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walk along〈2〉

〈2〉 一緒に実家へ行く (2)

 「……ね、いつまでもそんな顔してないで。疲れたのはわかるけど、もう終わったんだから」
 ぼそぼそと、辺りをはばかるような小声で奈央子が言う。日曜夜の9時台、電車にはまだそれなりに乗客がいる。だからこその小声だろうし、彼女の言うことも頭ではわかってはいるのだが。
 「悪い、わかってるけど」
 感情制御できない自分がもどかしく、顔を見ずに答えると、細いため息が聞こえた。奈央子も、しょうがないと同意する気持ちはあるから重ねて言ってはこないが、大人げないとも思っているのだろう。自分でも同じように思う。
 だが、そう言い聞かせてもなお、何とも言えない重い気持ちは消せない。理由はほとんど、あの姉のせいである。昔から遠慮も手加減もしてくれたことがなかったが、今日は最大級に辛辣だった。どちらの両親も、予想よりすんなりと状況を受け入れ、祝福してくれただけに、姉の物言いはこたえた。
 ——正確に言えば、公美と奈央子の会話が、である。もっとも、柊が聞いていたのを奈央子は知らないはずだ。
 当然ながら、結婚の報告は両家に小さくない動揺を呼んだ。柊の両親は、奈央子を見て公美以上に呆気に取られ、信じ難いという表情を隠さなかった。特に母親は、電話で言った台詞——『申し訳なくて向こうの親御さんに顔向けできやしない』をさらにパワーアップさせて口にした上、奈央子には『本当にごめんなさいね、うちの馬鹿息子が』と涙ながらに謝り続けて、公美以外の困惑顔を誘った。
 とはいえ、奈央子は昔から母親と姉のお気に入りだし、父親にも異存はなかった。今後どうするか、つまり今週中に入籍して同居を始める報告と、続いての昼食はとりあえず穏やかに運んだ。
 公美が動いたのはその後。食事が片付いたのを見計らい、洗い物とお茶を入れるのを手伝ってほしいと、奈央子をキッチンへ連れていったのである。
 家に入ってからそれまでの間、公美はあまり口を開かなかった。母親の横で『よくこんなのと結婚してくれる気になったわね』程度のことは言っていたが、長年の経験で比較すれば毒は少ない方だった。
 しかし、こと柊に関して毒吐きを遠慮したことがないのも、経験上わかっている。奈央子と二人きりで何を話すつもりなのか、非常に気になった。
 だから、トイレに行くふりをして席を立ち、こっそりとキッチンに近づいて、耳をそばだててみた。
 『……だから、大丈夫ですから』
 『あのね奈央ちゃん、私に対して敬語なんか使わなくていいのよ。で、ほんとにいいの、あんなので』
 『はい。一緒に子供育てようって、すぐ言ってくれましたし』
 『ま、多少は評価してやってもいいけど、そんなのは当たり前よ。一生かけて責任取らせてやらないとね。もしあいつが、奈央ちゃんや子供をちょっとでも粗末にするようなことがあったら、すぐ言って。知り合いで一番優秀な人に弁護頼んで、母子家庭でも困らないだけの慰謝料と養育費をふんだくらせるから』
 『……あの、くーちゃん』
 奈央子が苦りきった声で先を続ける前に、目眩を感じてへたりこみそうになった。足音を立てないようその場を離れ、居間に戻った後も、公美の発言が耳の奥で響いていた。
 今も、思い出すと頭がくらくらしてくる。そのたびに目を閉じて、こめかみを押しながら考える。
 ……なるべく冷静に、かつ客観的に考えるなら、公美があそこまで柊に対してきついのもわからないではない。
 まず、姉が人並み外れて優秀なのはまぎれもない事実である。加えて、傍目からは不必要に見えるほどの努力を重ね、誰もが驚く結果を出し続けてきながら、彼女がそれをおごったりひけらかしたりしたことは、知る限りでは一度もないのだった。
 そして、兄弟に等しい近さで育ってきた幼なじみは、姉ほど極端ではないにせよ、外見も中身も充分に秀でている。その優秀さを鼻にかけず、むしろ、自身には厳しいほどである一面もよく似ている。
 だから公美が、奈央子を妹のように可愛がるのは当たり前で——実の弟が、引き比べるとあまりにも頼りなく見えるだろうこともまた、当然であった。
 「明日仕事だから、今日は帰るけど……ねえ、ほんとに大丈夫?」
 それぞれの実家でもらった土産を置きに、いったん柊のマンションに寄った。もう11時近いから、奈央子が帰ると言うならすぐにも送っていくべきなのだが。
 実家を出て以降ほとんどしゃべっていない上、淹れてもらった茶にも手をつけず、ダイニングの椅子から立ち上がる気力さえ出せずにいる。気遣わしげな奈央子の声は「それとも、今日は泊まっていった方がいい?」と暗に尋ねている。
 今に始まったことではないが、自分がひどく情けなく思えてきた。本来、この状況で気遣うのはこちらの役目であるのに。
 「姉貴が反対すんのも当たり前だよな」
 知らず口に出していた言葉に、奈央子はすぐに反応した。
 「なにそれ、何の……あっ、話聞いてたの?」
