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2011年5月

walk along〈2〉

〈2〉 一緒に実家へ行く (2)

 「……ね、いつまでもそんな顔してないで。疲れたのはわかるけど、もう終わったんだから」
 ぼそぼそと、辺りをはばかるような小声で奈央子が言う。日曜夜の9時台、電車にはまだそれなりに乗客がいる。だからこその小声だろうし、彼女の言うことも頭ではわかってはいるのだが。
 「悪い、わかってるけど」
 感情制御できない自分がもどかしく、顔を見ずに答えると、細いため息が聞こえた。奈央子も、しょうがないと同意する気持ちはあるから重ねて言ってはこないが、大人げないとも思っているのだろう。自分でも同じように思う。
 だが、そう言い聞かせてもなお、何とも言えない重い気持ちは消せない。理由はほとんど、あの姉のせいである。昔から遠慮も手加減もしてくれたことがなかったが、今日は最大級に辛辣だった。どちらの両親も、予想よりすんなりと状況を受け入れ、祝福してくれただけに、姉の物言いはこたえた。
 ——正確に言えば、公美と奈央子の会話が、である。もっとも、柊が聞いていたのを奈央子は知らないはずだ。
 当然ながら、結婚の報告は両家に小さくない動揺を呼んだ。柊の両親は、奈央子を見て公美以上に呆気に取られ、信じ難いという表情を隠さなかった。特に母親は、電話で言った台詞——『申し訳なくて向こうの親御さんに顔向けできやしない』をさらにパワーアップさせて口にした上、奈央子には『本当にごめんなさいね、うちの馬鹿息子が』と涙ながらに謝り続けて、公美以外の困惑顔を誘った。
 とはいえ、奈央子は昔から母親と姉のお気に入りだし、父親にも異存はなかった。今後どうするか、つまり今週中に入籍して同居を始める報告と、続いての昼食はとりあえず穏やかに運んだ。
 公美が動いたのはその後。食事が片付いたのを見計らい、洗い物とお茶を入れるのを手伝ってほしいと、奈央子をキッチンへ連れていったのである。
 家に入ってからそれまでの間、公美はあまり口を開かなかった。母親の横で『よくこんなのと結婚してくれる気になったわね』程度のことは言っていたが、長年の経験で比較すれば毒は少ない方だった。
 しかし、こと柊に関して毒吐きを遠慮したことがないのも、経験上わかっている。奈央子と二人きりで何を話すつもりなのか、非常に気になった。
 だから、トイレに行くふりをして席を立ち、こっそりとキッチンに近づいて、耳をそばだててみた。
 『……だから、大丈夫ですから』
 『あのね奈央ちゃん、私に対して敬語なんか使わなくていいのよ。で、ほんとにいいの、あんなので』
 『はい。一緒に子供育てようって、すぐ言ってくれましたし』
 『ま、多少は評価してやってもいいけど、そんなのは当たり前よ。一生かけて責任取らせてやらないとね。もしあいつが、奈央ちゃんや子供をちょっとでも粗末にするようなことがあったら、すぐ言って。知り合いで一番優秀な人に弁護頼んで、母子家庭でも困らないだけの慰謝料と養育費をふんだくらせるから』
 『……あの、くーちゃん』
 奈央子が苦りきった声で先を続ける前に、目眩を感じてへたりこみそうになった。足音を立てないようその場を離れ、居間に戻った後も、公美の発言が耳の奥で響いていた。
 今も、思い出すと頭がくらくらしてくる。そのたびに目を閉じて、こめかみを押しながら考える。
 ……なるべく冷静に、かつ客観的に考えるなら、公美があそこまで柊に対してきついのもわからないではない。
 まず、姉が人並み外れて優秀なのはまぎれもない事実である。加えて、傍目からは不必要に見えるほどの努力を重ね、誰もが驚く結果を出し続けてきながら、彼女がそれをおごったりひけらかしたりしたことは、知る限りでは一度もないのだった。
 そして、兄弟に等しい近さで育ってきた幼なじみは、姉ほど極端ではないにせよ、外見も中身も充分に秀でている。その優秀さを鼻にかけず、むしろ、自身には厳しいほどである一面もよく似ている。
 だから公美が、奈央子を妹のように可愛がるのは当たり前で——実の弟が、引き比べるとあまりにも頼りなく見えるだろうこともまた、当然であった。
 「明日仕事だから、今日は帰るけど……ねえ、ほんとに大丈夫?」
 それぞれの実家でもらった土産を置きに、いったん柊のマンションに寄った。もう11時近いから、奈央子が帰ると言うならすぐにも送っていくべきなのだが。
 実家を出て以降ほとんどしゃべっていない上、淹れてもらった茶にも手をつけず、ダイニングの椅子から立ち上がる気力さえ出せずにいる。気遣わしげな奈央子の声は「それとも、今日は泊まっていった方がいい?」と暗に尋ねている。
 今に始まったことではないが、自分がひどく情けなく思えてきた。本来、この状況で気遣うのはこちらの役目であるのに。
 「姉貴が反対すんのも当たり前だよな」
 知らず口に出していた言葉に、奈央子はすぐに反応した。
 「なにそれ、何の……あっ、話聞いてたの?」
 察するのも早かった。もっとも、居間にいる間の公美ははっきり反対を匂わせる発言をしなかったのだから、そう考えるしかないかもしれないが。
 奈央子はこちらを見ながらまばたきを数回して、その後、困ったような笑みを見せた。
 「あのねえ、あれでもくーちゃん、心配してくれてるのよ。わかりにくいとは思うけど」
 公美の毒舌に柊がくぼむたび、昔から奈央子はそんなふうに言う。フォローしてくれているとわかっても、素直に受け入れられたことはなかった。
 なるほど、心配していること自体は確かだろう。だがそれは奈央子を案じてのことであって、自分に対してはむしろ逆というか、「奈央ちゃんを幸せにしなきゃ許さない」的な気合いがあるに違いない。
 ある意味、奈央子の実の父親よりも怖い存在だ。そのせいか奈央子の実家に行った時には、緊張はしていたものの、同時に妙な落ち着きも感じていた。もう何を言われようと動揺しない、というあきらめに似た気分があったからだろう。
 姉が要求するレベルはいつだって平均のはるか上で、容易に手が届くものではない。たとえ柊が限界まで努力しても、ほとんどの場合は認めてくれないだろう。これまでに多少なりとも肯定的な発言をしたのは、大学合格の時と、就職内定の時ぐらいだった。
 もし、普通の順序での結婚報告であったら、姉は自分たちを別れさせるためにあれこれ画策するかもしれない。それぐらい公美は奈央子を可愛がっているし、弟に対する評価は低いのだ。
 「まさか。そんなことしないって」
 ぼそりと口に出した仮定を、奈央子は笑いながらきっぱりと否定する。
 妙に確信に満ちた口調で、なぜそこまで言い切れるのか不思議だった。だからそう尋ねると、
 「だって、そういうことはもうあきらめてるはずだもの。わたしの気持ちはとっくに知ってたし」
 「……え?」
 「昔から言われてたのよ、あんなのよりマシなやつは山ほどいると思うけどって。実際、くーちゃんの知り合いを紹介されかけたこともあったし」
 2回ぐらいかな、と奈央子は苦笑いを浮かべながら打ち明ける。
 「けどそのうち、絶対気持ちが変わりそうにないって思ったのか、『しょうがないわね』ってずいぶん呆れられたけど。でもそれ以上は何も言わないで、見守ってくれてた」
 「……そんなこと、全然」
 知らなかった。今の今まで気づきもしなかった。
 「うん、絶対ばらさないでって頼んでたから。何とかしようかって言われたこともあったけど、それって高2の夏休みだったし」
 だからわたしはもう言わないつもりでいたんだけど、と奈央子は続けた。高校2年の夏というと、里佳に告白されて付き合い始めた頃だ。
 ——その時、もしくはその前でも、もし奈央子に告白されていたらどうしただろうか?
 あの頃の自分が奈央子を幼なじみ以上に認識していなかった、少なくとも想いに気づいていなかったのは確かで……彼女に好きだと言われた場合に向き合うことができたかどうかは、自信が持てない。
 情けない話だが、たぶんそれが事実だ。
 奈央子を頼もしく思ってはいたけれど、あの頃の柊にとってはそれが全てだったから、好きと言われてもきっと、困ることしかできなかった。彼女も察していたから、言う気になれなかったのだろう。
 自分がいかに鈍感であったか、あらためて思い知らされた気分だった。
 同時に湧き上がってきたのは、姉に対する意外の念。時も場所も関係なく、ひたすら容赦なく辛辣な口出しばかりの姉が、この件に関しては沈黙を守ってきたとは——もちろん奈央子に懇願されたからではあるだろうけど、それでも意外だった。
 そして、もっと強い勢いで胸の内を満たしていくのは、奈央子へのさまざまな感情。一番大きいのはやはり、愛おしさと、同じほどの感謝の思い。こんな自分を好きでい続けてくれたこと、結婚にうなずいてくれたことに対しての。
 昔は、奈央子が近くにいるのを当たり前だと——いや、わざわざ考えもしなかったほど、普通のことと感じていた。けれど付き合い始めて以降、ふとした時に、それは決して普通でも当然でもないのだと何度も気づかされた。——今、この瞬間のように。
 いくつもの偶然で出会えて、身近にいられて、そして互いに想い合えるようになった。
 今こうしていられるのは、奇跡的なことなのだ。
 黙り込んで結構時間が経ったらしく、気づくと、奈央子がすぐ横まで来て顔をのぞき込んでいた。
「どうしたの?」と心配そうな表情で問いかけられても、まだ答える言葉が出てこない。代わりに手を伸ばして彼女の頬に触れ、同時に少しだけ顔を近づけた。呼吸が一瞬止まる。
 唇を離した後も、手は頬に添えたままでいた。唐突さに戸惑った様子の、奈央子の目をまっすぐに見る。
 「……あのさ、おれ、頑張るから」
 「え?」
 「おまえにはたぶん勝てないだろうし、姉貴とかには一生認めてもらえないかもしれないけど、でも、努力する。少なくとも絶対、おまえと子供を不幸にはしないから」
 一息に言い切ると、奈央子は何度もまばたきをしてから、目を伏せた。考え込むように間を置く。
 「……うん。ありがとう」
 その声はかすかに震えていた。いろんな思いを、懸命に抑えているかのように。
 「でも、無理しなくていいから。言っとくけどわたしは、柊に勝ってるとか考えたこと、一回もない」
 思いがけない言葉に虚を突かれた瞬間、奈央子ははにかむような笑みとともに顔を上げた。その表情は、彼女を思いがけないほど子供の頃に近づけた。
 「くーちゃんだって、口で言うよりはちゃんと、認めてくれてると思うし。それに……わたしは今でも充分幸せだから」
 最後の部分は耳のすぐ横で、ささやくように聞こえた。抱きついて寄りかかる奈央子の重みを、柊は全身でしっかり受け止めた。

