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『気分転換、もしくは休息の一日』〔1〕

 寝過ごした上に、人身事故のせいで乗った電車が止まってしまった。停車して15分近く。今から動いても絶対に間に合わない。
 『わかった、急がなくていいから。焦ってあんたまで怪我とかしないでよ』
 奈央子はそう言ったが、今すぐにでも窓から外に出て、線路を走りたい心境だった。近頃疲れてるみたいだから気分転換しよう、と彼女が誘ってくれた今日のデートなのに、彼女を待たせるなんて。
 卒論の資料読みとエントリーシート記入の練習で徹夜するのは、近頃の日常になりつつある。だが昨夜ぐらいやめておくべきだった、と柊は心の底から思った。

 待ち合わせ場所を目前にして思わず立ち止まる。
 ターミナル駅の構内、各方面への改札へ続くコンコースの中央にある大きな柱時計。その周囲に置かれたベンチの一つに奈央子は座っていた。手にした新書サイズの本を一定時間真剣に見つめ、ページをめくることを繰り返している。
 同じベンチには他に誰も座っておらず、両隣にも人はいなかった。時計の真上に作られた窓から秋のやわらかい光が差し込み、彼女に降り注いでいる様は、一枚の絵のようだった。
 物心つく前から知っていて、付き合うようになってからも2年近く経つ。それなのにまだ時々、今のように彼女に見とれずにはいられない瞬間がある。
 清楚とか清純とか、今では使える場合も少なくなってしまったような表現が、奈央子にはこの上なく似合う。もともと美人だけど、20歳を過ぎたあたりからは、加速度が増したような勢いで綺麗になっている気がする。
 奈央子が「彼女」であることが信じられなくなるのはこういう時だ。こんなに綺麗で可愛い子が自分を好きでいてくれているなんて、何かの間違いではないのかとさえ思ってしまう。
 何かに気づいた様子で顔を上げた奈央子が、こちらを向いた。立ち上がりながら浮かべる微笑みは、本当に可愛らしくて――
 「なに、ぼーっとして。そんなに寝不足?」
 はっと我に返ると、真正面、30センチぐらいにまで奈央子が近づいてきていた。急に落ち着かない気分が襲ってくる。見とれていた、と正直に言うのは照れくさい。
 「え、いやその……今読んでたの何」
 質問と全く関係のない、しかも質問返しの発言に首を傾げられたが、まあいいかと思われたのか追及はされなかった。
 「般教の用語集。あんたも読んどく?」
 言いながら、本を目の高さに掲げる。教職志望の奈央子は、この春から教員採用試験対策の勉強を始めた。3年になるかならないかの時期で早すぎないかと言ったところ、
 『だってすごい範囲広いのよ。特に般教なんか、何が出るのか予測できないもの。遅くて後悔するより早い方がいいでしょ』
 と返された。般教、つまり一般教養分野は国語や社会系科目の知識、数学的計算問題にまで出題が及ぶらしい。全てを等しく勉強するには長い期間が必要に違いなく、真面目な彼女らしい正論である。
 そして、一般企業の筆記試験とも般教は無縁ではないから、勉強しておくべきなのは確かなのだが、
 「ん――まあ、そのうち貸してもらうかも」
 ついそう答えてしまう。正直、そこまでの余裕は時間的に持ちづらかった。それどころかサークルの先輩から、あるいは就職セミナーなどで聞かされる厳しい現状と就職活動の困難さに、早くもくじけそうになっている。

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