歩前に踏み出し、先生のスーツの袖をつかんだ。
 半ば胸に飛び込むような形になり、見上げた先生は驚きに目を見開いて、口をぽかんと開けたまま、固まっている。
 彼女になってあげようか、と言ったことは何度もあるけど、冗談ぽくであっても、今ほどに物理的な距離を縮めたことはなかった。
 スーツの袖の上から、腕をさらに強くつかむ。
 先生の目に今どう映っているのかはわからない。が、少なくともわたし自身は今までで一番真剣で、そして切実な気持ちでいた。
 「……彼女にしてほしい、って言ったらやっぱり冗談だと思う? 先生」
 「理子ちゃん」
 「いいの、わかってる。わたしのこと、そんなふうに思えないことは」
 今でも親切にしてくれるのは、元生徒で、好きな人の妹だから。
 「それでもいい。……けど、あの人が先生を悲しませるのなら、わたしがいくらでも償う。いつでもなぐさめてあげる。先生がしてほしい方法で」
 先生は背が高いからやせて見える。けれど抱きついた胸は、充分に広かった。
 男の人なんだと、頭だけでなく初めて全身で実感した。——わたしのことも女だと意識してほしい。茉莉ちゃんの代わりでいいから、今は抱きしめてほしい——
 強くしがみついたその想いが、伝わったのかどうか。わからないけれど、先生は抱き返してくれた。最初はおそるおそる、ためらいがちに。次第に力を込めて。

 唇が下りてきたその時、わたしは確かに、暗い喜びを感じた。

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