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walk along〈4〉

〈4〉 思いを打ち明ける

 日々は穏やかに過ぎていった。
 8月の末、夏の盛りが過ぎて秋へ傾き始める頃、子供はたぶん女の子だろうという検査結果が出た。それを知らせた時、やはりというか義姉は電話の向こうで「……あ、そうなの。まあ奇跡的に奈央ちゃんに似ることを祈ってるわ」と、非常に複雑そうな声で感想を述べた。
 思わず苦笑いを声に出してしまい、そばにいた柊に「なに? なんつったの姉貴」と聞かれる羽目になった。表現を若干やわらげて伝えたものの、彼が憮然とした面持ちになったのも予想通りだった。
 だが予想外だったこともある。柊の、子供に関する事柄への熱の入れようだ。女の子だとわかった直後からは顕著になって、服やおもちゃその他をやたらと揃えたがり、週に1度は何かしら買ってくる。
 名前も、こちらが言い出す前に考え始めていた。そして毎日のように、買い込んだ姓名判断の本を読みふけったり、思いついたものを占いサイトで調べてみたりしている。その熱心さは正直なところ意外だった。
 単純に、彼が率先して何かしたことが、長い付き合いの中でも数えられるほどにしか覚えがないという背景もあったけれど、それだけではない。
 子供を大切に育てようという柊の意思は、確かに当初から感じていた。でもここまで、有り体に言えば親馬鹿に近い行動をするとは思わなかった。
 今からこうでは、子供が生まれた後はどうなるのやら。良くも悪くもべったりになってしまいそうな気がして、ちょっと不安だった。
 ……そして、同時に感じていたかすかな苛立ち。なぜ苛立つのかわからなくて、けれど、柊が子供のことを口にする回数が増えるごとに感じる頻度も高くなり、そのたび落ち着かないことが続いた。

 その感情が何なのか気づいたのは、10月初めの、朝から少し空気が冷たかった日のこと。
 数日前まではしつこい残暑で日中はまだ暑いほどだったのに、一転して平年以下の気温、最低温度は12月上旬並みだと天気予報で言われていた。
 その日、奈央子は定期検診と休職にともなう手続きのために、一日休みを取っていた。全ての用事を済ませて帰る途中の夕方、雨が降ってきた。
 突然ではあったけど、予報で午後からは雨の可能性があると聞いていたので、傘は持っていた。だから自分自身は困らなかったが、必然的に柊のことを思い出した。朝はよく晴れていたから、大丈夫だろうと楽観的に言って傘を持っていかなかったのだ。
 迎えに行こう、と思ったのは自然ななりゆきだった。こんな時はタクシーは混むかもしれないし、今はなるべく節約するに越したことはない。
 夜は冷えるだろうけど、今はもう安定期だし、冬の装いで暖かくしていけば大丈夫だろう。
 そして、終業時間を見計らって柊に電話した時。
 『もしもし?』
 「あ、わたし。今日何時頃になる?」
 『もうちょっとかかるから、会社出んのは6時半ぐらいかな。なんで?』
 「ううん、別に。お疲れさま」
 迎えに行く、とわざと言わなかったことにも他意はなかった。どんな顔をするかな、といういたずらっぽい楽しみがめずらしく頭に浮かんだだけで。
 6時半に会社を出たなら、自宅の最寄り駅に着くのは7時15分前後だろう。夕食の準備を、あとは焼いたり温めたりする段階まで済ませてから、奈央子は家を出た。
 今の家は、駅から徒歩で10分ほどの2DK。就職後1年ほどして柊が前のアパートから引っ越した部屋で、入籍後に奈央子が、学生時代から住んでいたマンションを引き払い同居した。もっとも、週の半分は通ったり泊まったりしていたから、それ以前から半ば同居の形だったとも言えるのだが。
 駅に着くと、少し前に電車が到着したらしく、改札に通じる階段から人がまとまって降りてくるところに出くわした。その波の後ろの方、人が途切れかけるあたりに柊の姿を見つけ、奈央子は背伸びをした。
 ほどなく柊が顔を振り向けてこちらに気づき、目を見開いた。かなり驚いた表情が狙い通りで嬉しくなって、笑いながら大きく手を振った。
 当然、同じように振り返してくれる、あるいは笑顔を返してくれるものだと考えた。だが柊は表情を変えないまま人波を縫うように走り寄ってきたかと思うと、いきなりこう言った。
 「なにやってんだよ」
