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「窓の向こう」(3)

 近づきたいとは思うけど、親しくなれなくても別によかった。描きたいと思うのはわたし個人の感情でしかないし、もし上手く描けても見せるつもりはないから、しょせん自己満足でしかない。でもそれでかまわなかった。ただ、窓越しに彼の頑張る姿を見て、絵を描くことで彼とのつながりを感じていられれば、わたしには充分だった。
 1年以上が、そうやって過ぎていった——その間に1度だけの、例外を除けば。
 去年の2学期だったか、いつものように外を走っていた彼が、わたしの目の前で転んでしまったことがある。ほどけた靴ひもを踏んでしまったらしかった。
 すぐさま起き上がって、走っていこうとした彼をその時、わたしは衝動的に呼び止めた。肘に新しいスリ傷があるのが目に入ったから。大丈夫だから、と言い張る彼にかなり強引に、自前のカットバンを貼り付けた。勢いだったとはいえ、我ながらよくできたなと今でも思う。
 その時、当然といえば当然だけど、彼の視線は美術室の中に向いていた。他の人は来るのが遅くて、中にいた部員も、描き始めていたのもわたし一人。だからわたしの絵を見ていたのも当たり前だった。多少はましになった気はしていても、まだ全然、人に見せられるレベルじゃない。そんな絵を彼にじっと見られるのはやっぱり恥ずかしかった。
 カットバンを貼り終えるまで、彼は無言でキャンバスの絵と、その前に立てかけたスケッチブックを見ていた。思いきって見上げた彼の表情は、最初に惹かれたあの時と似ているように見えた。
 今みたいに。
 「それ、描くの?」
 声をかけられただけでも驚きなのに、彼が窓の外から見ているのは、わたしの前のキャンバスにある絵だった。まだ下絵の段階だけど、道を挟んだ向かいの部室棟、フェンス、グラウンド。
 やっと、今なら描けるかも知れないと思えるようになった。だから次の部内課題のテーマは自由だと聞いて、思いきってこれに決めたのだ。そして、今日描き始めたところで彼が話しかけてくるなんて、どういう偶然なのか。
 聞かれる理由がわからなくて戸惑いながらも、やっと「……そう、だけど」と答えると、彼は絵を見つめたまま、何かに納得したようにうなずく。そして次の発言に、さらに戸惑ってしまった。
 「いつ描くのかなって思ってて。ずいぶん前にスケッチしてたよね?」
 信じられなかった。あの一件は半年以上、いや、1年と言う方が近いぐらい前の出来事。たとえそんなに前じゃなかったとしても、その時のスケッチを彼が覚えているなんて。
 おまけに、描いているものをずっと見られていたなんて。どうして。
 聞きたくてたまらなかった。けれど頭の中で言葉がぐるぐる回るばかりで、声には出せない。
 混乱しているわたしをよそに、彼は、やけに鋭いまなざしで下絵を見ている。まだ、描きたいものを全部は入れられていない下絵を。しばらくして、彼の視線がわたしに向いた。
 「いい線描けてる。でも、もっと思いっきり描いてもいいと思う」
 すごく真面目な調子でそう言った後、突然、目元と口をなごませて表情を作った。
 彼がわたしに、笑いかけてくれている。とても控えめにではあるけれど。
 それじゃ、と右手を上げて、彼はランニングに戻ろうとした。その背中を、わたしは急いで呼び止めた。——今なら。
 「あの、いきなりなんだけどその、この絵に描いていいかな。走ってるとこ」
 一気に言ったわたしに、彼はちょっと目を丸くした。思ったほどではないにせよ、やっぱり驚かせてしまったみたいだ。たちまち後悔しかけたけど、もう後には引けない。
 懸命に目をそらさずにいると、意外にも彼は、また笑ってくれた。心なしか、さっきよりもはっきりとした笑顔で。
 「いいよ。好きなように描いてくれて」
 一瞬で頭に血がのぼる。信じられなさと、同じぐらいの嬉しさで、破裂しそうだった。
 なのに、いや、だからこそなのか、言うつもりのなかった言葉まで口に出てくる。
 「描けたら、見てもらえる?」
 言ってから、自分でびっくりしたぐらいだ。対して彼は、今度はそういう反応は見せず、とても彼らしく見える笑顔をくずさないまま、うなずいてくれた。
 「それじゃ。頑張ってね」
 今度こそ走り去っていく彼の後ろ姿を見ながら、もしかしたらこれは夢で、今にも目が覚めてしまうんじゃないかと思った。そんなふうに考えるぐらい、現実感がなかった。
 だけど、そっちも練習頑張って、と言えなかったことを悔やむ気持ちは残っている。なら、今のやり取りも現実だったはず。途端に、いろんな感情が押し寄せてきた。
 彼に見せると約束したことを思うと、すごく緊張はする。けれど、それとやっぱり同じぐらい、嬉しい気持ちもまた湧いてきた。あの絵に堂々と彼を描ける、そのことに対しての。


                             —終—

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