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2010年7月

現状:10.7.4

『ココロの距離』ショートストーリー第2弾。
とりあえず最後までは書きました。……が、最初の3ページほどを書き直すつもりなので、公開にはあと数日を要すると思います。
お待ちくださっている方々には申し訳ありません。今しばらくお待ちくださいませ。

その一方で、明日からはオフで発行する次刊の原稿に取りかかる予定です。
今のところここでは公開する予定のない、手持ちの架空世界ものシリーズ短編。
……ファンタジーと言い切れないのは、作者から見ても全然ファンタジーっぽくないからです、はい(爆)

2010年後半も、じわじわと頑張ります。
少しでも長くお付き合いいただければ幸いです。

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予定告知:10.7.8

ショートストーリーその後。
視点を入れ替えつつ、最終的に3バージョン書きました。
3番目に書いた分を公開する予定ですが、もう一度読み返して細部の訂正をしますので、アップ開始は土曜日からといたします。遅くなりまして申し訳ありません。

そういえばその日(7/10)で、当ブログも丸2年(厳密な2周年は翌日、7/11ですが)。
最初はどうなることかと思いましたが、休みつつもなんとか続けられている現状を有難く思います。読みに来てくださる方々の存在が、確かに力になっていると感じております。

ご訪問の皆様ひとりひとりに、心からの感謝を。

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『気分転換、もしくは休息の一日』〔1〕

 寝過ごした上に、人身事故のせいで乗った電車が止まってしまった。停車して15分近く。今から動いても絶対に間に合わない。
 『わかった、急がなくていいから。焦ってあんたまで怪我とかしないでよ』
 奈央子はそう言ったが、今すぐにでも窓から外に出て、線路を走りたい心境だった。近頃疲れてるみたいだから気分転換しよう、と彼女が誘ってくれた今日のデートなのに、彼女を待たせるなんて。
 卒論の資料読みとエントリーシート記入の練習で徹夜するのは、近頃の日常になりつつある。だが昨夜ぐらいやめておくべきだった、と柊は心の底から思った。

 待ち合わせ場所を目前にして思わず立ち止まる。
 ターミナル駅の構内、各方面への改札へ続くコンコースの中央にある大きな柱時計。その周囲に置かれたベンチの一つに奈央子は座っていた。手にした新書サイズの本を一定時間真剣に見つめ、ページをめくることを繰り返している。
 同じベンチには他に誰も座っておらず、両隣にも人はいなかった。時計の真上に作られた窓から秋のやわらかい光が差し込み、彼女に降り注いでいる様は、一枚の絵のようだった。
 物心つく前から知っていて、付き合うようになってからも2年近く経つ。それなのにまだ時々、今のように彼女に見とれずにはいられない瞬間がある。
 清楚とか清純とか、今では使える場合も少なくなってしまったような表現が、奈央子にはこの上なく似合う。もともと美人だけど、20歳を過ぎたあたりからは、加速度が増したような勢いで綺麗になっている気がする。
 奈央子が「彼女」であることが信じられなくなるのはこういう時だ。こんなに綺麗で可愛い子が自分を好きでいてくれているなんて、何かの間違いではないのかとさえ思ってしまう。
 何かに気づいた様子で顔を上げた奈央子が、こちらを向いた。立ち上がりながら浮かべる微笑みは、本当に可愛らしくて――
 「なに、ぼーっとして。そんなに寝不足?」
 はっと我に返ると、真正面、30センチぐらいにまで奈央子が近づいてきていた。急に落ち着かない気分が襲ってくる。見とれていた、と正直に言うのは照れくさい。
 「え、いやその……今読んでたの何」
 質問と全く関係のない、しかも質問返しの発言に首を傾げられたが、まあいいかと思われたのか追及はされなかった。
 「般教の用語集。あんたも読んどく?」
 言いながら、本を目の高さに掲げる。教職志望の奈央子は、この春から教員採用試験対策の勉強を始めた。3年になるかならないかの時期で早すぎないかと言ったところ、
 『だってすごい範囲広いのよ。特に般教なんか、何が出るのか予測できないもの。遅くて後悔するより早い方がいいでしょ』
 と返された。般教、つまり一般教養分野は国語や社会系科目の知識、数学的計算問題にまで出題が及ぶらしい。全てを等しく勉強するには長い期間が必要に違いなく、真面目な彼女らしい正論である。
 そして、一般企業の筆記試験とも般教は無縁ではないから、勉強しておくべきなのは確かなのだが、
 「ん――まあ、そのうち貸してもらうかも」
 ついそう答えてしまう。正直、そこまでの余裕は時間的に持ちづらかった。それどころかサークルの先輩から、あるいは就職セミナーなどで聞かされる厳しい現状と就職活動の困難さに、早くもくじけそうになっている。