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walk along〈1〉

walk along~『ココロの距離』後日談・2

〈1〉 一緒に実家へ行く (1)

 5月中旬の日曜日。
 窓の外はよく晴れているのに対し、すぐ横では空気が凍りついたように固まっていた。沢辺奈央子(さわべなおこ)は隣の座席にいる相手に向かって、何度目かの台詞を口にする。
 「ねえ、すごく顔ひきつってるの、わかってる?」
 「わかってる」
 と柊(しゅう)は答えたが、表情が緩む気配はなく、声も固い。もっと肩の力抜いて、と奈央子は言いかけたがやめた。今朝早くから何度も同じやり取りをしてきて、効果は一度もなかったからだ。
 もっとも、柊の異常な緊張もしかたのないことではある。こうやって電車に揺られて実家に向かっているのは、結婚の挨拶に行くためなのだから。
 しかも、奈央子の妊娠報告というおまけ付きで。

 それがわかったのはほんの数日前。しばらく前から兆候はあったものの、なかなか病院に行く勇気が出なかった。確定すれば結婚が現実味を帯びてくる——そのことが正直、怖かったから。
 もちろん、いずれは結婚するつもりでいた。だが具体的に考えたり話し合ったりしたことは、これまでに一度もなかったのだ。
 幼なじみから恋人の関係になって、5年半近く。
 良く言えば落ち着いた、はっきり言ってしまえばぬるま湯の状態に慣れきっていたから、先へ進むことに対して必要以上に躊躇していた。そこに妊娠した事実、ひいては子供を産んで育てる将来への不安が加わり、怖くなってしまったのである。
 だが結果的にその事実が、一歩踏み出すきっかけにもなったのだ。何もなければ、まだ当分は今の状態が続いていただろう。その方が気楽だから。
 お互いがそう思っていたことも奈央子はわかっていた。だから、子供ができたと打ち明けてすぐに柊が、結婚しようと言った時は驚いた。あまりに悩まないふうだったので「ほんとにいいの?」と聞き返してしまったほどだ。
 けれど、内心はすごく嬉しかった。驚きの後ろに隠れていたその気持ちが、柊の言葉を聞くうちに、じわじわと全身に広がっていった。子供を一緒に育てていこう、と迷わずに言ってくれたことが本当に嬉しくて、涙が出た。
 柊とならきっと大丈夫。そう思えた時、将来への恐怖心が溶けていくのがわかった。完全に消えたわけではないがずいぶん少なくなったのは確かで、妊娠の可能性に気づいてから初めて安心できた。
 この先の道が怖くても不安でも、自分は一人じゃない。一緒に歩いてくれる人がいる。それがどれだけ心強いことか、初めて実感したのだった。

 事情が事情だけに、なるべく早く、実家に挨拶に行かなくてはならない。結婚を決めた日の話し合いで、その点はお互い意見の一致するところだった。
 そして、最初に悩んだ点が「両親にどんなふうに伝えるか」であったことも。
 「だって、付き合ってる人がいるとは話してるけど……あんたが相手だってことは言えてないもの」
 「——だよな、おれも」
 なにぶん生まれた時から——正確には二人が生まれる前から、両親はご近所で顔見知りの間柄。さらに、母親同士は出産日が近かった縁で、昔はしょっちゅう子供連れで家を行き来していた。今も、何やかやと世話を焼き合う仲は続いているらしい。
 お互い、相手の親はもう一組の両親と言っていい存在である。それだけ近しいと、なんというか……今さらこういうことになりましたと報告するのは、何か非常にばつが悪いというか、気恥ずかしい思いが強い。要するに、すごく言いづらいのだった。
 「子供ができたからすぐ結婚するってだけでもインパクト強いのに、そこまで言えないよな、やっぱ」
 「そうよね……うーん」
 しばらくはそんなふうに、二人して首をひねり合っていた。しかしいつまでもそうしているわけにはいかない。
 とりあえず結婚と妊娠の2点は伝えようと決め、まずは奈央子が実家に電話をする。正確には母親の携帯に。時刻は9時近く、普段なら夕食が終わっている頃合いだ。
 呼び出し音が3回目に入った直後、つながった。
 「もしもし、お母さん?」
 『あら奈央子、久しぶりね。元気にしてる?』
 「うん、元気。あのね、急なんだけど……今度の日曜ってお父さん休み?」
 『え、そうね、今は何も聞いてないから休みのはずだけど。どうしたの急に』
 「じゃあ、家にいてくれるように言っといてもらえる? 実はね——」
 結婚を決めたことと、急な話になった理由を、正直に奈央子は打ち明ける。短い沈黙があった。
 「……それでね、入籍する前に挨拶はちゃんとしたいって——彼が言うから、なるべく早く連れてい」
 『わかった』
 奈央子が最後まで言う前に、きっぱりした声が割り込んだ。先ほどまで『えっ』と驚いたきり黙っていた母親は、早くもほぼ、いつもの調子を取り戻している。
 『ちゃんとお父さんには伝えておくから。何時頃に来る?』
 「えっと……昼前、11時ぐらいで大丈夫かな」
 柊と目くばせをしながら時間を相談し、
 『じゃあ、気をつけていらっしゃい。あ、奈央子。おめでとう』
 通話を終える直前にさりげなく、けれど思いは強く感じられる声で、そう言われた。ありがとう、と返して切った後も、しばらく電話を見つめていた。
 「おばさん、なんだって?」
 「……ん、ちょっとびっくりしてたけど、日曜のことはちゃんと伝えてくれるって。それと」
 そこで奈央子は言葉を切る。声が震えかかっているのに気づいたからだ。何度かまばたきをしてから顔を上げ、
 「おめでとう、だって」
 微笑みながら言ったつもりだったが、半分しか成功しなかった。目を見張った柊の表情を見るまでもなく、涙があふれてしまったことには気づいた。
 「そっか。……泣くなよ、もう」
 ほっとしながらも、ほんの少し困った口調。
 ごめん、と言いながら目の縁と頬を拭う。確かに今日は泣いてばかりだ。けれど、嬉しくて泣くのだから、少しぐらいは大目に見てほしい。
 そう言うと、柊は「そうだな」と笑ってくれた。その笑みにつられて、奈央子の顔も自然とほころんでくる。無邪気に笑ってばかりもいられないとは思うが、今はやはり嬉しかった。
 ひとしきり微笑み合ってから、柊が言った。
 「けど相変わらず、おばさんて大物だよな」
 「そう?」
 と返したが、実は奈央子も同感だった。一人娘の結婚と妊娠の同時報告に「ちょっとびっくり」程度で対応できる母親は、そんなに多くはないだろう。
 「ん、おまえとよく似てる」
 「それって誉めてんの、からかってんの」
 「誉めてるに決まってるだろ?」
 言いながら柊は、奈央子の鼻を軽くつまむ。
 不意打ちから慌てて逃れると、柊の笑みがますます深くなった。こちらを見る目は、すごく優しい。
 つきあい始めてから、柊は時々そんな目をするようになった。そうやって見つめられるといつも、勝手に頬が熱くなってくる。今もそうだ。
 照れくささも相まって、奈央子はしばし視線を落とす。そして照れをごまかすために、わざと上から目線の調子で言ってやった。
 「そんなことより、次はあんたの番でしょ」
 「……はい」
 途端に柊は、しかられた子供のごとくしゅんとする。この表情は昔から全然変わらない——情けないなあと思いながらも励ましてあげたくなってしまう顔。だから次の言葉はおのずから、いたわるような口調になった。
 「ほら、頑張って」
 「——ん」
 携帯を手に、柊は一度深呼吸をする。自宅の番号を押す指を、奈央子は祈るような思いで見守った。