 「……え?」
 言われた意味がつかめなくてきょとんとする。その反応が信じられないと言いたげに柊はさらに目を見張り、声高に言いつのった。
 「こんな寒い時に外出てくるなんて、なに考えてんだよ。おまえ自分がどんな体かわかってんのか」
 「……わ、わかってるわよ、だから着込んであったかくしてきたし、今着いたとこだから長い時間待ってたわけじゃ」
 「そういう問題じゃない」
 と、うろたえながらの奈央子の言い訳を柊は切り捨てるようにさえぎる。そしてとどめに「子供に何かあったらどうするんだ、バカ」と付け加えた。
 その瞬間、頭の中が沸騰するような心地がして、顔が熱くなる。気づくと奈央子は、無言できびすを返して駅の外へ走り出ていた。
 柊の呼び止める声は聞こえたが、足を止める気にはなれなかった。彼の声からも、思いきり集めていたに違いない周りの注目からも、今はとにかく遠ざかりたくて。
 傘を差すことに思い及ばず屋根のないところへ出たが、その時もう雨は止んでいた。だが駅前の石畳とコンクリートの道はもちろん濡れていて、だからなおさら走ったら危ないという意識はあるにもかかわらず、それでも足を止められない。
 自分が今抱えている感情が激しすぎて、かつ理解できなくて、立ち止まりたくなかった。止まってしまったら冷静にならざるを得ない——そして、感情に向き合うしかなくなるのが怖い。
 懸命に走ったつもりだったけど、結果的には当然ながら、さほど距離も速度も稼げなかったらしい。駅正面のロータリーからいくらも離れないうちに腕をつかまれ、体ごと振り向かせられる。
 その動作も腕をつかむ手にこもる力も、柊にしては乱暴だった。だがきっとまだ怒っているのだろうと思えば無理からぬことでもある。考えてみれば、彼が声を荒らげてまで怒ったことなんて、子供の頃のケンカを除けば今までなかった。それほどに怒らせてしまった、という思いが気持ちを一気に萎縮させ、顔を上げることができない。
 異常に長く思えた沈黙の後で発せられた声は、しかし予想に反する低いトーンで、穏やかにさえ聞こえた。
 「どうしたんだよ。なんかおかしいぞ、おまえ」
 おかしい、と言われて、反射的に柊を見上げた。その途端、戸惑いの表情がさっきと同じレベルの驚愕に変わる。うろたえた仕草で頬に触れられてようやく、自分が泣いていることに気づいた。
 うそ、とつぶやいた自分の声のひび割れ具合に、慌てて口を押さえる。そうすると乱れた感情が全部目に集まったようになって、さらに涙が出てくる。
 柊が落ち着かない様子でまばたきを早くするのを見るとまたいたたまれなくなって、再び顔をうつむけた。
 ……ああ、ものすごく困っている。当然だ。
 自分でもなぜ泣いているのかわからない——否、薄々わかっているけど直視したくなくて、説明できない。だから何も言えなかった。
 「——とにかく、帰ろう。タクシー使おうな」
 静かな声で柊が言った時にもまだ涙は止められていなくて、そんな自分がふがいなくて、彼の言葉にとっさに反応できなかった。返事もうなずきもしない奈央子に柊は重ねて問うことはせず、こちらの肩に腕を回すことで行動を促した。
 促されるままに歩いてタクシー乗り場にたどり着き、ちょうど客待ちをしていた1台に乗り込む。
 車内でもしばらくは泣いていたし、二人ともほぼ無言だったから、運転手さんはさぞかし困っただろう。そんなふうに思う理性はちゃんとあったのに、泣く理由を説明する踏ん切りはつけられなかった。
 家に帰ってからもそうで、おまけに食事の準備をする気力も出なくて座り込んでしまう始末。めずらしく気を回したらしい柊がお茶を淹れてくれても、まだ何も言えなくて、気持ちだけがどんどん深みにはまっていく。
 何も言われないことがかえって辛かった。さっきのように怒るなり訝しむなりしてくれた方が、まだ気が楽にさえ思える。今の気持ちは自分で説明できない——したくない感情だから。
 ないがしろにされているなんて、思う方がおかしいのだ。柊が子供のことばかり考えて、優先しているから……そんなのは当たり前なのに、そのことに嫉妬するだなんて。
 あまりにも幼稚な感情だから、口に出したくなかった。けれどそれさえも、ただ自尊心のために意地を張っているように思えてならない。結果的にだんまりが続いている今の状態が、本当に情けなくて、ますます自己嫌悪が深まってしまう。