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『気分転換、もしくは休息の一日』〔2〕

 だが負けるわけにはいかない。そんなふうに思うのは奈央子がいるからだ。彼女はまず間違いなく、来年の採用試験に合格するだろう。だから自分もせめて、新卒で就職しなければならない。でなければ……有り体に言えば、格好がつかないから。
 それに就職浪人などしようものなら、両親はともかく、姉はまた持ち前の毒舌で存分に攻撃してくるだろう。それだけは回避したい、と切実に思う。
 「そう? ちょっとずつでもやっといた方がいいわよ。さてと、20分の遅刻だから、今日はおごってあげるつもりだったけど2割払ってね」
 「あ、おれが全部出すから」
 予定通りに起きていれば事故に行き合わず、遅刻もしなかったのだから当然だ。だが奈央子は笑い、顔の目で手を振った。
 「いいって。バイト、就活で前ほど行けてないんでしょ。こないだ行った時の10%引き券もあるし……あ」
 しまった、というふうに口を押さえる奈央子に、柊は意外な思いで「え、行ったことあんの」と尋ねた。今日行く店は『おいしい店だとこないだ友達に教えてもらった』と聞いていたのである。
 上目遣いにこちらを見た奈央子は、何やらばつが悪そうな表情をしている。しばらくの沈黙の後「実はね」と、ためらいがちに口を開いた。
 「先週行ったの。くーちゃんと」
 奈央子だけが呼ぶ姉・公美の愛称に、反射的に顔をしかめてしまった。
 「先週わたし、実家帰ったでしょ。家に戻る時にここで、くーちゃんが職場の人と飲み会行くとこに行き会わせて、そしたら就活の激励したげるって誘われて。わたしは、あんたも呼ぼうかなって電話しかけたんだけど、……『時間もったいないから』ってくーちゃんに携帯取られちゃって、そのまま引きずられてっちゃったから……嘘ついてごめん」
 小声で謝る奈央子を責める気は、柊にはかけらもなかった。彼女が、自分を気遣って隠していたのは察しがつくから。
 公美の、奈央子に対する猫可愛がりようと、柊への冷遇ぶりは子供の頃から変わっていない。相変わらずの姉の態度に納得しつつも、どうしてもいまだに気分の重さを感じてしまう――自分のそういう、トラウマ的な条件反射というか気持ちの弱さを奈央子もわかっているから、言わずにいたのだろう。
 今も彼女は、1ヶ所でやや言葉を濁した。公美が実際にはどんなふうに言ったのかは、容易に想像がつく。姉への反発心と、自分の情けなさへの憤りのような感情が、同時に湧きあがった。
 「やっぱ、今日の分おれが払うから」
 奈央子は表情を複雑そうにゆがめた。そんなふうに言うだろうと思っていた、と言いたげに。
 「じゃ、割り勘にしようよ。10%安くなるっていっても一人4千円近くするんだし、ね」
 奈央子のなだめるような提案にも、柊はきっぱり首を振る。意地になっている自覚はあったが、今は引きさがれない気持ちでいっぱいだった。