 そして今日、つまり約束の日曜に至る。
 電車を乗り継いで2時間ほどの、高校を卒業するまで住んでいた町に帰ってくるのは、今年の正月以来のことだ。
 二人とも、大学時代から年末年始とお盆の帰省は欠かしていなかったが、一緒に帰るのは初めてである。仕事や私用の都合があったし、それ以前に、日を合わせるのは意図的に避けていた。同じ日に帰っている時でも偶然を装い、わざわざ約束して会うことはしなかった。
 理由は身内に対してと同じで、つまり、地元ではなるべく、付き合っていることを広めたくなかったからである。知られて困るというよりは、やはり、なんだか恥ずかしいのだ。
 しかしこの期に及んでそうも言っていられない。誰に見つかっても潔く対応するつもりで、そろって町の最寄り駅に降り立った……のだったが。
 「誰にも会わなかったね、ここまで」
 あと1つ角を曲がるだけの場所まで来たところで奈央子は言った。徒歩15分の道のりの間、知っている顔には全く出くわさなかった。中学まで一緒だった友人や顔見知りが、まだ何人か住んでいるはずなのだが。
 対する柊の返答は「ん」という一声のみで、顔を振り向けもせず、どんどん足を進めていく。その横顔は、電車に乗っていた時よりもさらにひきつっているように見えた。奈央子はスーツの腕を引く。
 「ね、もうちょっと気持ち楽にできない? 自分の実家に行くのにそれじゃ」
 わたしの家に行く時どうするの、と言いかけたがやめた。その時にはもう柊の実家、羽村(はむら)家の前だったからだ。
 ……3日前に電話した際、応対した母親に柊は、何やら相当耳に痛いことを言われたらしい。よくは聞こえなかったし柊も教えてくれなかったのだが、今と同じ程度の固い、そして青白い顔をしていた。
 ちなみに、当初は奈央子の実家を先に訪ねる予定だったが(礼儀上それが当然だろう、という柊の意見もあって)、母親の介護ヘルパーの仕事が急遽、午前中だけ入ってしまった。そのため、昼と夕方に分けていた予定を入れ替えてもらったのである。
 静止したままの柊を何度も促して、ようやくインターホンのボタンを押させた。音が聞こえてしばし後、玄関のドアが開く。現れた姿に奈央子は少なからず驚き、柊は「げっ」と声に出して言った。
 「……なんでいるんだよ、姉貴」
 柊の3歳上の姉、公美(くみ)に会うのは久しぶりだ。
 現役で有名国立大に入学、在学中に司法試験に合格した、掛け値なしの才女。加えて、素顔でもメイクしているように見えるほど、はっきりとした目鼻立ち。さらにモデル並みの長身とくれば、目立つために生まれてきたとしか思えないような人である。
 今は、数年前に仲間と立ち上げた法律事務所で、弁護士業に忙殺していると聞く。年末年始でさえろくに休みを取らず、めったに帰省していないという彼女が今日、来ているとは思わなかった。
 子供の頃から実の妹みたいに可愛がってくれた人だから、奈央子にとっては苦手な相手ではない。だが、柊が渋い表情を隠せない気持ちもわかる。
 柊の成績はいちおう中の上レベルだったし、見た目も——この点は多少ひいき目が入っていないとは言えないが——平均よりは良いから、決して公美が言うところの「不出来な弟」ではないと思う。
 けれど彼女みたいな人にそう言われ続けたら、それが正しいのだと思い込んでも無理はないだろう。柊がいまひとつ自分に自信を持てないふうなのは、いまだにそのことがトラウマになっているせいかもしれない。
 そんな弟の反応を楽しんでいるかのように、公美はにやりと笑う。そんな表情さえも華やかに、魅力的に見えてしまう人なのだ。
 「ご挨拶ね。不肖の弟が『出来ちゃった結婚』するとか聞いて、帰ってこないわけないでしょ。あんたに引っかかった気の毒な子をなぐさめてあげなきゃ……あれ、奈央ちゃん?」
 ずけずけと言いかけてから公美は、柊の横にいる奈央子に気づいて目を丸くした。
 「くーちゃん、いえ公美さん、お久しぶりです」
 あらたまった口調で、姿勢を正し会釈する奈央子を、公美はまじまじと見つめてきた。さすがに驚いたらしい。
 無言で視線を、奈央子と柊の間で2度ほど往復させてから、やっと合点がいったように「ああ」と声を出さずにつぶやき、微笑んだ。
 「そういうことね。ふうーん。そうなの」
 さらに笑みを深くし、思わせぶりに言う公美は、さっきまでの調子をすでに取り戻している。
 「ま、とりあえず入んなさいよ。母さーん、柊がお嫁さん連れてきたわよ」
 お嫁さんと言われて、にわかに緊張が増す。直後に右手が強い力で握られる。もちろん柊の手だ。
 見上げると、握りながらも正面を向いたままでいる柊の顔、固い表情は変わりないものの、前を強く見据えた目が見えた。
 わたしよりもずっと緊張している——けれど、逃げずに一緒にいようとしてくれている。
 そう思ったら、自分の緊張は半分以上忘れてしまえた。微かに震えてさえいる手を、奈央子は同じだけ強く握り返した。

