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2010年9月12日 - 2010年9月18日

「窓の向こう」(2)

 仲良くなった同じクラスの、彼と中学も同じだった子たちに尋ねてみると、いろんな話が出てきた。何かの理由でお父さんに反抗しているとか、将来は絵の道に進むと約束している代わりに部活では違うことをやらせてもらっているとか。でも結局は誰も、本当の理由や事情は知らないみたいだった。彼は自分からは家のことを話さないし、聞かれても詳しくは答えない。
 目立たないと思ったのは見当違いだったけど、おとなしい、というより静かな人であるのは確かだ。
 彼はテニス部でも頭角を表して、1年のうちに公式試合の選手に選ばれた。そのことや絵の話が広まると、彼は周りに注目される存在になった。近づこうとする人の中には当然、女の子も少なからずいたけど、当人はいつもあまり気に留めていないふうで、その様子をずっと保っていた。
 だから、好奇心で近づいた人の多くはそのうち気がそがれてしまい、徐々に彼は、クラスで浮くというほどではないものの、基本的に一人でいることが普通になった。それでも、常に数人からは注目されている、そういう状態が定着した。
 騒がれている間も表面的には収まった後も、彼は自分の態度をまるで変えなかった。少なくともわたしが見ていた限りではそうだったから、すごいなあと感心した。あんな、にわかアイドル状態になったら、調子に乗るか偏屈になるか、どっちかに偏りそうなものなのに。彼はそのどちらでもなくて、できるだけ角が立たない対応をしながら、核心を突いた質問はかわして済ませるということをやってのけていた。同年代の男子とは思えないぐらいだった。
 クラス替えまでの1年間、たぶん他の人たちと同様に、彼とはほとんど話したことはない。
 その分というか代わりにというか、目が合うことは時々あった。もっともそれは、教室でよりは美術室の窓越しでのことが多い話だけど。
 硬式テニス部がランニングで校舎の周りを走ると知ってからは、よく窓の外を見ていた。部活が始まる時間はだいたい決まっているけど、最中でも自主練習なのか、走っている人は時々いる。その中にはよく彼の姿があったし、朝練前のずいぶん早い時間に走っていることもあった。
 なぜわたしが知っているかというと、その時間に美術室にいたことがあったのだ。課題の締切が近くて、部活の時間内では描けそうになかったから、こっそりと。カーテンを閉めた窓の向こうを通った人影に驚いて、そっと見てみたら、ジャージ姿の彼が校舎の角を曲がるところだった。
 普通より充分上手くできるのに、手抜きしないどころか、人よりも多く努力している。そういう彼はいつしか、わたしにとって見本であり目標で、少しでも近づきたいと思う人になっていた。
 そしてランニングの時間帯には、わたしはよく窓の向こうをスケッチしている。描き上げたことは、まだ一度もない。入部当時の下手さ加減は致命的と言われたほどだったから、1年目のほとんどはひたすら基礎練習、デッサンに費していた。
 さらに、2ヶ月ごとに出す部員ごとの課題もあったから、放課後の部活の2時間は今でも、わたしにとっては短すぎるぐらいだ。それでも隙を見ては、休憩のふりをしたりしながら、窓の向こうを少しずつ描き続けた。見慣れた建物、フェンス、グラウンド。それらを背景に毎日同じスピードで走り過ぎていく、彼を。
 1年は経つのにまだスケッチである理由は、時間の短さや画力不足ももちろんある。けれど一番大きな理由は、いくら描いてみても納得がいかなくて、そのたび一から描き直しているせいだ。
 ……彼に近づきたい気持ちが恋心だと自覚したのは、何度目のやり直しの時だっただろう。
 ひょっとしたら、彼を描き直したいと思った時にはもう、好きだったのかも知れない——たぶんあの授業での、彼の表情を見た時から。

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「窓の向こう」(3)

