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2010年7月11日 - 2010年7月17日

『気分転換、もしくは休息の一日』〔2〕

 だが負けるわけにはいかない。そんなふうに思うのは奈央子がいるからだ。彼女はまず間違いなく、来年の採用試験に合格するだろう。だから自分もせめて、新卒で就職しなければならない。でなければ……有り体に言えば、格好がつかないから。
 それに就職浪人などしようものなら、両親はともかく、姉はまた持ち前の毒舌で存分に攻撃してくるだろう。それだけは回避したい、と切実に思う。
 「そう? ちょっとずつでもやっといた方がいいわよ。さてと、20分の遅刻だから、今日はおごってあげるつもりだったけど2割払ってね」
 「あ、おれが全部出すから」
 予定通りに起きていれば事故に行き合わず、遅刻もしなかったのだから当然だ。だが奈央子は笑い、顔の目で手を振った。
 「いいって。バイト、就活で前ほど行けてないんでしょ。こないだ行った時の10%引き券もあるし……あ」
 しまった、というふうに口を押さえる奈央子に、柊は意外な思いで「え、行ったことあんの」と尋ねた。今日行く店は『おいしい店だとこないだ友達に教えてもらった』と聞いていたのである。
 上目遣いにこちらを見た奈央子は、何やらばつが悪そうな表情をしている。しばらくの沈黙の後「実はね」と、ためらいがちに口を開いた。
 「先週行ったの。くーちゃんと」
 奈央子だけが呼ぶ姉・公美の愛称に、反射的に顔をしかめてしまった。
 「先週わたし、実家帰ったでしょ。家に戻る時にここで、くーちゃんが職場の人と飲み会行くとこに行き会わせて、そしたら就活の激励したげるって誘われて。わたしは、あんたも呼ぼうかなって電話しかけたんだけど、……『時間もったいないから』ってくーちゃんに携帯取られちゃって、そのまま引きずられてっちゃったから……嘘ついてごめん」
 小声で謝る奈央子を責める気は、柊にはかけらもなかった。彼女が、自分を気遣って隠していたのは察しがつくから。
 公美の、奈央子に対する猫可愛がりようと、柊への冷遇ぶりは子供の頃から変わっていない。相変わらずの姉の態度に納得しつつも、どうしてもいまだに気分の重さを感じてしまう――自分のそういう、トラウマ的な条件反射というか気持ちの弱さを奈央子もわかっているから、言わずにいたのだろう。
 今も彼女は、1ヶ所でやや言葉を濁した。公美が実際にはどんなふうに言ったのかは、容易に想像がつく。姉への反発心と、自分の情けなさへの憤りのような感情が、同時に湧きあがった。
 「やっぱ、今日の分おれが払うから」
 奈央子は表情を複雑そうにゆがめた。そんなふうに言うだろうと思っていた、と言いたげに。
 「じゃ、割り勘にしようよ。10%安くなるっていっても一人4千円近くするんだし、ね」
 奈央子のなだめるような提案にも、柊はきっぱり首を振る。意地になっている自覚はあったが、今は引きさがれない気持ちでいっぱいだった。

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『気分転換、もしくは休息の一日』〔3〕

 ——向かいの席で、柊が爆睡している。
 オーダーバイキングのディナーを食べた中華料理店を出て、しばらく歩いてから入ったカフェ。席に着くなり『悪い、ちょっと寝かして』と言ってテーブルに突っ伏してしまったのだった。
 それから30分近く経過したが、彼が起きる気配はない。……相当寝不足なんだな、と用語集を閉じながら奈央子は思った。
 夏からこちら、企業説明会や就職セミナーと、少しでも暇があれば就職活動にいそしんでいる。卒業論文の準備も、厳しいと評判の担当教授の元でずいぶん真面目にやっているようだ。休日は休日で、バイトを集中的に入れているからたぶんあまり休んでいない。疲れているのは当然だった。
 元来かなりマイペースな柊がそこまで気合いを入れているのは、きっちり4年で卒業、なおかつ新卒で就職するために他ならない。卒論はともかく就職に関しては、いまだ厳しい不況を早くも実感させられているからでもあるだろうが、意地もだいぶあるのだろうと感じていた。言うまでもなく、姉の公美に対しての。
 去年、大手の法律事務所に就職した彼女は、来年には正式に弁護士になると聞いている。自分もせめて新卒で就職を果たさなければ格好がつかない——というよりは、何を言われるかわからないと危惧しているに違いない。
 奈央子の目から見ても、公美の弟への態度や言葉が、相当に手厳しいのは確かだ。
 ……先週会った時にも、柊に連絡しようとした奈央子に対し、実際には『あんなのはどうでもいいから』と言った。ストレートに伝えると彼は確実に落ち込んでしまうから違う言い方をしたが、本当はどう言われたか察していたかもしれない。
 彼女なりに真面目に心配するからこその極端な言動なのだと、奈央子にはわかっている。だが、年中「あんなの」呼ばわりされる当人からすれば、素直にそうは思えないだろう。だから、柊が意地になるのもある程度はうなずける。
 ——けど、わたしに対してまでそんなふうに思う必要なんかないのに。
 柊が自分に対し、引け目とも言うべきコンプレックスを持っているらしいことには、今の形で付き合い始めてから気づいた。
 子供の頃から、公美を初めとして身内には事あるごとに比べられていたから、そういう傾向があるのは認識していた。だが、奈央子が思うよりずっと、彼にとっては根の深い問題であったらしい。
 是が非でも新卒で就職しようと頑張るのはいいけど、その動機が公美や自分への意地から起こっているというのは、何か違う気がしてしまう。
 そもそも、彼は自身を過小評価しすぎている。
 点数では全体的に奈央子の方が上まわっていたとはいえ、成績は充分に優秀と言えるレベルだった。気を抜かず普通に頑張れば、問題なく就職できるはずだ。柊が人に与える、明るくて人好きのする印象は、成績以上に就活の助けになると思う。
 ……しいて言うなら素直すぎるから、多少は場に応じた発言をする練習をした方がいいかもしれないが。
 それはそれとして、奈央子が一番好きなのは、彼のそういう性質なのだ。誰も真似できない、裏表がかけらもないまっすぐさ。たとえ、そのせいで社会に出て損する事態に陥ったとしても、柊が変わらない限り、絶対に見捨てたりはしない。
 奈央子自身はそう思っているのに、彼には、口にはしないけれど確かに抱えている引け目が、今でもあるのだ。
 ……だから、もしかして遠慮しているのかもしれないと、1時間ほど前のことを奈央子は思い返す。

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