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walk along〈3〉

〈3〉 二次会で報告する

 「で、旦那さんは今日はどこ行ってんの?」
 「例の二次会。ねえ彩乃(あやの)、その……旦那さんていうの、やめてくれない」
 「なんで。いいじゃないの別に、事実なんだから。そうでしょ、奥さん」
 「……だから、そういうふうにからかわないでってば」
 入籍して2ヶ月。夫婦という立場にはまだ、二人とも慣れなくて照れくさい。旦那さんだの奥さんだのと呼ばれると、半ば本気で困ってしまう。
 ましてや、中学からの親友で、自分たちのことをつぶさに見てきた瀬尾(せお)彩乃が相手ではなおさらだ。
 こちらの当惑などおかまいなく、彩乃は実に楽しそうに、にやにやと笑っている。祝福する気持ちがあるからこその物言いだとわかっていても、やはりくすぐったくてしかたない。
 7月中旬、晴れの日曜日。母校である私立K大学近くの喫茶店で、数ヶ月ぶりに会った。
 彩乃は現在文学部の博士課程に在籍しているが、日曜は当然休みである。卒業以来一度も足を運んでいないから久しぶりに行ってみたい、と奈央子の方から口にしたのだった。
 「このへんは、あんまり変わってないね」
 「うん、バス停の向こうもコンビニになったぐらいかな。お弁当屋さんは去年閉めちゃって。それよりさ、写真早く見せてよ」
 と期待をこめて言われた瞬間、また気恥ずかしさが戻ってきた。「絶対持ってきてね」と彩乃は昨夜も電話をかけてきて念を押したし、もちろん忘れてはこなかったが、反射的に躊躇を感じてしまうのはどうしようもない。
 それでも結局はカバンから取り出し、向かいに座る親友に渡す。布張りの表紙を開いた途端、彩乃の目はそこに釘付けになった。ずいぶん長く、無言でそうしているので、次第に落ち着かなくなる。
 「……びっくりした。想像以上にきれい」
 やっと口を開いたと思ったらそんな台詞で、どうにもいたたまれない気持ちになってしまう。そこに写っているのが自分とは思えないからだ。
 「まぁ、その分て言っちゃ悪いけど、こっちの真面目さがなんか笑える」
 写真の片側を指差し、一転しておかしそうな口ぶり。その点は正直、同意だった。一番そう思っているのは本人だから、柊の前で口には出せないが。
 「でも奈央子、ほんとにきれい。ご両親も喜んだんじゃない?」
 確かにその通りだったし、結果的にはよかったと思う。当初、結婚式をやるつもりは全くなかったのだ。日にちの余裕も予算もないと思っていたし、式に対するこだわりも持っていなかったから。
 だが双方の家族は全員、せめて内輪でだけでも式は挙げなさいと強く言ってきた。一番強硬だったのは、今や義理の姉となった公美。『私が、式場も他の段取りも全部手配してあげるから』とまで言われては断るわけにいかず、式を挙げる覚悟を決めた。
 ……確かに、何の前触れも予告もなく結婚を決めてしまったのだから、せめてその意見は容れるべきだと二人とも考え直した。両親の説得は懇願に近いものがあったし、彼らが式を挙げてほしいと思う気持ち、とりわけ奈央子の両親がそう願う気持ちは、奈央子自身も柊もよくわかったから。
 その後2週間も経たないうちに、公美は本当に全ての手配を済ませて、6月中旬の大安の日曜で式場を確保した。その時点で5月末だったし、半年前であっても、6月の大安の予約なんて難しいはずだ。
 そんな無謀というか無茶というか、ともかくあり得ない状況で式場確保ができたのは、公美が職業柄とても顔が広く、その人脈を最大限に利用した成果なのだろう。いくら身内のためとはいえ、仕事で忙しい中、よくそこまでやってくれたものだと思う。しかも、状況を考えればこれまたあり得ないほどの低予算で。その支払いは、全額払うという両親側との攻防の末、最終的には折半で決着がついた。
 「えっと、式に呼ばなくてごめんね。決まったのが半月前だったからすごいバタバタしちゃって、両方の家族と近くの親戚が精一杯で」
 「それは別にいいって。今は大事な時期だから式も短めで、披露宴はしないってちゃんと聞いてたし。その代わり、落ち着いたら集まる段取りは今から考えとくからね。地元の子も総動員で」
 楽しそうな彩乃の様子からすると、すでにある程度、具体的な企画が立てられているのかも知れなかった。彩乃を含め、そういう「お祭り」を企画するのが大好きな人物の心当たりは数人いる。
 祝ってもらう立場としては喜ぶべきなのだが……中学までのことを知っている彼女たちがいったいどんな「お祭り」を催すつもりなのか、不安も感じないではなかった。つまり、ある意味で急転直下な展開だという自覚はあったから。
 「ところで」と、彩乃が視線をやや下に落とす。
 「男か女かはまだ調べてないんだっけ。希望としてはどうなの?」
 奈央子も、彩乃の視線が向く場所、自分のお腹に目をやる。最近ふくらみが少しばかり目立ってきた。服も今までのものは合わなくなってきたので、徐々にマタニティスタイルに移行しつつある。
 「んー、考えてないなあ。くーちゃん、じゃなくてお義姉さんは、絶対男がいいって言ってるけど」
 「え、なんで」
 「……女の子だと柊に似る可能性が大きいから、だって」
 彩乃は間髪入れず吹き出した。すぐに「ごめん」と言ったものの、笑いを容易には抑えられないらしく、うつむいて口に手を当て、肩を震わせている。
 いかにも公美らしい、率直すぎる意見である。柊がその場にいなかったのがせめてもの幸いだった。聞けばまた、当人は必要以上に落ち込んでしまうだろうから。
 ……それにしても、と奈央子は心の中でささやかにため息をついた。昔から柊には、自分を必要以上に過小評価する傾向がある。公美のような人が身近にいるから多少はしかたないとはいえ、ちょっと意識過剰なのではないか、と今でもたまに思う。
 思えば奈央子に対しても、特に付き合い始めてからはそんなところが見受けられた。確かに成績などでは上回っていたかもしれない。だがもっと根本的な意味で、柊より上だと思ったことは一度もない。勝ち負けを論ずるならたぶん、自分はずっと負けっぱなしだ——好きだと気づいた子供の頃から。
 彼なりに年齢相応に成長したところはもちろんあると思うが、柊の基本的な性質は、24歳の今でも全然変わらない。鈍感で不器用で、時々ものすごく子供っぽい。そして、驚くほど裏表がなくて正直だ。
 そのせいで手間をかけさせられたり、もどかしく思わされることがあっても、彼の性格の変化のなさには、実のところ安心もしている。小さい頃に好きだと思った、そのままの柊であることが。
 おそらくこの先もずっと同じふうでいてくれる、変わらないでいてくれると、信じていられることが心から嬉しいと思える。そんなことをつい口にすると、親友はふふと笑った。
 「相変わらずだね。いいなあ、幸せそうで」
 「なに言ってんの、そっちだって順調じゃない。結婚待ち状態なだけで」
 「……まあ、ね」と、いつもの彩乃らしくない躊躇が混ざった、同時に可愛らしい照れをも含んだ反応が返ってくる。今は遠距離恋愛中の、従弟でもある2歳下の彼氏のこととなると、彼女の方が年下になったみたいな、こんな態度を見せることが多い。
 「でもほら、あたしもせっかくドクター進んどいてすぐやめるわけにもいかないから。せめて論文ひとつぐらい書かないとね」
 照れをごまかすためにか、目をそらして咳払いを繰り返す。そしてふと思い出したように聞いた。
 「そういや、今日の二次会に来る人たちって知ってるのかな、結婚のこと」
 「……知らないんじゃないかな。結婚はがき出したの親戚だけだって言ってたし」
 と返すと、彩乃はまた楽しげな笑みを浮かべた。
 「そっかー。じゃあ、大騒ぎになるだろうね」