 いっそのこと逃げ出したかった。けれどどこにも逃げる場所はない。今は、ここが家なのだから。
 やっと少しだけ目を上げて、時計を見ると、8時半を過ぎようとしていた。帰ったのが何時か正確にはわからないが、おそらく40分以上経っているはずだ。それだけの時間、何もせずに座ったままでいたことを再認識して、また気分が重くなる。
 お互い、夕食もまだで、明日は仕事なのに。
 時計から視線を動かした途端、柊と目が合った。そして一瞬躊躇したら、そらせなくなった。彼が何とも言いがたい、はっきり言えば感情の読めない目をしていたから。自己嫌悪と気まずさが、一転して大きな不安に変わる。
 それを察したかのように、柊の目が感情を取り戻した。まだ戸惑いを残し、どう対処すべきか悩んでいるらしく見える。お茶の存在を思い出すふりをして奈央子は視線をはずし、湯呑みを手に取った。
 当たり前だがとっくに冷めきっているお茶を。それでも一口含んで飲み込んだ、その時。
 「ごめん」
 はっきりした声で言われたにもかかわらず、しばらくぽかんとしてしまったのは、柊から聞くべき言葉ではなかったからだ。謝るのは、確実にこちらであるはずだから。なぜ、彼から謝られるのか。
 「せっかく迎えに来てくれたのに。礼も言わないで怒鳴ったりして、悪かった」
 ごくあっさりと、当然のように言って、軽く頭を下げさえする。それを見た途端たまらない気持ちになり、思い切り首を横に振った。
 「ちがう、……違う、悪かったのはわたし。わたしが悪いの、わたしが」
 声に出した瞬間からまた感情がたかぶってきて、言葉をうまく文章にできない。少しでも呼吸を整えようと口を手で覆い、繰り返し息を吐き出す。
 「……わたしが気をつけてなかったから。だから、怒られて当たり前なの」
 裏返りそうな声を必死に落ち着かせながらそう言うと、柊はなぜか口元を歪めた。その表情は、戸惑いとはまた別の困惑——純粋に、けれど心から困っているようだった。首の後ろに手をやり、少しだけ目を伏せて口を引き結ぶ。そうしていたのはたぶん10秒かそこらで、再びこちらに視線を向けると同時に、柊は「そうじゃない」と言った。
 「いや、確かに怒ったと言えばそうだけど。でも、奈央子が心配だったから」
 「え」
 「え?」
 「……子供が、じゃなくて?」
 おそるおそる、細い声で尋ねると、柊はますます困った表情になる。どうしてそんなことを聞かれるのかわからないと顔中に書いてある。
 「そりゃ子供だって心配だよ、当たり前だろ。でもさ、今一番大変なのって奈央子じゃないか。おれはただ心配が増えただけだけど、おまえは体の方でも楽じゃない思いして、なのに家のことも仕事も全然手抜きしてなくて。そこまでしてるのに、おれにまで気を遣う必要ないんだよ」
 さっきと同じく、少しのあてつけがましさも含まれない、至極当然といった口調。だがそれだからこそ、反射的に奈央子は言い返した。
 「だって、……あんただって大変じゃない、今年も補充なかったから人数ギリギリなんでしょ。これからお金かかる分、前より残業増やしてるのも知ってるし。なのにわたしが怠けてるわけにいかないし、節約だってするに越したことないし」
 「怠けろなんて言ってないだろ。そうじゃなくて、無理するなってことだよ。おまえ、おれに前に言ったじゃんか、無理しなくていいって」
 はっとする。
 「そりゃ残業は多くなってるけど毎日じゃないし、自分の許容範囲でやってる。それに、休みはちゃんと休んでるだろ?」
 「……うん」
 「だから、奈央子もそうしていいんだって。おまえが弱音吐かないから、ついつい今までと同じにしてたおれも悪いけどさ——つらい時は言ってくれたらいいから。家のことも、まあ、同じようにはできないかもしれないけど、もっと手伝うし」
 言葉の後半はどこか照れくさそうというか、ほんの少しだけたどたどしくなった。柊は、家事能力があるとはお世辞にも言えない方なのだ。料理は包丁の扱いや火加減が危なっかしいし、掃除や洗濯も、時間がかかる上になんとなく不器用さの残る結果になってしまう。
 それでも、同居を始めてからは彼なりに、今までは奈央子任せにしていた家事を引き受けてくれるようになった。洗濯物をたたむとかお風呂掃除とか、不器用でもどうにかなる範囲のことではあるけど、前よりは確実に頑張ってくれている。