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『気分転換、もしくは休息の一日』〔3〕

 ——向かいの席で、柊が爆睡している。
 オーダーバイキングのディナーを食べた中華料理店を出て、しばらく歩いてから入ったカフェ。席に着くなり『悪い、ちょっと寝かして』と言ってテーブルに突っ伏してしまったのだった。
 それから30分近く経過したが、彼が起きる気配はない。……相当寝不足なんだな、と用語集を閉じながら奈央子は思った。
 夏からこちら、企業説明会や就職セミナーと、少しでも暇があれば就職活動にいそしんでいる。卒業論文の準備も、厳しいと評判の担当教授の元でずいぶん真面目にやっているようだ。休日は休日で、バイトを集中的に入れているからたぶんあまり休んでいない。疲れているのは当然だった。
 元来かなりマイペースな柊がそこまで気合いを入れているのは、きっちり4年で卒業、なおかつ新卒で就職するために他ならない。卒論はともかく就職に関しては、いまだ厳しい不況を早くも実感させられているからでもあるだろうが、意地もだいぶあるのだろうと感じていた。言うまでもなく、姉の公美に対しての。
 去年、大手の法律事務所に就職した彼女は、来年には正式に弁護士になると聞いている。自分もせめて新卒で就職を果たさなければ格好がつかない——というよりは、何を言われるかわからないと危惧しているに違いない。
 奈央子の目から見ても、公美の弟への態度や言葉が、相当に手厳しいのは確かだ。
 ……先週会った時にも、柊に連絡しようとした奈央子に対し、実際には『あんなのはどうでもいいから』と言った。ストレートに伝えると彼は確実に落ち込んでしまうから違う言い方をしたが、本当はどう言われたか察していたかもしれない。
 彼女なりに真面目に心配するからこその極端な言動なのだと、奈央子にはわかっている。だが、年中「あんなの」呼ばわりされる当人からすれば、素直にそうは思えないだろう。だから、柊が意地になるのもある程度はうなずける。
 ——けど、わたしに対してまでそんなふうに思う必要なんかないのに。
 柊が自分に対し、引け目とも言うべきコンプレックスを持っているらしいことには、今の形で付き合い始めてから気づいた。
 子供の頃から、公美を初めとして身内には事あるごとに比べられていたから、そういう傾向があるのは認識していた。だが、奈央子が思うよりずっと、彼にとっては根の深い問題であったらしい。
 是が非でも新卒で就職しようと頑張るのはいいけど、その動機が公美や自分への意地から起こっているというのは、何か違う気がしてしまう。
 そもそも、彼は自身を過小評価しすぎている。
 点数では全体的に奈央子の方が上まわっていたとはいえ、成績は充分に優秀と言えるレベルだった。気を抜かず普通に頑張れば、問題なく就職できるはずだ。柊が人に与える、明るくて人好きのする印象は、成績以上に就活の助けになると思う。
 ……しいて言うなら素直すぎるから、多少は場に応じた発言をする練習をした方がいいかもしれないが。
 それはそれとして、奈央子が一番好きなのは、彼のそういう性質なのだ。誰も真似できない、裏表がかけらもないまっすぐさ。たとえ、そのせいで社会に出て損する事態に陥ったとしても、柊が変わらない限り、絶対に見捨てたりはしない。
 奈央子自身はそう思っているのに、彼には、口にはしないけれど確かに抱えている引け目が、今でもあるのだ。
 ……だから、もしかして遠慮しているのかもしれないと、1時間ほど前のことを奈央子は思い返す。

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『気分転換、もしくは休息の一日』〔4〕

 中華料理店を出た時、店の前の通りは思わず目を見張るほどの混雑だった。土曜日の夜で、市内一の繁華街という条件がそろえば無理もない。
 手前の人の流れは駅とは逆方向で、その向こうが駅へ向かう人波だった。流れの隙間を目を凝らして探していたら、先に見つけたらしい柊に強く腕を引かれた。やや引きずられるように流れを横切り、駅方向への人波に混じり——いつの間にか抱き寄せられていた肩が、いくらか混雑がましになってきたあたりでもそのままであることに気づいて慌てた。
 『……ねえ、もう大丈夫だから』と言いながらはずそうとした手は、さらに強く肩を引き寄せた。さすがに奈央子が文句を言おうとした時、
 『いいじゃん、たまには』
 妙に熱っぽく耳元でささやかれて、その瞬間、抵抗できなくなってしまった。結局、カフェに着くまでされるままになっていたのだったが  
 テーブルに両肘を置く体勢で、柊の顔をのぞき込む。ほんの少し斜めになっている横顔は、目を閉じているといつも以上に童顔に見える。当人は嫌がるだろうが、こうしていると子供の頃とあまり変わらない。……けれど、彼はもう子供じゃなくて、あと2ヶ月で21歳の成人だ。
 自分たちが、直接的な触れ合いに関しては、一般のカップルよりかなり頻度が低いだろうという自覚はある。淡白というよりは、そういう気になることが少ないというのが本当だ。二人きりでいてもキスさえあまりしょっちゅうはしない。
 ましてや、それ以上のことは——初めてそうなったのだって今年の初め、交際1年が過ぎてからで、その後は今に至るまで、1度しかしていない。
 そんな調子だから、人前ではいまだに、手をつなぐこともめったにないのが普通だった。
 自分からは照れくさいからしないし、柊からも普段はあまり触れてくることはない。ましてや、先ほどみたいに強引とも言える行動はまず取らない。
 世間並ではなくても、自分たちはそんなふうでいいと思っていた。一緒にいるだけで充分、満たされた気持ちになれるから。
 だが、そう思っているのは実は自分だけで、もしかしたら柊には我慢を強いていたのではないだろうか? 彼だって男なのだから、そういう欲求が世間並にあったっておかしくはない。けれど、奈央子があまりそういうことを求めていないのを感じ取っているから、抑えているのではないか——もしそうだとしたら。
 これまで、頭に浮かぶ時はあってもさほど深く考えはしなかったことを、初めて真剣に悩んでいた。
 20年以上身近にいても、わからないことはなくならないものだなと時々思う。しかし、本当に彼が自分に遠慮しているのだとしたら、少し寂しい。そういうふうに思わせてしまっていることが辛い。
 ひどく申し訳ない気持ちが湧いてきて、柊の頭にそっと手を添える。
 いかにも恋人同士といった感じでべたべたするのは恥ずかしい。けれど、たまになら……今日ぐらいのことなら、してもいいのに。
 軽く髪をひと撫でした途端、彼のまぶたが開く。奈央子は仰天して手を離した。何度肩を揺すっても頬をつついても起きなかったくせに、なぜこのタイミングで目を覚ますのか。慌てて椅子に座り直し、平静を装うため深呼吸した。

