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『リスタート』(10)

 就職して以降、慣れない仕事のことで柊がしょっちゅう愚痴らずにはいられなかったように、奈央子にもいろいろ思うことはあったはずである。だが、彼女が何も言わず聞き役に徹しているのをいいことに、自分の言いたいことは遠慮なく吐き出しても、逆に彼女はどうなのかと聞いてみたことはめったになかった。考えることすら少なかった。
 「——それが、おれが気を遣ってやらなかったせいだとしたら、ほんとに悪かったと思う。今さらだろうけど……だから」
 この期に及んでも、その先を口にするのは相当の勇気が必要だった。何とかかき集めて、一日中考えていたことを言葉にして声に出した。
 「だから、もしおまえに愛想つかされてるんだとしても、それはしょうがないと思う。別れたいと思ってるなら、言ってくれればいつでもそうする」
 一息に言って口を閉じ、相手の反応を待った。
 途中までは真面目な顔で聞いていた奈央子は、最後の部分を聞くうちにぽかんとした表情になった。柊を見つめたまま、その表情はまだ変わらない。
 柊も同じく見つめ返していると、急に奈央子の顔から一切の表情が消えた。あまりに突然でしかも予想外だったので、少なからずうろたえていると、
 「————そんなこと考えてたの」
 抑揚のない、おそろしく低い声音で奈央子が言った。直後、立ち上がって柊のそばに来ると、無言で柊の左頬をひっぱたいた。平手で、それほど勢いもなかったから痛みは少ないが、奈央子がそうしたことに対する衝撃は強かった。お互い、相手に手を上げたことはこれまで全くなかったからだ。
 「わたしの話が別れ話かも知れないって思ってたわけ? …………まったく、あんたってどれだけ鈍いのっていうか、ズレてるっていうか……」
 まあどうせ気づいてないと思ってたけど、とつぶやきで奈央子は付け加えた。こちらを見る視線はなにやら奇妙な——少々恨めしげな感じである。しかし理由がわからないので沈黙するしかない。
 そんな柊の様子に奈央子はため息をつき、なぜか泣き笑いに近い表情を浮かべる。それからおもむろに「……あのね」と、顔を柊の耳の方へと近づけてきた。戸惑ったままの柊に、奈央子は小さな声で短く、あることを告白した。
 「……………………え」
 聞かされたことを認識するのに、かなりの間が必要だった——それでもなお、理解にはまだ至っていない。顔を赤らめながら奈央子が言い足す。
 「もうすぐ3ヶ月目だって、今日病院で」
 そしてだめ押しのように、自分自身の腹にそっと両手を当てる。そこまでされてはさすがに、理解しないわけにはいかなかった。

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