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第6章・4

 ……一度だけ、見送りに出た際に茉莉ちゃんが先に家に入って、二人きりになったことはある。その時、先生は、玄関の奥を窺ってからわたしを見て、なんともいえない表情をした。何か言おうと口を開きかけたのをさえぎるように、わたしは笑ってみせた。自分にできる最高の笑顔のつもりで。
 『茉莉ちゃんをよろしくね、お義兄さん』
 声を震わせることも笑顔を引きつらせることもなく、言えたはずだ。理子ちゃん、とつぶやいた後の沈黙に、先生が何を考えていたのか——たぶん「ごめん」と「わかった」のどちらを言うべきか悩んでいたのだろう。
 けれど結局どちらの言葉も続くことはなく、なお笑顔を保っていたわたしの目を見て、うなずくにとどまった。そして、すごく努力して感情を抑えた、というような声で『……元気で』と言った。
 『うん、先生も。——今までありがとう』
 向こうでの生活が落ち着くまで式はしないことになっていたし、その日は、両親が根負けして意見を曲げた日でもあった。だから当分会うことはないだろうと思ったら、自然に最後の言葉が出てきた。
 先生は表情を一瞬歪めたけれど、何も言わなかった。そのまま手を振って、別れた。
 全く傷つかなかったわけではないし、悲しくなかったわけでもない。けれど、わたしは今でも本当に後悔してはいなかった。自分の気持ちを先生にぶつけたことも、その結果も——悪いことをしたのはむしろ、わたしの方だ。
 先生はこの先当分、あのことを引きずるかもしれない。だからせめてわたしは、平気な顔をし続けなくちゃいけない。
 平気だと思えるようにならなければいけない。
 でなければ、先生を好きになったこと、ひいては出会ったことまで、いつか恨むようになるかもしれない。それだけは絶対に嫌だから。
 先生に出会ってからの6年を、否定する自分にはなりたくなかった。好きになってはもらえなかったけれど、先生を好きでいたことで、確かに幸せな時もあったのだから。
 話が終わって、しばらくはお互い沈黙していた。
 ふと気づくと次の講義の時間が迫っていたので、会計を済ませて急ぎ足で出る。図書館を出て講義棟へと向かう途中、ふいに振り向いた亜紀がぽつりと言った。かすかな微笑みとともに。
 「がんばったね」
 すとんと、胸にその言葉が落ちた時、目頭が一瞬熱くなった。
 「……うん」
 短くうなずきながら、すべり落ちた一粒の涙を、見られないように素早くぬぐった。

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