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2009年12月20日 - 2009年12月26日

第5章・1

 「ねえ、先生」
 「……理子ちゃん、こういうとこではそう呼ばないでほしいんだけどな」
 「なんで?」
 「なんでって、……つまり」
 そこで言葉を切り、ずいぶんと困った表情をしてこちらを向いた。わたしは、ことさらに首をかしげて、祐太先生の目をまっすぐに見返す。
 あの日以降、先生と会う頻度は増えていた。
 先生の仕事が早く終わる日——そして茉莉ちゃんが忙しくて遅くなるとわかっている日は、わたしの都合さえつけば必ず会った。
 行き先は、これまでに行ったことのある場所や店より、全然知らないところを選ぶ場合が多い。その中には、時には「こういうとこ」も含まれる。
 最初からそうなったわけじゃない。けれど2度目には、誘うでも誘われるでもなく自然にこの場所まで来て、そんなふうになった。
 あの日以来、会っている時はいつもだけど、ここでは特に、先生は「先生」と呼ばれるのを嫌がる。
 なぜ嫌がるのか、今みたいに理由ははっきりとは言わないけど、なんとなくはわかる。そう呼ばれるたびに、自分の立場と今の状況を並べて考えてしまうのだろう。
 逆にわたしは、困る様子がおもしろくて、わざと呼んだりもするのだけど。
 あくまで無邪気さをよそおって見つめていると、先生は目をそらしてしまった。一生懸命、指に挟んだタバコに集中しようとしている。
 わたしは起き上がり、上半身を一度伸ばしてからベッドから降りた。床に散らばっていた服を拾って身につける。わりとゆっくり、時間をかけていたにもかかわらず、先生は一度もこちらを振り向かないままだった。それも、いつものことだ。
 ホテルを出てからしばらくの間は、手をつないで歩く。わたしからつないだ先生の手は、引っ込められはしないけど、いつもかすかに強張っているのがわかる。
 だからわたしも、人通りの多い駅前通りに差し掛かる前に、自分から手を放す。そうしてもともとの関係、元家庭教師と生徒の顔をして、歩き続ける。おやすみなさいと言って別れるまで。
 そんなふうな逢瀬が、かれこれ1ヶ月近く続いていた。

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第5章・2

 「おかえり」
 その夜、帰ったら茉莉ちゃんに出迎えられて、驚いた。この春就職してからは一度もないことだったし、状況が状況だったから。
 「……あ、帰ってたんだ。もっと遅くなるんじゃなかったの」
 「まあちゃん、今何時だと思ってるの。十時よ?」
 「でも、もっと遅い時だってしょっちゅうあるじゃない」
 言いながら、家の近くまで送ってもらわなくてよかったと思った。もっとも、こうなる前ならともかく、それ以降はいつも駅で別れているけど。
 「デートだったの?」
 心臓が一度、跳ね上がった。でも顔には出さず、そ知らぬふりでいられたと思う。
 「どうして?」
 「だって最近、まあちゃん楽しそうだから」
 と言われて湧き上がってきたのは後ろめたさと、同じぐらいの割合で、意地の悪い嬉しさ。相反する感情は、今この場では後者の方が勝った。
 抑えられない笑みとともに「そうかな」と言う。
 「そうよ。それに、なんだか綺麗になったし」
 不意を突かれた気分で、ちょっと沈黙してしまった。
 「……茉莉ちゃんに言われても誉められてる気がしないなー」
 「何言ってるの。まあちゃんは充分可愛いわよ、子供の時からね」
 全く嘘の感じられない口調と、やわらかい笑み。その時になって急に、後ろめたさが心の中で優勢に転じた。茉莉ちゃんの顔を見ていられなくて、目をそらす。それに気づいて律儀に「どうしたの?」と聞いてくる、何の疑いも持っていない声。
 「なんでもない。明日1限からだから寝るね、おやすみ」
 「え、ちょっとまあちゃん」
 お風呂は、と追いかけてくる声に「早起きして入る」と振り向かないまま返し、2階へ駆け上がる。
 部屋のドアを閉めて、大きく息をついた。
 つい1時間前まで、わたしと先生が裏切っていたなんて、露ほども考えていない綺麗な顔——清らかすぎて、わたしが見ても愚かに思えるほどに。
 それでいて、見ているとその清らかさに、罪悪感をかきたてられずにはいられない。

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