     ◇

 大学のサークル仲間がこれだけ集まる場に来るのは、少なくとも柊は久しぶりだった。たぶん、今日の主役である望月里佳(もちづきりか)と前に会った時、1年ぐらい前の飲み会以来ではないかと思う。
 里佳と、その結婚相手を祝う二次会は、友人代表の挨拶ののち、食事しながらの歓談へと進んだ。
 こういう二次会には、会社の先輩などが結婚した時に数回参加しているが、今日は賑やかさ、騒がしさの質が明らかに違う気がする。どちらも学生時代の友人に限定して招いているという話だから、出席者全員が、昔に戻ったような気分になっているのかもしれない。
 柊自身も、そして同じテーブルの面々も例外ではなく、昔話と近況がほどよく混ざった会話に花を咲かせていた。だが里佳が近づいてくると、そちらに注目した直後に誰もが黙り込む。そして数秒の間の後、感嘆の声、もしくはため息を洩らした。
 里佳が着ているのは、艶のあるピンクの内側に淡いクリーム色の柔らかい生地を重ね、あちこちに黄色い花をあしらったドレス。髪にも同じ花を飾ったスタイルはよく似合っていて、確かに人目を惹く。
 ——自分たちは披露宴も二次会もやらなかったから、奈央子が着たのはウエディングドレス1着だけだった。こういうのを彼女が着てもきっと似合っただろうし、見てみたかった気もする。
 まあ、ウエディングドレス姿だけでも充分にきれいで、全く不満はなかったのだけど。……自分の、滑稽としか言いようのなかった格好は置いておくとして。
 ともあれ里佳は、衣装の華やかさに負けないほどの明るい笑顔で、本当に幸せそうだった。それは間違いなく、結婚相手が与えてくれたものだ。
 その当人——日下部(くさかべ)氏は今、友人らしい数人がいるテーブルに引き止められて、カメラのフラッシュとビールの乾杯攻めに遭っている。
 里佳と「付き合って」いた2年間、最後まで恋愛感情を持てなかった事実は、思い返すと今でも少し申し訳なく感じる。そして、柊以上に奈央子がそのことを気にしていたのを、彼女自身は口にしなかったけれど知っている。だからこそ今、日下部氏には心から感謝したい気持ちだった。
 「ちょっと、ねえ」
 という声とともに腕を引っ張られ、はっとして柊はそちらを振り向いた。隣に立つ女性が、笑顔の中に怪訝そうな色を混ぜて見上げている。里佳と一番仲の良かった林祥子(はやしさちこ)だ。
 「悪い、なに?」
 「なに、じゃないわよ。さっきから呼んでるのに聞こえてないの」
 え、と周りを見回すと、いつの間にか他のテーブルの面々も何人か寄ってきていて、皆一様に、祥子と同じ表情をしている。くすくすと笑い声を立てたのは、その中心にいる里佳だった。
 そういえば今日、まだ一言も話していない。
 「……えっと、おめでとう望月」
 「ありがとう」
 もう望月じゃないって、と数人からすかさずつっこみが飛ぶ。里佳は屈託のない笑みで「いいから」と彼らをなだめた。
 「ところで、羽村くん最近どうしてるの。あ、沢辺さんは元気?」
 絶対、誰かにはそう聞かれると思っていた。それが里佳だったのは皮肉なのか幸いなのか、判断に困るところではあるが。
 思いきり注目されている中、打ち明けるのは非常に勇気がいる。だが嘘をつくわけにはいかないし、皆にはちゃんと報告するべきだとも思う。
 今朝からずっと、意識的に人の目から隠していた左手を持ち上げる。指輪に目ざとく気づいたらしい何人かが目を見張った。
 「実は、5月に結婚した。年明けに子供生まれる」
 ええっ、と予想以上の大きさでどよめきが起こった。10人程度の声が、会場内の他のグループ全員を振り返らせるほどに大きく響き、
 「なにそれ、聞いてない」
 「計算合わないじゃん、ひょっとして出来婚?」
 「羽村が親になんの? うわー似合わねー」
 口々に、しかもさらに大声で言うものだから、何が起きているか知った別テーブルの連中が次々に集まってきた。
 出来婚で正解だとか、だから身内だけの結婚式で済ませたとかどうにか答えつつ、いっそ奈央子も連れて来るべきだったかと一瞬、切実に思ってしまった。それほど浴びせられる質問や感想の勢いはものすごく、一人で対応するのは大変だった。おまけに事情を知らない相手側の招待客に説明を始める者が出る始末で、収拾のつかない状況になりつつある。
 限りなく続きそうな騒がしさの隙をやっととらえて、柊は両手を上げて周りを抑える仕草をした。
 「まだなんかあるんなら後で聞くから。今は望月、じゃなくて日下部さんのお祝いなんだから、それぐらいにしといてくれよ」
 やや息を切らしながらそう言うと、ざわめきの質が変わるのがわかった。それもそうだね、と誰かが言い出し、興奮がすっと治まっていく。
 それを確認してから里佳を振り向き、騒がせたことを謝る。今日の主役なのに、一時とはいえ蚊帳の外に置いてしまった。里佳は、他の皆と同じように驚きは浮かべていたものの、全く不愉快そうではなかった。そればかりか、笑みを見せて首を振った。
 「気にしないで。皆が騒ぐのわかるし」
 確かに奈央子は昔から目立っていたし、大学時代も学内で指折りの才媛として有名だった。彼女狙いの男子学生の中には、サークルの仲間も数人はいたはずだ。
 だから付き合っていると知られた後は、それまでは幼なじみ止まりと認識されていたせいもあって、しばらくの間いろいろ言われたものである。
 それを、当事者の一人だった里佳に思い出させられるのは、若干とはいえ複雑なものを感じざるを得ない。別れて何ヶ月も経っていなかった頃だから、里佳も何かしら言われていたに違いないのに。
 だが里佳の表情に、そういった過去へのこだわりはかけらも感じられない。含みのない笑顔のまま、さらに言葉を続ける。
 「でも意外、羽村くんたちが出来婚って。向こうのご両親に挨拶する時大変だったんじゃない?」
 「——ん、まあそれは」
 つい言葉を濁す。……確かに大変ではあった、主に自分自身の気分の点で。実家でさんざん打ちのめされた直後だったから、ああいう場合でなければまっすぐ帰りたかったほどに疲れていた。それだけに、奈央子の両親がすんなりと話を受け入れてくれたことには、本当に救われた気持ちになった。
 厳密に言うなら、父親はやはり複雑そうな表情と態度を見せていたが、一人娘をどれだけ可愛がっているかを長い間見てきて知っているだけに、それはまあ無理もないと思う。奈央子の父親は普段は穏やかな人だけど、怒る時には自分の子供もよその子供も、同じように厳しく叱りつける人でもあった。
 そういう怖いイメージのせいだけではなく、今回の件では何かしら厳しい言葉をもらうか、もしくは一発ぐらい殴られてもしかたないとは考えていた。その予想からすると、あの場での気まずさなどはたいしたことはなかった、とさえ思える。面と向かっては「奈央子が選んだのだから信じることにする」と言われただけで、他には何もなかったのだ。
 たぶん、母親が非常にうまく取り繕ったり、なだめたりしてくれたのだろう。なにせ、二人で訪ねて行っても驚いた顔ひとつしなかった——あまつさえ薄々わかっていたと言い切った人である。逆にこちらが、奈央子でさえ少なからず意表を突かれた顔をしたほどに、驚かされた。
 そして、挨拶の前後の雰囲気を、奈央子と母親が絶えず明るく保ち続けてくれたのも本当にありがたかった。似た者母娘の見事な連携と威力を見るにつけ、沢辺家の女性には敵わないと思ってしまったことは、大きな声では言えない事実である。
 「けど、喜んでもらえたから」
 途中をかなりすっとばした結論だが、そうだったのは違いないし、少なくとも今日のこの場で詳しく説明を始めるのは、単純に面倒だと思う気持ちがあったことも否めないが、それ以前に筋違いだろう。
 「そう、よかったね。おめでとう」
 奥さんによろしくね、と続けて言われ、照れくささも覚えたが、それ以上に大きな喜びで満たされるのを柊は感じた。家族以外に初めて言われたのと同時に、相手が里佳だからというのもあるかもしれない。立場が逆だな、とは若干思いつつも。
 満面の笑みを向けてくれている里佳に、柊は笑顔とともに「サンキュ」と返した。

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walk along〈4〉

〈4〉 思いを打ち明ける

 日々は穏やかに過ぎていった。
 8月の末、夏の盛りが過ぎて秋へ傾き始める頃、子供はたぶん女の子だろうという検査結果が出た。それを知らせた時、やはりというか義姉は電話の向こうで「……あ、そうなの。まあ奇跡的に奈央ちゃんに似ることを祈ってるわ」と、非常に複雑そうな声で感想を述べた。
 思わず苦笑いを声に出してしまい、そばにいた柊に「なに? なんつったの姉貴」と聞かれる羽目になった。表現を若干やわらげて伝えたものの、彼が憮然とした面持ちになったのも予想通りだった。
 だが予想外だったこともある。柊の、子供に関する事柄への熱の入れようだ。女の子だとわかった直後からは顕著になって、服やおもちゃその他をやたらと揃えたがり、週に1度は何かしら買ってくる。
 名前も、こちらが言い出す前に考え始めていた。そして毎日のように、買い込んだ姓名判断の本を読みふけったり、思いついたものを占いサイトで調べてみたりしている。その熱心さは正直なところ意外だった。
 単純に、彼が率先して何かしたことが、長い付き合いの中でも数えられるほどにしか覚えがないという背景もあったけれど、それだけではない。
 子供を大切に育てようという柊の意思は、確かに当初から感じていた。でもここまで、有り体に言えば親馬鹿に近い行動をするとは思わなかった。
 今からこうでは、子供が生まれた後はどうなるのやら。良くも悪くもべったりになってしまいそうな気がして、ちょっと不安だった。
 ……そして、同時に感じていたかすかな苛立ち。なぜ苛立つのかわからなくて、けれど、柊が子供のことを口にする回数が増えるごとに感じる頻度も高くなり、そのたび落ち着かないことが続いた。

