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2010年4月25日 - 2010年5月1日

『リスタート』(11)

 ……いや、本当のところは、子供ができたと奈央子が耳元でささやいた時、最近の彼女の様子——体調が悪そうに見えたことや食事についての疑問など全部が、一気に腑に落ちはしたのだ。
 ただ、情けなくも一度も予測していないことだったからやけに意外に感じられて、頭の中に浸透するのに時間がかかってしまった。どうして全然考えなかったのかと、今は自分があまりにもうかつに思えてならない。その可能性は確かにあったのに。
 さらに話を聞くと、気づいたのは連休前、つまり妙に顔色の悪かったあの日だという。柊の部屋に着いた直後、急に吐き気がして、治まってからあれこれ思い返して「もしかしたら」と考えたらしい。
 「だったら、どうしてあの時言わなかったんだ?」
 実際、柊の目にも何か話したそうに映ったのだ。そう思いながら聞かなかったのだから偉そうには言えないが、そんな重大事をすぐに話さなかった奈央子に、わずかながら腹立ちを感じてしまっていた。
 その感情が声に出たらしく、奈央子は複雑な顔でうつむいた。しばし黙り込んだ後、
 「……怖かったの」
 「え?」
 か細い声が聞き取れなくて思わず聞き返す。
 「そうだとは思ったけど、確実にわかるまでは口に出したくなかったのよ——やっぱりまだ独身だし、今まで大丈夫だったからって油断してた自分が甘かったと思うし……それに」
 奈央子はいったん言葉を切り、息を吸い込む。
 「本当だってわかったら産むかどうするか考えなくちゃいけなくて、そしたら否応なく今の状態を変えざるを得なくなるから……そう考えたらなんだか少し怖かった。中途半端だと思うけど、でも今の状態がすごく居心地がよくて好きだったから、できれば変わらないままでいたかったの。都合が良すぎるのはわかってたけど」
 彼女の言葉を聞きながら、柊は安心と後悔を同時に感じていた。今の状態について、奈央子も同じように考えていた事実は、柊の中の罪悪感を半分ほどに減らしはした。しかし、彼女にそんなふうに思わせた原因は、やはり言うべきことをさっさと言わなかった自分なのだと、あらためて自らの踏ん切りの悪さに嫌気がさす。
 しばらく思いを巡らせてから、柊は椅子から立ち上がり、再び黙ったまま立ち尽くしている奈央子を座らせた。そして、姿勢を低くして彼女と目線を合わせる。「なあ」と声をかけ、奈央子が目をこちらに向けるのに合わせて切り出した。
 「今度の休み、実家に行こうか」
 「えっ?」
 「やっぱ、親に無断で籍を入れるわけにはいかないだろ。いちおう先に報告しないと。……それでも、少なくともおまえの親父さんには怒られそうだけどな。もしかしたら殴られるかも」
 「柊……?」
 不安そうな顔をする奈央子の左手に、柊は自分の右手を重ねて包み込む。その薬指の、最初のクリスマスプレゼントであるプラチナリングの感触を確かめながら、表情をあらためて言葉を続けた。
 「ごめんな、奈央子。おれがトロトロしてたせいで悩まなくてもいいことで悩ませて」
 「そんな、別にそういうわけじゃ」
 「いや、そういうわけだよ。男のおれがちゃんと考えておかなきゃいけないことだったんだ。だから、それこそ今さらだけど、でも大事なことだから言う——結婚しよう。なるべく早く入籍して、一緒に子供を育てていこう、な」
 奈央子は目を見開いた。その反応は予想していたが、まだ不安の残る様子で「産んでいいの?」と尋ねたのには驚いた。反射的に、いくぶん非難するような口調になる。
 「まさか、産まないつもりだったのか?」
 「違う、そうじゃないけど——でも」
 慌てて首を振りながら言った後、奈央子は口ごもってしまった。何か言おうとしつつも、適当な言葉がなかなか出てこないといったふうに見えた。
 数十秒の努力の末、彼女が口に出したのは、
 「……ほんとにいいの? これからいろいろ大変になっちゃうわよ?」
 疑問形ではあったが、確認の言葉だった。先ほどまで声に混ざっていた不安げな調子はほとんど消えている。
 「まあ、な。たぶん一日ものんびりしていられなくなりそうだけど……けど、子供のこと最優先に考えてやらなきゃな。無事に産んで、元気に育つようにしてやるのがおれたちの役目だろ」
 「——ん、そうよね」
 自らに言い聞かせるようにそう言って、奈央子は何度もうなずく。そして、次に顔を上げた時には、今日初めての笑顔を柊に見せた。目にうっすらと涙が浮かんでいる。
 椅子に座ったまま、奈央子は柊の肩に腕を回して抱きついてきた。「ありがとう」と涙まじりにささやく声が聞こえた。
 奈央子への愛おしさ、そして彼女の中にいる小さな命への愛情がにわかに溢れてきて、胸がいっぱいになる。その想いを腕にこめて、柊も奈央子を抱きしめ返した。


 互いの両親への報告を済ませ、婚姻届を出したのは、それから一週間後のことである。


                             —終—  

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今後の予定:10.4.29

短編『リスタート』、完結いたしました。
読んでくださった皆様、どうもありがとうございました。

諸事情により、間を空けずに次の掲載を始めます。
タイトルは『桜、夕立ち、若葉の頃』。
今月初めに参加したイベントにて配布した短編で、彩乃視点の過去エピソード小話。
明日4/30〜5/10まで毎日0時頃に更新の予定。