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『気分転換、もしくは休息の一日』〔5〕

 柊が頭を起こした時、奈央子は向かいで伏し目がちにコーヒーを飲んでいた。一瞬だけ状況がわからず戸惑ったが、すぐに今いる場所を思い出す。
 「……あれ、今何時?」
 「ちょうど9時。ここに来て45分」
 げ、と思わず言ってしまった。
 「うわごめん。おれ寝過ぎ」
 「コーヒーとっくに冷めちゃってるわよ、新しいの買ってこようか」
 「いやいい、これで——う、にが」
 慌てて口をつけたコーヒーはかなり苦かった。普段ブラックで飲むことはない。
 「当たり前でしょ。砂糖もミルクも入れてないんだから……なに、変な顔して」
 「そっちこそ。何か言いたいことあんじゃない?」
 「ミルクこぼれてる」
 と言われて反射的に手元を見て、トレイの惨状に気づく。新しいミルクを取りに行き席に戻るまで、ちょっと不可解な気分だった。
 本人が気づいているかどうかわからないが、何か言いたいことがある時、奈央子の口調はいつもより平坦になる。少なくとも彼女に関する限り、そういった言動と考えていることの関係に気づくようになってきた。そして先ほどのように視線をそらしがちな場合、「言いたいこと」がたいていは言いにくい内容であることも。
 椅子に座った時にも、奈央子はまだそんな様子だった。だがミルクをコーヒーに注ぎ終わるタイミングで「あのね」と声をかけてきた。聞きづらいが聞かないままでいるのも気になる、といった感じで。
 「変なこと聞くかもしれないけど、いいかな」
 彼女らしからぬ前置きに、内心ちょっとだけ身構える。
 「——珍しいこと言うな、なんだよ」
 「……デートの時に、いつも手をつなぎたいとかくっついて歩きたいとか——その、いちゃいちゃしたいとかって思ってたりする?」
 後半が恥じらうように小声になった質問に、思わずカップを倒しそうになった。奈央子をあらためて見ると、やけに気合いの入った表情になっている。
 妙な間が生まれそうになり、打ち消すためにコーヒーを口に付けたらまだ苦かった。砂糖がちゃんと溶けていなかったらしい。考えを言葉にまとめるための時間稼ぎも含めて、マドラーで念入りにかき混ぜる。
 「……そりゃ、まあ。全然思ってないってったら嘘だけどさ。いちおう、おれだって男だし」
 彼女とその手の話をしたことはないから、正直、口には出しにくいものがあった。だからつい歯切れの悪い口調になるが、気持ちははっきりしている。
 間を置かずに「でも」と続けた。
 「今の感じで、別に不満はないけど? そういうことしたくなる時があんまないってだけだし、それが問題とは思ってないし。おまえもそうじゃないの」
 「……うん、そうなんだけど」
 そうだよな、と思う。彼女は見た目以上に、そういう方面には控えめで照れ屋だから。ならばなぜ、そんなことを聞くのだろう。
 奈央子が再び先ほどの仕草を繰り返す間、柊は首を傾げていた。すると、
 「その——さっきみたいなことって珍しいから、今まではなかったけど願望はあるのかなって」
 2つ目の質問はひどく気まずそうに発せられた。「だとしたら、我慢させてたのかなって思って」と続いた声は、先ほどよりもっと小さく、どこか申し訳なさそうでもあった。
「さっきみたいなこと」の内容を、五秒ほど考えて思い出す。「……あー」と応じたものの、今度はこちらが気まずくなってきた。目を伏せて、とっくに砂糖は溶けたコーヒーをまたかき混ぜ始める。マドラーの回転が不自然に速くなっていることを自覚しつつ。
 目を上げると、当然ながら奈央子が不安そうな顔をしている。……なんと説明すればいいものか。
 願望がゼロだったとは言わないが、先ほどに限っては、主たる理由は全然違ったから。
 「あれは、えーと——めちゃくちゃ眠かったから」