 だから、それ以上の手助けは求めていなかった。自分の方が要領がわかっているという思いもあったが、なにより、これまでと同じようにするのを当然だと思っていたから。いろんな動作のたびに不自由は感じても、仕事と家事の両立自体を負担だとは考えなかったのだ。けれど。
 無理するなと言われて初めて、自分がどれだけ気を張っていたのか気づいた。妊娠がわかってからも、よほどつわりが重い時以外は、多少体がつらくても休もうとはしなかった。どうにかできると思ったから、というよりは今思えば、自分の役割をこなさなければいけないと思い詰めていたのかもしれない。自覚のないままに。
 そういうことにはどちらかと言えば無頓着な柊が言うぐらいだから、他の人にはもっと、そんなふうに見えていたのかもしれなかった。たぶん奈央子があまりにも自然にしていた??しようとしていたから、気づいたとしても言いにくかったのだろう。
 涙がこぼれた。けれどすぐに止まったし、さっきとは逆に、感情が落ちつき気がゆるんだからこその涙だ。だがそれをわかるはずもない柊は、控えめながらも三たび、戸惑いを浮かべる。
 また困らせる前にと、今度は自分から釈明した。
 「ごめん、悲しいんじゃないの。ちょっと……自分の方が子供みたいだったなって思って」
 「……? 何の話」
 「わたしね、……たぶん、この子に嫉妬してた。あんたがこの子の話をするたびにもやもやした気分になるのは、親馬鹿ぶりがらしくないからだって最初は思ってた。でもそうじゃなくて」
 ずいぶん大きくなったお腹に手を当て、一度言葉を切り、息を吸い込む。
 「どんな時でもこの子最優先なのが悔しかったの。それが当たり前に決まってるし、わたしだってもちろんそうしてるけど——この子よりも後回しにされてるみたいに感じちゃって、そういう問題じゃないってわかってるのに、それでも悔しくて」
 この期に及んでも、口に出すのはやはり勇気のいることだった。思ったよりは詰まることなく言えたけど、言ってしまうとあらためて恥ずかしくなる。顔を見ながらだとなおさらそう感じたから、言い終えた後はまたうつむいてしまった。今どんな顔をされているのだろうかと思うと、ますます恥ずかしくなって、次の行動のタイミングがつかめない。
 息を大きくつく音が聞こえた時、思い切って顔を上げた。いつの間にか同じように目を伏せていた柊が、同じタイミングでこちらを見るところだった。
 「……意外だな、奈央子がそんなこと思ってたなんて」
 本当に意外そうで、なおかつ、ほんの少しだけ、呆れが混じっているふうに聞こえた。だがこちらに向けている表情は、ひどくやさしい笑み。
 テーブル越しに柊の手が伸びてきて、こちらの手を包み込むように握る。
 「あのさ、誤解すんなよ。子供が大事とか可愛いとか思う理由って人それぞれかもしれないけど、おれの場合は、おまえとの子供だからだぞ。それ、わかってくれてる?」
 奈央子はうなずいた。そんなこと、これ以上はないぐらいとっくにわかっている。にもかかわらず、彼が気遣う意味を取り違えるなんて、本当にどうかしていた。情緒不安定にも程がある。
 自分の情けなさに、ごめんなさいと謝る声がまた震えてくる。目頭がまたもや熱くなったけど、今度はかろうじて涙はこぼさずにいられた。
 「ほんと、情けないよねわたし。バカって言われてもしょうがなかった」
 「あ、いや」と柊が途端にうろたえる。
 「あれは言葉のあやっていうかはずみっつーか——本気じゃないからな」
 「わかってる」
 「それと、情けないなんて思うな。そりゃ奈央子らしくないからびっくりはしたけど、そういう時もあるだろ。特に今の時期は」
 力みのない、それでいて真剣な口調。どうして柊はこんなふうに、大事なことをなんでもないことのようにあっさり言えてしまうのだろう。
 やっぱりわたしは負けっぱなしだ、と奈央子は思った。彼の素直さ、どこまでもまっすぐな心には、きっと一生かなわないだろう。
 今ここにいてくれるのが、柊でよかった——柊を好きでいられてよかったと伝えたいけど、想いで胸がつまって言葉は出てこなかった。
 だから繰り返しうなずきながら、こちらの左手を包んでいる柊の右手にさらに自分の右手を重ね、力いっぱい握りしめた。

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