 その感情が何なのか気づいたのは、10月初めの、朝から少し空気が冷たかった日のこと。
 数日前まではしつこい残暑で日中はまだ暑いほどだったのに、一転して平年以下の気温、最低温度は12月上旬並みだと天気予報で言われていた。
 その日、奈央子は定期検診と休職にともなう手続きのために、一日休みを取っていた。全ての用事を済ませて帰る途中の夕方、雨が降ってきた。
 突然ではあったけど、予報で午後からは雨の可能性があると聞いていたので、傘は持っていた。だから自分自身は困らなかったが、必然的に柊のことを思い出した。朝はよく晴れていたから、大丈夫だろうと楽観的に言って傘を持っていかなかったのだ。
 迎えに行こう、と思ったのは自然ななりゆきだった。こんな時はタクシーは混むかもしれないし、今はなるべく節約するに越したことはない。
 夜は冷えるだろうけど、今はもう安定期だし、冬の装いで暖かくしていけば大丈夫だろう。
 そして、終業時間を見計らって柊に電話した時。
 『もしもし?』
 「あ、わたし。今日何時頃になる?」
 『もうちょっとかかるから、会社出んのは6時半ぐらいかな。なんで?』
 「ううん、別に。お疲れさま」
 迎えに行く、とわざと言わなかったことにも他意はなかった。どんな顔をするかな、といういたずらっぽい楽しみがめずらしく頭に浮かんだだけで。
 6時半に会社を出たなら、自宅の最寄り駅に着くのは7時15分前後だろう。夕食の準備を、あとは焼いたり温めたりする段階まで済ませてから、奈央子は家を出た。
 今の家は、駅から徒歩で10分ほどの2DK。就職後1年ほどして柊が前のアパートから引っ越した部屋で、入籍後に奈央子が、学生時代から住んでいたマンションを引き払い同居した。もっとも、週の半分は通ったり泊まったりしていたから、それ以前から半ば同居の形だったとも言えるのだが。
 駅に着くと、少し前に電車が到着したらしく、改札に通じる階段から人がまとまって降りてくるところに出くわした。その波の後ろの方、人が途切れかけるあたりに柊の姿を見つけ、奈央子は背伸びをした。
 ほどなく柊が顔を振り向けてこちらに気づき、目を見開いた。かなり驚いた表情が狙い通りで嬉しくなって、笑いながら大きく手を振った。
 当然、同じように振り返してくれる、あるいは笑顔を返してくれるものだと考えた。だが柊は表情を変えないまま人波を縫うように走り寄ってきたかと思うと、いきなりこう言った。
 「なにやってんだよ」
 「……え?」
 言われた意味がつかめなくてきょとんとする。その反応が信じられないと言いたげに柊はさらに目を見張り、声高に言いつのった。
 「こんな寒い時に外出てくるなんて、なに考えてんだよ。おまえ自分がどんな体かわかってんのか」
 「……わ、わかってるわよ、だから着込んであったかくしてきたし、今着いたとこだから長い時間待ってたわけじゃ」
 「そういう問題じゃない」
 と、うろたえながらの奈央子の言い訳を柊は切り捨てるようにさえぎる。そしてとどめに「子供に何かあったらどうするんだ、バカ」と付け加えた。
 その瞬間、頭の中が沸騰するような心地がして、顔が熱くなる。気づくと奈央子は、無言できびすを返して駅の外へ走り出ていた。
 柊の呼び止める声は聞こえたが、足を止める気にはなれなかった。彼の声からも、思いきり集めていたに違いない周りの注目からも、今はとにかく遠ざかりたくて。
 傘を差すことに思い及ばず屋根のないところへ出たが、その時もう雨は止んでいた。だが駅前の石畳とコンクリートの道はもちろん濡れていて、だからなおさら走ったら危ないという意識はあるにもかかわらず、それでも足を止められない。
 自分が今抱えている感情が激しすぎて、かつ理解できなくて、立ち止まりたくなかった。止まってしまったら冷静にならざるを得ない——そして、感情に向き合うしかなくなるのが怖い。
 懸命に走ったつもりだったけど、結果的には当然ながら、さほど距離も速度も稼げなかったらしい。駅正面のロータリーからいくらも離れないうちに腕をつかまれ、体ごと振り向かせられる。
 その動作も腕をつかむ手にこもる力も、柊にしては乱暴だった。だがきっとまだ怒っているのだろうと思えば無理からぬことでもある。考えてみれば、彼が声を荒らげてまで怒ったことなんて、子供の頃のケンカを除けば今までなかった。それほどに怒らせてしまった、という思いが気持ちを一気に萎縮させ、顔を上げることができない。
 異常に長く思えた沈黙の後で発せられた声は、しかし予想に反する低いトーンで、穏やかにさえ聞こえた。
 「どうしたんだよ。なんかおかしいぞ、おまえ」
 おかしい、と言われて、反射的に柊を見上げた。その途端、戸惑いの表情がさっきと同じレベルの驚愕に変わる。うろたえた仕草で頬に触れられてようやく、自分が泣いていることに気づいた。
 うそ、とつぶやいた自分の声のひび割れ具合に、慌てて口を押さえる。そうすると乱れた感情が全部目に集まったようになって、さらに涙が出てくる。
 柊が落ち着かない様子でまばたきを早くするのを見るとまたいたたまれなくなって、再び顔をうつむけた。
 ……ああ、ものすごく困っている。当然だ。
 自分でもなぜ泣いているのかわからない——否、薄々わかっているけど直視したくなくて、説明できない。だから何も言えなかった。
 「——とにかく、帰ろう。タクシー使おうな」
 静かな声で柊が言った時にもまだ涙は止められていなくて、そんな自分がふがいなくて、彼の言葉にとっさに反応できなかった。返事もうなずきもしない奈央子に柊は重ねて問うことはせず、こちらの肩に腕を回すことで行動を促した。
 促されるままに歩いてタクシー乗り場にたどり着き、ちょうど客待ちをしていた1台に乗り込む。
 車内でもしばらくは泣いていたし、二人ともほぼ無言だったから、運転手さんはさぞかし困っただろう。そんなふうに思う理性はちゃんとあったのに、泣く理由を説明する踏ん切りはつけられなかった。
 家に帰ってからもそうで、おまけに食事の準備をする気力も出なくて座り込んでしまう始末。めずらしく気を回したらしい柊がお茶を淹れてくれても、まだ何も言えなくて、気持ちだけがどんどん深みにはまっていく。
 何も言われないことがかえって辛かった。さっきのように怒るなり訝しむなりしてくれた方が、まだ気が楽にさえ思える。今の気持ちは自分で説明できない——したくない感情だから。
 ないがしろにされているなんて、思う方がおかしいのだ。柊が子供のことばかり考えて、優先しているから……そんなのは当たり前なのに、そのことに嫉妬するだなんて。
 あまりにも幼稚な感情だから、口に出したくなかった。けれどそれさえも、ただ自尊心のために意地を張っているように思えてならない。結果的にだんまりが続いている今の状態が、本当に情けなくて、ますます自己嫌悪が深まってしまう。
 いっそのこと逃げ出したかった。けれどどこにも逃げる場所はない。今は、ここが家なのだから。
 やっと少しだけ目を上げて、時計を見ると、8時半を過ぎようとしていた。帰ったのが何時か正確にはわからないが、おそらく40分以上経っているはずだ。それだけの時間、何もせずに座ったままでいたことを再認識して、また気分が重くなる。
 お互い、夕食もまだで、明日は仕事なのに。
 時計から視線を動かした途端、柊と目が合った。そして一瞬躊躇したら、そらせなくなった。彼が何とも言いがたい、はっきり言えば感情の読めない目をしていたから。自己嫌悪と気まずさが、一転して大きな不安に変わる。
 それを察したかのように、柊の目が感情を取り戻した。まだ戸惑いを残し、どう対処すべきか悩んでいるらしく見える。お茶の存在を思い出すふりをして奈央子は視線をはずし、湯呑みを手に取った。
 当たり前だがとっくに冷めきっているお茶を。それでも一口含んで飲み込んだ、その時。
 「ごめん」
 はっきりした声で言われたにもかかわらず、しばらくぽかんとしてしまったのは、柊から聞くべき言葉ではなかったからだ。謝るのは、確実にこちらであるはずだから。なぜ、彼から謝られるのか。
 「せっかく迎えに来てくれたのに。礼も言わないで怒鳴ったりして、悪かった」
 ごくあっさりと、当然のように言って、軽く頭を下げさえする。それを見た途端たまらない気持ちになり、思い切り首を横に振った。
 「ちがう、……違う、悪かったのはわたし。わたしが悪いの、わたしが」
 声に出した瞬間からまた感情がたかぶってきて、言葉をうまく文章にできない。少しでも呼吸を整えようと口を手で覆い、繰り返し息を吐き出す。
 「……わたしが気をつけてなかったから。だから、怒られて当たり前なの」
 裏返りそうな声を必死に落ち着かせながらそう言うと、柊はなぜか口元を歪めた。その表情は、戸惑いとはまた別の困惑——純粋に、けれど心から困っているようだった。首の後ろに手をやり、少しだけ目を伏せて口を引き結ぶ。そうしていたのはたぶん10秒かそこらで、再びこちらに視線を向けると同時に、柊は「そうじゃない」と言った。
 「いや、確かに怒ったと言えばそうだけど。でも、奈央子が心配だったから」
 「え」
 「え?」
 「……子供が、じゃなくて?」
 おそるおそる、細い声で尋ねると、柊はますます困った表情になる。どうしてそんなことを聞かれるのかわからないと顔中に書いてある。
 「そりゃ子供だって心配だよ、当たり前だろ。でもさ、今一番大変なのって奈央子じゃないか。おれはただ心配が増えただけだけど、おまえは体の方でも楽じゃない思いして、なのに家のことも仕事も全然手抜きしてなくて。そこまでしてるのに、おれにまで気を遣う必要ないんだよ」
 さっきと同じく、少しのあてつけがましさも含まれない、至極当然といった口調。だがそれだからこそ、反射的に奈央子は言い返した。
 「だって、……あんただって大変じゃない、今年も補充なかったから人数ギリギリなんでしょ。これからお金かかる分、前より残業増やしてるのも知ってるし。なのにわたしが怠けてるわけにいかないし、節約だってするに越したことないし」
 「怠けろなんて言ってないだろ。そうじゃなくて、無理するなってことだよ。おまえ、おれに前に言ったじゃんか、無理しなくていいって」
 はっとする。
 「そりゃ残業は多くなってるけど毎日じゃないし、自分の許容範囲でやってる。それに、休みはちゃんと休んでるだろ?」
 「……うん」
 「だから、奈央子もそうしていいんだって。おまえが弱音吐かないから、ついつい今までと同じにしてたおれも悪いけどさ——つらい時は言ってくれたらいいから。家のことも、まあ、同じようにはできないかもしれないけど、もっと手伝うし」
 言葉の後半はどこか照れくさそうというか、ほんの少しだけたどたどしくなった。柊は、家事能力があるとはお世辞にも言えない方なのだ。料理は包丁の扱いや火加減が危なっかしいし、掃除や洗濯も、時間がかかる上になんとなく不器用さの残る結果になってしまう。
 それでも、同居を始めてからは彼なりに、今までは奈央子任せにしていた家事を引き受けてくれるようになった。洗濯物をたたむとかお風呂掃除とか、不器用でもどうにかなる範囲のことではあるけど、前よりは確実に頑張ってくれている。
 だから、それ以上の手助けは求めていなかった。自分の方が要領がわかっているという思いもあったが、なにより、これまでと同じようにするのを当然だと思っていたから。いろんな動作のたびに不自由は感じても、仕事と家事の両立自体を負担だとは考えなかったのだ。けれど。
 無理するなと言われて初めて、自分がどれだけ気を張っていたのか気づいた。妊娠がわかってからも、よほどつわりが重い時以外は、多少体がつらくても休もうとはしなかった。どうにかできると思ったから、というよりは今思えば、自分の役割をこなさなければいけないと思い詰めていたのかもしれない。自覚のないままに。
 そういうことにはどちらかと言えば無頓着な柊が言うぐらいだから、他の人にはもっと、そんなふうに見えていたのかもしれなかった。たぶん奈央子があまりにも自然にしていた??しようとしていたから、気づいたとしても言いにくかったのだろう。
 涙がこぼれた。けれどすぐに止まったし、さっきとは逆に、感情が落ちつき気がゆるんだからこその涙だ。だがそれをわかるはずもない柊は、控えめながらも三たび、戸惑いを浮かべる。
 また困らせる前にと、今度は自分から釈明した。
 「ごめん、悲しいんじゃないの。ちょっと……自分の方が子供みたいだったなって思って」
 「……? 何の話」
 「わたしね、……たぶん、この子に嫉妬してた。あんたがこの子の話をするたびにもやもやした気分になるのは、親馬鹿ぶりがらしくないからだって最初は思ってた。でもそうじゃなくて」
 ずいぶん大きくなったお腹に手を当て、一度言葉を切り、息を吸い込む。
 「どんな時でもこの子最優先なのが悔しかったの。それが当たり前に決まってるし、わたしだってもちろんそうしてるけど——この子よりも後回しにされてるみたいに感じちゃって、そういう問題じゃないってわかってるのに、それでも悔しくて」
 この期に及んでも、口に出すのはやはり勇気のいることだった。思ったよりは詰まることなく言えたけど、言ってしまうとあらためて恥ずかしくなる。顔を見ながらだとなおさらそう感じたから、言い終えた後はまたうつむいてしまった。今どんな顔をされているのだろうかと思うと、ますます恥ずかしくなって、次の行動のタイミングがつかめない。
 息を大きくつく音が聞こえた時、思い切って顔を上げた。いつの間にか同じように目を伏せていた柊が、同じタイミングでこちらを見るところだった。
 「……意外だな、奈央子がそんなこと思ってたなんて」
 本当に意外そうで、なおかつ、ほんの少しだけ、呆れが混じっているふうに聞こえた。だがこちらに向けている表情は、ひどくやさしい笑み。
 テーブル越しに柊の手が伸びてきて、こちらの手を包み込むように握る。
 「あのさ、誤解すんなよ。子供が大事とか可愛いとか思う理由って人それぞれかもしれないけど、おれの場合は、おまえとの子供だからだぞ。それ、わかってくれてる?」
 奈央子はうなずいた。そんなこと、これ以上はないぐらいとっくにわかっている。にもかかわらず、彼が気遣う意味を取り違えるなんて、本当にどうかしていた。情緒不安定にも程がある。
 自分の情けなさに、ごめんなさいと謝る声がまた震えてくる。目頭がまたもや熱くなったけど、今度はかろうじて涙はこぼさずにいられた。
 「ほんと、情けないよねわたし。バカって言われてもしょうがなかった」
 「あ、いや」と柊が途端にうろたえる。
 「あれは言葉のあやっていうかはずみっつーか——本気じゃないからな」
 「わかってる」
 「それと、情けないなんて思うな。そりゃ奈央子らしくないからびっくりはしたけど、そういう時もあるだろ。特に今の時期は」
 力みのない、それでいて真剣な口調。どうして柊はこんなふうに、大事なことをなんでもないことのようにあっさり言えてしまうのだろう。
 やっぱりわたしは負けっぱなしだ、と奈央子は思った。彼の素直さ、どこまでもまっすぐな心には、きっと一生かなわないだろう。
 今ここにいてくれるのが、柊でよかった——柊を好きでいられてよかったと伝えたいけど、想いで胸がつまって言葉は出てこなかった。
 だから繰り返しうなずきながら、こちらの左手を包んでいる柊の右手にさらに自分の右手を重ね、力いっぱい握りしめた。

