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『気分転換、もしくは休息の一日』〔6〕

 「は?」
 とんでもない勘違いを聞いたように反応された。だがそれも当然だろう。柊はついに観念した。
 「……いや、いつもの調子で飲んだらアルコールの回りが速くてさ、ヤバいなと思って。ああでもしてないと、歩きながら寝れそうなぐらいだったから」
 「…………」
 奈央子は絶句してしまった。怒るべきなのか呆れるべきなのか、決めかねているような表情で。支える杖か棒代わりにされていたと言われればそうなるだろう。ましてや、彼女は悩んでいたのに——
 そう考えてからはっとして、奈央子をまじまじと見つめる。いくらか意外な思いで、思い浮かんだことを口にした。
 「——ひょっとして、それずっと悩んでたの、おれが寝てる間」
 言った途端、奈央子は目を見開き、さらに言葉をなくしたかのように唇を引き結ぶ。ふいと横を向いた顔が赤く見えるのは、オレンジがかった店内の照明のせいだけではない気がする。
 可愛い、と今日一番強い感情で思った。彼女は真面目だから、ひょっとしてと可能性を思いついてからずっと、そればかり考えていたのだろう。見当違いの方向とはいえ、柊に申し訳ないとまで思って。
 そっぽを向いたまま、表情も動きも固まった状態でいる奈央子の姿に、唐突に衝動が湧き起こるのを感じた。
 左手で膝をつかみ、強い感情で体が震えてくるのを抑えながら、テーブルに身を乗り出す。
 「……じゃ、ちょっとだけ希望言っていっかな」
 できるだけ声を低くひそめるのも、これから言う内容を気にすると同時に、声がうわずらないようにするためである。雰囲気の違いを感じてか、奈央子はやや緊張した面持ちでこちらを見た。
 「なに?」
 「今日、する気ない?」
 たぶん3秒ぐらい、沈黙があった。次いで爆発的な勢いで顔に血をのぼらせ、奈央子は飛びのいた。
 「……ばっ、な……こっ」
 バカ何言ってんのよこんなとこで、と言いたかったのだろう。だがうろたえるあまりろくに発音できていない。
 真っ赤な顔で口をぱくぱくさせる彼女の反応に、今度は急激に笑いがこみ上げた。すぐに口を押さえはしたが、肩の震えと表情はどうしても抑えきれない。
 「…………可愛すぎ」
 我慢しきれずにつぶやいた声が聞こえたらしく、奈央子の表情が一変した。一息にコーヒーを飲み干してからじろりと睨み、低い声音で宣言する。
 「それ以上笑うつもりなら、就活で休んだ分のノート貸さないからね」
 『学科が違うから専門は協力できないけど』と言って、今年度は自由履修でできるだけ同じ科目を取ってくれているのだった。え、と笑いを引っ込めた柊を置き去りに、奈央子は席を立って店を出ていく。
 さすがにまずいと思い、慌てて後を追った。おそろしいほどの早足で歩く奈央子に、駅方向へ十メートルほど進んだところで追いつく。
 「ちょ、待てって——ごめん、笑いすぎた」
 心の底から謝ったのだが、彼女はまだ憮然としている。
 「けどほんと、可愛かったから」
 と躊躇なく続けたのはかなり無意識だった。言ってから自分で少なからず驚き、奈央子はこれ以上ないほどに目を見張る。
 追いついた際につかんだ彼女の右手が、じわりと熱くなった気がした。息を吸い込み、手の力を少しだけ強める。
 「で、さっきの、マジなんだけど……だめ?」
 奈央子が息をのむ音が、確かに聞こえた。手と唇がかすかに震え、今にも泣くかもと思うほどに目が潤んでくる。
 うつむいてしまった彼女が、硬い声で「……疲れてるくせに」とつぶやくのも聞こえた。やっぱこんな流れじゃ拒否られるよな、と反省し、もう一度謝りかけた時。
 ふうっと息をついた彼女の口元が、笑みを形作ったことに気づいた。はっとして思わずのぞきこむ。
 「バカすぎる、あんた」と言った声は先ほどよりも大きい。だがその口調はなんだかやわらかくて、涙があふれそうな目をしながらも微笑みを浮かべている。そして奈央子は、手を強く握り返してきた。
 「え、…………いいの?」
 おそるおそる確認した柊に、奈央子ははっきりとうなずいてくれた。はにかみながらも嬉しそうな、とても可愛らしい笑顔で。

                             —終—

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