 近づきたいとは思うけど、親しくなれなくても別によかった。描きたいと思うのはわたし個人の感情でしかないし、もし上手く描けても見せるつもりはないから、しょせん自己満足でしかない。でもそれでかまわなかった。ただ、窓越しに彼の頑張る姿を見て、絵を描くことで彼とのつながりを感じていられれば、わたしには充分だった。
 1年以上が、そうやって過ぎていった——その間に1度だけの、例外を除けば。
 去年の2学期だったか、いつものように外を走っていた彼が、わたしの目の前で転んでしまったことがある。ほどけた靴ひもを踏んでしまったらしかった。
 すぐさま起き上がって、走っていこうとした彼をその時、わたしは衝動的に呼び止めた。肘に新しいスリ傷があるのが目に入ったから。大丈夫だから、と言い張る彼にかなり強引に、自前のカットバンを貼り付けた。勢いだったとはいえ、我ながらよくできたなと今でも思う。
 その時、当然といえば当然だけど、彼の視線は美術室の中に向いていた。他の人は来るのが遅くて、中にいた部員も、描き始めていたのもわたし一人。だからわたしの絵を見ていたのも当たり前だった。多少はましになった気はしていても、まだ全然、人に見せられるレベルじゃない。そんな絵を彼にじっと見られるのはやっぱり恥ずかしかった。
 カットバンを貼り終えるまで、彼は無言でキャンバスの絵と、その前に立てかけたスケッチブックを見ていた。思いきって見上げた彼の表情は、最初に惹かれたあの時と似ているように見えた。
 今みたいに。
 「それ、描くの?」
 声をかけられただけでも驚きなのに、彼が窓の外から見ているのは、わたしの前のキャンバスにある絵だった。まだ下絵の段階だけど、道を挟んだ向かいの部室棟、フェンス、グラウンド。
 やっと、今なら描けるかも知れないと思えるようになった。だから次の部内課題のテーマは自由だと聞いて、思いきってこれに決めたのだ。そして、今日描き始めたところで彼が話しかけてくるなんて、どういう偶然なのか。
 聞かれる理由がわからなくて戸惑いながらも、やっと「……そう、だけど」と答えると、彼は絵を見つめたまま、何かに納得したようにうなずく。そして次の発言に、さらに戸惑ってしまった。
 「いつ描くのかなって思ってて。ずいぶん前にスケッチしてたよね?」
 信じられなかった。あの一件は半年以上、いや、1年と言う方が近いぐらい前の出来事。たとえそんなに前じゃなかったとしても、その時のスケッチを彼が覚えているなんて。
 おまけに、描いているものをずっと見られていたなんて。どうして。
 聞きたくてたまらなかった。けれど頭の中で言葉がぐるぐる回るばかりで、声には出せない。
 混乱しているわたしをよそに、彼は、やけに鋭いまなざしで下絵を見ている。まだ、描きたいものを全部は入れられていない下絵を。しばらくして、彼の視線がわたしに向いた。
 「いい線描けてる。でも、もっと思いっきり描いてもいいと思う」
 すごく真面目な調子でそう言った後、突然、目元と口をなごませて表情を作った。
 彼がわたしに、笑いかけてくれている。とても控えめにではあるけれど。
 それじゃ、と右手を上げて、彼はランニングに戻ろうとした。その背中を、わたしは急いで呼び止めた。——今なら。
 「あの、いきなりなんだけどその、この絵に描いていいかな。走ってるとこ」
 一気に言ったわたしに、彼はちょっと目を丸くした。思ったほどではないにせよ、やっぱり驚かせてしまったみたいだ。たちまち後悔しかけたけど、もう後には引けない。
 懸命に目をそらさずにいると、意外にも彼は、また笑ってくれた。心なしか、さっきよりもはっきりとした笑顔で。
 「いいよ。好きなように描いてくれて」
 一瞬で頭に血がのぼる。信じられなさと、同じぐらいの嬉しさで、破裂しそうだった。
 なのに、いや、だからこそなのか、言うつもりのなかった言葉まで口に出てくる。
 「描けたら、見てもらえる?」
 言ってから、自分でびっくりしたぐらいだ。対して彼は、今度はそういう反応は見せず、とても彼らしく見える笑顔をくずさないまま、うなずいてくれた。
 「それじゃ。頑張ってね」
 今度こそ走り去っていく彼の後ろ姿を見ながら、もしかしたらこれは夢で、今にも目が覚めてしまうんじゃないかと思った。そんなふうに考えるぐらい、現実感がなかった。
 だけど、そっちも練習頑張って、と言えなかったことを悔やむ気持ちは残っている。なら、今のやり取りも現実だったはず。途端に、いろんな感情が押し寄せてきた。
 彼に見せると約束したことを思うと、すごく緊張はする。けれど、それとやっぱり同じぐらい、嬉しい気持ちもまた湧いてきた。あの絵に堂々と彼を描ける、そのことに対しての。


                             —終—

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