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2009年8月9日 - 2009年8月15日

第2章・1

 「……あれ、帰ってたの」
 午前1時すぎ。両親はとっくに眠っている。
 「ん、ついさっきね」
 答えながら微笑む顔には、毎日遅くて疲れているはずなのに、そんな様子は微塵も浮かんでいない。
 蛍光灯がひとつ点いただけの台所で、シンクの前にたたずんでいる姿でさえ絵のように見えるのが、茉莉ちゃんという人だった。
 「まあちゃんこそまだ起きてたの。勉強?」
 「レポート書いてた。明日提出だから」
 「そう。難しいところがあったら手伝うけど、大丈夫?」
 もうほとんどできてるから大丈夫、と言ったのだけど、茉莉ちゃんはなおも「大学の方はどう、何か困ってることない?」と聞いてくる。
 当人は、本心から助けになりたくて聞いているつもりで、言われている側からも実際、そんなふうにしか見えない。
 ……嘘がないだけに、わたしには、かえってタチが悪いと思えてしまう時がある。最近は特に。
 「わたしのことより、茉莉ちゃんこそどうなのよ」
 「え、私はなんとかやってるわよ。忙しいけど面白いこともたくさんあるし、みんな親切だし」
 それはそうだろう。姉に親切にせずにいられる人がいたら、連れてきてほしいものだ。これだけ目立ちながら人の反感を買ったことが(少なくとも知る限りでは)ないどころか、老若男女、ことごとくに好かれてしまうのだから。
 「会社じゃなくて、祐太先生のこと」
 と言うと、茉莉ちゃんはきょとんとする。
 「祐太くん?」
 その表情は、これ以上ないぐらいに「それがどうかした?」と言っていて、わたしは内心苛立った。
 「……最近、全然会ってないって聞いたよ。大丈夫なの」
 「あら、まあちゃん会ったの。元気にしてた?」
 目を丸くして、何の含みもなしに尋ねてくる。
 「どうしてわたしに聞くのよ。直接聞けばいいじゃない」
 「聞いてるけど、メールや電話じゃわからないこともあるでしょう。あんたが見てもちゃんと元気だった?」
 迷いながらも、結局わたしは答える。
 「……元気だったよ。そんなに気になるなら、自分で直接確かめたらどうなの」
 と続けると、茉莉ちゃんは、困ったような笑みを口元に浮かべた。憂いの表情を絵に描いたらこんなふうになるだろう、という具合に。
 「そうしたいけど忙しいのよ。だからその分、電話とメールはこまめにしてるつもりなんだけど」
 「忙しいったって、休みが全然ないわけじゃないんでしょ。土日がダメでも平日の夜とかさ、習いごと1回ぐらいさぼったっていいじゃない」
 「そういうわけにはいかないわ。どれも大事なことだし、先生に申し訳ないもの」
 少し語気を強くして言い募るわたしに動じることなく、茉莉ちゃんはあくまでも冷静に答えを返す。
 その口調は、聞き分けのない子供を教え諭すような、静かで柔らかいながらも厳しさを秘めたもの。決して強い調子でも押し付けがましい物言いでもないのに、些細であっても悪いことを言ったのはこちらなのだから反省しなくてはいけない、という気分を起こさせる。
 昔からそんなふうに、自分が正しいと思っていることは、力技をひとつも使わずに相手に納得させてしまえる人。

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