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walk along〈5〉

〈5〉 その日、雪を見て

 その日の午後、柊が会社へ戻った時、時計は2時5分前を差していた。今日は外へ出る予定はなかったのだが、11時過ぎに得意先から呼び出されて、急遽出かけたのだ。
 オーダーの内容変更を依頼され、20ヶ所以上にのぼる変更の説明を2時間近く受けたため、空腹も手伝ってへとへとである。納期1ヶ月前に、しかも年末年始を挟むこの時期に変更を受けるなど、面倒なことこの上ない。だが大口の得意先なのでたいていの無理には折れるしかないと、前任者から耳にタコができるほど聞かされている。たとえこれが半月前であろうと、要望の九割以上をかなえなければならない相手なのは承知していた。
 ひょっとしたら年末はギリギリまで出てこなければいけないかもしれない、と考えながら営業のフロアへ戻ると、唯一部屋にいた営業事務の女性が振り向く。同時にこう言った。
 「あ、おかえりなさい。さっき総務の人が探してましたよ」
 「総務? なんで」
 「さあ、私も小林さんから聞いたんで、はっきりわからないんですけど……電話があったみたいで」
 同僚の営業社員の名前を出して彼女は言う。その小林当人の姿がないのは、外回りに出たのだろう。
 「電話って、どこから?」
 「えーっと……あれ、どっか行っちゃったかも……すみません、このへんに書いといたんですけどわかんなくなっちゃいました。とにかく、戻ってきたらすぐ総務に連絡入れるようにって」
 ずいぶん焦ってました、と言う本人は、伝言が不確かであることに対していくらか申し訳なさそうではあるものの、さほど慌てている様子はない。入社2年目の彼女は、不真面目ではないのだが注意力に欠けるところがあり、時折こんなふうに伝言内容を中途半端にしてしまう。本人に悪気が感じられない分、自覚も充分ではなさそうだと思っていた。
 しかしそれについてどうこう言うのは自分の役目ではないし、今回の場合は総務に聞く方が早いはずだから、とりあえずの礼だけを口にして、手近の電話を使わせてもらう。
 内線番号を押し、電話を取った相手に名前を告げると、ひどく慌てた気配が伝わってきた。なぜか、数人のざわめきまで聞こえてくる。いったい何事かと不安を感じ始めた時、気配と同じぐらいに慌てた声で相手、おそらくは総務の女子社員が言った。
 「携帯持ってなかったんですか、何度もかけたのにつながらなくて」
 「え、——あ」
 言われて初めて、携帯の電源を今朝入れたかどうか定かでないことに思い当たった。
 「すみません、ところで、電話があったって」
 「そうなんですよ、昼前に警察から……ついさっきは病院からも連絡が入って」
 続けて教えられた内容に、柊は言葉を失った。