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『桜、夕立ち、若葉の頃』(1)

 「あれ……沢辺さん?」
 誰もいないと思いながら入った教室に人の姿を見つけて、彩乃は驚く。
 委員会の後で、辞書を忘れたことに気づいて引き返してきた1年3組の教室。窓際の席でノートを広げていたのは、同じ班の沢辺奈央子だった。
 一瞬、彼女は居残り組だったっけと考えたけど、そんなはずはない。英語の小テストの補習は別の教室だし、第一、先生が発表した10点満点者の中に、彼女の名前はちゃんとあった。
 こちらが開けたドアの音で振り返った奈央子は、目を丸くした後、なぜか照れくさそうに笑う。
 「あ、瀬尾さん。どうしたの?」
 「忘れ物があったから。沢辺さんはなんで?」
 「うん、ちょっと……人待ちなんだけど」
 と彼女が言いよどんだ時、足音が廊下からこちらに向かってくる。彩乃が振り返ると同時に走り込んできたのは、これまた同じクラスの男子。
 「うあーやっと終わった、帰ろー」
 「その前に、瀬尾さんに謝ったらね」
 「え?」
 そこで初めて、入口と黒板の間に立っている彩乃に気づいたという顔をして、相手はこちらを見る。寸前で止まったからよかったものの、あのまま勢いよく駆け込んできていたら確実にぶつかっていただろう。実際、今の互いの距離は1メートルも空いていなかった。
 彩乃は女子の中でもやや小柄で、150センチに届かない程度。対して相手は頭1つ分以上背が高くて、思いきり見上げないと顔が見えない。その顔に浮かぶのは、どこまでもきょとんとした表情。
 「……えっと、瀬尾さんてあんた?」
 「同じクラスでしょうが、わたしと同じ班の」
 いつの間にか、沢辺奈央子が近くまで来ていた。すっかり帰り支度をすませた格好で、相手の隣に立ち、耳を引っ張る。いてて、と悲鳴を上げた男子の名前は確か羽村……下の名前は何だったか。
 「あのねえ柊、その物覚えの悪さもうちょっとなんとかしようと思わないの。2週間も経つのにクラスメイトの顔がわからないなんて失礼でしょ」
 「えーだってー苦手なんだよう、そういうの」
 「だから努力しなさいって言ってんの。だいたい、なんでわたしがいちいち、あんたの帰りを待ってなきゃなんないのよ。卒業まで続けるつもり?」
 「そんなつもりじゃないけど」
 「なら、いいかげん帰り道ぐらい覚えてよね。わたしだって暇なわけじゃないんだから——あ」

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『桜、夕立ち、若葉の頃』(2)

 はっとした表情で奈央子が振り向く。口を挟めずにただぽかんとしていた彩乃に、一転して慌てた様子で釈明した。
 「ごめんね、びっくりしたでしょ。こいつ周りちゃんと見てないから」
 「……ううん、別に、大丈夫だったし」
 なんだか要領を得ていない言い方になっているのはわかっていたが、すぐには落ち着きを取り戻せそうになかった。それぐらい、目の前の二人のやり取りが意外だったのだ。
 同じ行動班とはいえ、知り合って日の浅い奈央子とは通りいっぺんの会話しかしたことがない。知る限りの彼女はいつも、暗くはないが落ち着いた言動の優等生であった。今みたいな、聞きようによってはきつい物言いは誰に対しても、おそらくは小学校の友人と思われる相手にも、してはいなかった。
 そして羽村柊はといえば、クラスで一番背が高く顔立ちもそこそこ整っていて、男子の中では少々目立つ存在だった。反面、誰よりも小学生っぽさが抜けきらない感じの、不思議な印象の持ち主である。
 この二人が、今みたいな口をきき合っているところは見たことがなかった。もちろん、彼らの行動を四六時中追っていたりはしていないが、これほど気の置けない間柄であるとは予想外で、だからこんなふうに聞きたくなったのだ。
 「ひょっとして、付き合ってるの?」
 奈央子は彩乃から見ても可愛いし背も高い方だから、並んでいるとお似合いだとは思う。驚きが去らない口調でおずおずと尋ねると、二人はそろって目を見開いて絶句してから、
 「まさか。ただの幼なじみ」
 同じく、見事なほど声をそろえて言った。その、あまりの息の合い方にまたぽかんとしていると、
 「なあ、なんか困ってんじゃん瀬尾さん。おまえがごちゃごちゃ言うからじゃねーの」
 「誰のせいだと思ってんの」
 そして、耳を引っ張り悲鳴が上がる一連が繰り返される。思わず吹き出してしまった。
 「ほら、笑われてるじゃないの。まったく」
 と奈央子ににらみつけられて、柊は長い体を縮めてあからさまにしゅんとした表情。その様子は確かに、付き合っているというよりは、姉弟に近いものがあった。面白い二人だと思い、同時に、ちょっと安心する。
 「もういい、ともかく帰ろ。……ほんとごめんね、瀬尾さん。うるさくしちゃって。じゃあまた明日」
 「あっ、ちょっと待って」

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