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『気分転換、もしくは休息の一日』〔6〕

 「は?」
 とんでもない勘違いを聞いたように反応された。だがそれも当然だろう。柊はついに観念した。
 「……いや、いつもの調子で飲んだらアルコールの回りが速くてさ、ヤバいなと思って。ああでもしてないと、歩きながら寝れそうなぐらいだったから」
 「…………」
 奈央子は絶句してしまった。怒るべきなのか呆れるべきなのか、決めかねているような表情で。支える杖か棒代わりにされていたと言われればそうなるだろう。ましてや、彼女は悩んでいたのに——
 そう考えてからはっとして、奈央子をまじまじと見つめる。いくらか意外な思いで、思い浮かんだことを口にした。
 「——ひょっとして、それずっと悩んでたの、おれが寝てる間」
 言った途端、奈央子は目を見開き、さらに言葉をなくしたかのように唇を引き結ぶ。ふいと横を向いた顔が赤く見えるのは、オレンジがかった店内の照明のせいだけではない気がする。
 可愛い、と今日一番強い感情で思った。彼女は真面目だから、ひょっとしてと可能性を思いついてからずっと、そればかり考えていたのだろう。見当違いの方向とはいえ、柊に申し訳ないとまで思って。
 そっぽを向いたまま、表情も動きも固まった状態でいる奈央子の姿に、唐突に衝動が湧き起こるのを感じた。
 左手で膝をつかみ、強い感情で体が震えてくるのを抑えながら、テーブルに身を乗り出す。
 「……じゃ、ちょっとだけ希望言っていっかな」
 できるだけ声を低くひそめるのも、これから言う内容を気にすると同時に、声がうわずらないようにするためである。雰囲気の違いを感じてか、奈央子はやや緊張した面持ちでこちらを見た。
 「なに?」
 「今日、する気ない?」
 たぶん3秒ぐらい、沈黙があった。次いで爆発的な勢いで顔に血をのぼらせ、奈央子は飛びのいた。
 「……ばっ、な……こっ」
 バカ何言ってんのよこんなとこで、と言いたかったのだろう。だがうろたえるあまりろくに発音できていない。
 真っ赤な顔で口をぱくぱくさせる彼女の反応に、今度は急激に笑いがこみ上げた。すぐに口を押さえはしたが、肩の震えと表情はどうしても抑えきれない。
 「…………可愛すぎ」
 我慢しきれずにつぶやいた声が聞こえたらしく、奈央子の表情が一変した。一息にコーヒーを飲み干してからじろりと睨み、低い声音で宣言する。
 「それ以上笑うつもりなら、就活で休んだ分のノート貸さないからね」
 『学科が違うから専門は協力できないけど』と言って、今年度は自由履修でできるだけ同じ科目を取ってくれているのだった。え、と笑いを引っ込めた柊を置き去りに、奈央子は席を立って店を出ていく。
 さすがにまずいと思い、慌てて後を追った。おそろしいほどの早足で歩く奈央子に、駅方向へ十メートルほど進んだところで追いつく。
 「ちょ、待てって——ごめん、笑いすぎた」
 心の底から謝ったのだが、彼女はまだ憮然としている。
 「けどほんと、可愛かったから」
 と躊躇なく続けたのはかなり無意識だった。言ってから自分で少なからず驚き、奈央子はこれ以上ないほどに目を見張る。
 追いついた際につかんだ彼女の右手が、じわりと熱くなった気がした。息を吸い込み、手の力を少しだけ強める。
 「で、さっきの、マジなんだけど……だめ?」
 奈央子が息をのむ音が、確かに聞こえた。手と唇がかすかに震え、今にも泣くかもと思うほどに目が潤んでくる。
 うつむいてしまった彼女が、硬い声で「……疲れてるくせに」とつぶやくのも聞こえた。やっぱこんな流れじゃ拒否られるよな、と反省し、もう一度謝りかけた時。
 ふうっと息をついた彼女の口元が、笑みを形作ったことに気づいた。はっとして思わずのぞきこむ。
 「バカすぎる、あんた」と言った声は先ほどよりも大きい。だがその口調はなんだかやわらかくて、涙があふれそうな目をしながらも微笑みを浮かべている。そして奈央子は、手を強く握り返してきた。
 「え、…………いいの?」
 おそるおそる確認した柊に、奈央子ははっきりとうなずいてくれた。はにかみながらも嬉しそうな、とても可愛らしい笑顔で。

                             —終—

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