 病院に向かう途中で雪が降り始めたが、もとより柊にはそれを見る余裕も、気づくゆとりもない。タクシーが正面入り口の前に到着するや否や、料金を払う間ももどかしく飛び出し、建物の中へと駆け込む。
 受付で教えられた部屋番号を頼りに病室へと走るが、市内で一番大きいこの病院には知り合いの見舞いで数回しか来たことがなく、しかも学生時代のことだから記憶も曖昧だった。
 そのため、目的の棟によって使うエレベーターが違う構造にも慣れておらず、慌てるあまりに2度もエレベーターを乗り間違えてしまった。やっと正しい行き方を見つけて病室にたどり着いたのは、受付で尋ねてから約30分後のこと。
 「……大丈夫?」
 と、ベッドに上半身を起こした状態で言ったのは奈央子だった。真冬だというのに汗だくで、とんでもなく息を切らしながら戸口に寄りかかっている柊をしばらく見つめた後で。
 こっちの台詞だと言いたかったが、まだ息が整わなくて声が出せない。その時ようやく扉を開け放した状態であることに気づき、中に足を進めつつ、スライド式の扉から手を離す。一拍置いて、ガタン、とすぐ後ろでそこそこ重みのある音がした。
 個室の病室に入るのは初めてだ。思ったよりも狭い気はしたが、ベッド周りにはゆとりがあって、作り付けの戸棚や大部屋よりもサイズの大きい冷蔵庫がある。
 なおも息を切らしつつ窓際に近づき、2つ置かれている丸イスの片方を引き寄せて、柊はベッド脇に座った。
 「…………事故に遭った、って。けど迷って」
 かなり省略した説明だったが、伝わったらしい。ああ、と奈央子はため息のような声で言い、やや恥ずかしそうに笑う。
 「わたしじゃなくて、横断歩道で前を歩いてた人がね。曲がってきた自転車とぶつかりそうになって。なんとかどっちも避けたんだけど、その拍子に歩いてた人が後ろにちょっとよろけて、荷物多かったから、ぶつかった時にわたしが支えきれなくて」
 それで軽く尻もちをついた結果、陣痛が始まってしまったのだという。
 「あ、どっちも怪我はないのよ。ほんとに普通歩いててぶつかるのと同じ程度だったし。なのにわたしがこんなだったから間が悪いことになって、迷惑かけちゃった」
 たいしたことなかったのに、と微笑む奈央子は、表情に疲れた様子は残っているものの、口調も声もしっかりしている。つい数時間前に出産したばかりには、とても見えない。
 「ん、2時間ぐらいで生まれたから。めったにないような安産だって、先生に言われたぐらいだし」
 確かに、世間の基準からすると楽な方だったのかもしれないが、彼女にとってはさぞかし大変な2時間だったに違いない。その時に近くにいなかったどころか知りもしなかったことが、とても申し訳なく思えた。
 「……ごめんな、当日は付き添うって約束してたのに」
 「まあ、予定は年明けだったし、わたしだってそのつもりだったもん。予定通りいかなくたってしょうがないんだから、気にしないでよ」
 「けど、おまえが一人で頑張ってたのかと思うと、やっぱなんか悪くて——次は絶対一緒にいるから」
 勢い込んで口にした言葉に、奈央子は目を見張って、次いで顔を少し赤らめた。
 「……ちょっと、気が早すぎない?」
 と返されてやっと、自分の発言の意味に気づく。途端に照れが心臓のあたりから一気に上ってきて、ごまかすために思わず目をそらし、咳払いを繰り返した。
 奈央子も視線をあらぬ方向へ向けた後、別の話題を探すようにきょろきょろと病室内を見回す。その目が一点に留まった直後、「あ、そうだ」と、若干うわずった声がこちらに飛んできた。
 「ね、おなか空いてない? 冷蔵庫にたぶん、朝買った物が入ってると思うんだけど——おやつに食べようかなーと思って買ったパンとか。わたしは今日は食べられそうにないし」
 そういえば昼飯を食べそこねたままだったっけ、と柊が思い出すのと同時に、腹の虫が控えめながらしっかり鳴いた。奈央子がぷっと吹き出す。別の意味で恥ずかしくなったが、それで雰囲気がほぐれたので、良い方にとらえることにした。
 冷蔵庫の中身、菓子パンや牛乳などで腹の虫をなだめた頃には、外を眺める余裕ができていた。
 この辺りでは珍しいほど大粒の雪が、しんしんと降り積もり、景色の白さをさらに深めていく。同じく外を眺めていた奈央子が、呟くように言った。
 「大変だったけど、いいイブって言えるかな。いちおうホワイトクリスマスだし」
 「え、あ。そっか、今日って24日か」
 「なに、忘れてたの? ……うーん、日にちがわたしと一緒になったのはわかりやすいけど、今月じゃちょっとかわいそうだったかな」
 奈央子の誕生日は来月の24日だ。ちなみに、その2日後が柊の誕生日で、付き合い始めてからこちら、間の日に一緒に祝うことにしている。
 「なんで?」
 「クリスマスとかが誕生日って、あんまりありがたくないって言う人多くない? 高校の友達もそう言ってたし……あ、でも別々に祝ってあげればいいのかな。込みにされるのが嫌なんだったっけ」
 悩み始めた奈央子の姿は、当人がとても真面目なだけに微笑ましく見える。知らず誘われた笑いに、彼女は敏感に気づき、首を傾げた。
 「……なに笑ってんの?」
 「いや、別に」
 と返したものの、表情をあらためる気にはならなかった。そんなことを真剣に悩む、彼女の一生懸命さが可愛くて。……そういえば、恋人としての付き合いを始めたのもクリスマスイブだった。ちょうど6年前の夜。あの時も今日と同じように雪が降っていたっけ、と思い返す。
 懐かしい記憶に笑みを深める自分を見て、奈央子がさらに首をひねりかけたが、ふと何かに気づいたように柊の後ろ、病室の入り口の方へと視線を移す。その動きに従って柊も振り返ると同時に、扉ががらりと開いた。
 扉の向こうにいたのは女性看護師が1人、いや2人で、先に入ってきた方が体温計など器具を乗せたワゴンを押している。そして後ろにいる方は——
 「もうすぐ夕食ですよ、その前にバイタルチェックしておきましょうか。あ、こちらがお父さん?」
 顔を見て言われたにもかかわらず、誰のことかと一瞬思ってしまった。場と状況に気づいてからは急に落ち着かなくなった。緊張と照れと、湧き上がってくる嬉しさで。
 だが表面的には努めて平静を装い、奈央子が体温や血圧のチェックの後、もう一人の看護師が抱えていたものを注意深く受け取るのを見ていた。
 また後で来ますね、とにこにこと笑いながら二人が出ていく。扉が閉まるのを見届けるとすかさず柊は振り返り、身を乗り出した。
 ……初めて見る、今日生まれたばかりの赤ん坊。想像していたよりもずっと小さく、顔も手も赤い。そうつぶやくと「だから赤ちゃんて言うんでしょ」と間髪入れず指摘された。
 どこがどちらに似ているか、なんてことはまだ全然わからない、しわしわの顔。だがこの子供は確かに、自分たち二人の娘なのだ——赤ん坊を見つめる奈央子の優しい笑みと、まだ何一つ知らない子供の無垢な寝顔を見ていたら、胸が熱くなった。
 彼女たちのためならこの先どんなことでもする、そういう決意が自然と全身にみなぎってくる。父親になった実感を、今までで一番強く感じていた。
 「名前、どうしようか」
 奈央子に問いかけられて、はたと我に返る。
 そして、さんざん調べて考えた、いくつかの名前の候補を思い浮かべる。どれも最終的な決め手がなく、ひとつにはまだ絞れていなかったのだが——
 ふと、もう一度窓の方を振り向いた。
 外はもうかなり暗くなってきている。止む気配のない雪のせいもあり、景色はほとんど見えない。窓ガラスの角や縁に積もった雪だけが、室内の照明を反射して光っていた。
 雪が形作る模様は、見ようによっては何かの花のようでもある。そう思っている間にも繰り返し、大粒の雪が窓ガラスに音もなく当たり、結晶の形を散らせていた。その様子もどこか、小さな花がたくさん吹き付け、広がっているふうに見える。
 雪に目を留めたまま、柊は真剣に思い返した。全部の画数がよかったわけではない、けれど総画数はかなりの強運と出ていたはずの、ひとつの名前。
 子供と窓の雪を、交互に2回見て、決心した。
 「あのさ、思ったんだけど、————」
 名前と、それに至った理由を説明すると、奈央子も窓の方を振り向き、しばらく沈黙した。そしてこちらに向き直った時の彼女はまさに、花がこぼれるような笑顔になっていた。
 「それいい。すごく綺麗だし、可愛い」
 「そう思う? 姓名判断、全部が良くはなかった気がするけど」
 「いいじゃない、姓名判断もいろいろあるから絶対に確実な結果なんてないだろうし。そりゃ、いいに越したことはないかもしれないけど、悪くはないんだったら充分だと思う。それに今日にぴったり来るからわかりやすいし。ね? ゆかちゃん」
 と、早くも奈央子は子供に向かって名前を呼びかけている。その響きが、とても優しくて温かかったから、柊の中にほんの少し残っていた迷いも溶けるように消えた。
 娘への、最初の贈り物。それが彼女に幸せをもたらしてくれることを、心から願った。

 ——命名、雪の花と書いて「雪花(ゆか)」。

                             -終-

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