 察するのも早かった。もっとも、居間にいる間の公美ははっきり反対を匂わせる発言をしなかったのだから、そう考えるしかないかもしれないが。
 奈央子はこちらを見ながらまばたきを数回して、その後、困ったような笑みを見せた。
 「あのねえ、あれでもくーちゃん、心配してくれてるのよ。わかりにくいとは思うけど」
 公美の毒舌に柊がくぼむたび、昔から奈央子はそんなふうに言う。フォローしてくれているとわかっても、素直に受け入れられたことはなかった。
 なるほど、心配していること自体は確かだろう。だがそれは奈央子を案じてのことであって、自分に対してはむしろ逆というか、「奈央ちゃんを幸せにしなきゃ許さない」的な気合いがあるに違いない。
 ある意味、奈央子の実の父親よりも怖い存在だ。そのせいか奈央子の実家に行った時には、緊張はしていたものの、同時に妙な落ち着きも感じていた。もう何を言われようと動揺しない、というあきらめに似た気分があったからだろう。
 姉が要求するレベルはいつだって平均のはるか上で、容易に手が届くものではない。たとえ柊が限界まで努力しても、ほとんどの場合は認めてくれないだろう。これまでに多少なりとも肯定的な発言をしたのは、大学合格の時と、就職内定の時ぐらいだった。
 もし、普通の順序での結婚報告であったら、姉は自分たちを別れさせるためにあれこれ画策するかもしれない。それぐらい公美は奈央子を可愛がっているし、弟に対する評価は低いのだ。
 「まさか。そんなことしないって」
 ぼそりと口に出した仮定を、奈央子は笑いながらきっぱりと否定する。
 妙に確信に満ちた口調で、なぜそこまで言い切れるのか不思議だった。だからそう尋ねると、
 「だって、そういうことはもうあきらめてるはずだもの。わたしの気持ちはとっくに知ってたし」
 「……え?」
 「昔から言われてたのよ、あんなのよりマシなやつは山ほどいると思うけどって。実際、くーちゃんの知り合いを紹介されかけたこともあったし」
 2回ぐらいかな、と奈央子は苦笑いを浮かべながら打ち明ける。
 「けどそのうち、絶対気持ちが変わりそうにないって思ったのか、『しょうがないわね』ってずいぶん呆れられたけど。でもそれ以上は何も言わないで、見守ってくれてた」
 「……そんなこと、全然」
 知らなかった。今の今まで気づきもしなかった。
 「うん、絶対ばらさないでって頼んでたから。何とかしようかって言われたこともあったけど、それって高2の夏休みだったし」
 だからわたしはもう言わないつもりでいたんだけど、と奈央子は続けた。高校2年の夏というと、里佳に告白されて付き合い始めた頃だ。
 ——その時、もしくはその前でも、もし奈央子に告白されていたらどうしただろうか?
 あの頃の自分が奈央子を幼なじみ以上に認識していなかった、少なくとも想いに気づいていなかったのは確かで……彼女に好きだと言われた場合に向き合うことができたかどうかは、自信が持てない。
 情けない話だが、たぶんそれが事実だ。
 奈央子を頼もしく思ってはいたけれど、あの頃の柊にとってはそれが全てだったから、好きと言われてもきっと、困ることしかできなかった。彼女も察していたから、言う気になれなかったのだろう。
 自分がいかに鈍感であったか、あらためて思い知らされた気分だった。
 同時に湧き上がってきたのは、姉に対する意外の念。時も場所も関係なく、ひたすら容赦なく辛辣な口出しばかりの姉が、この件に関しては沈黙を守ってきたとは——もちろん奈央子に懇願されたからではあるだろうけど、それでも意外だった。
 そして、もっと強い勢いで胸の内を満たしていくのは、奈央子へのさまざまな感情。一番大きいのはやはり、愛おしさと、同じほどの感謝の思い。こんな自分を好きでい続けてくれたこと、結婚にうなずいてくれたことに対しての。
 昔は、奈央子が近くにいるのを当たり前だと——いや、わざわざ考えもしなかったほど、普通のことと感じていた。けれど付き合い始めて以降、ふとした時に、それは決して普通でも当然でもないのだと何度も気づかされた。——今、この瞬間のように。
 いくつもの偶然で出会えて、身近にいられて、そして互いに想い合えるようになった。
 今こうしていられるのは、奇跡的なことなのだ。
 黙り込んで結構時間が経ったらしく、気づくと、奈央子がすぐ横まで来て顔をのぞき込んでいた。
「どうしたの?」と心配そうな表情で問いかけられても、まだ答える言葉が出てこない。代わりに手を伸ばして彼女の頬に触れ、同時に少しだけ顔を近づけた。呼吸が一瞬止まる。
 唇を離した後も、手は頬に添えたままでいた。唐突さに戸惑った様子の、奈央子の目をまっすぐに見る。
 「……あのさ、おれ、頑張るから」
 「え?」
 「おまえにはたぶん勝てないだろうし、姉貴とかには一生認めてもらえないかもしれないけど、でも、努力する。少なくとも絶対、おまえと子供を不幸にはしないから」
 一息に言い切ると、奈央子は何度もまばたきをしてから、目を伏せた。考え込むように間を置く。
 「……うん。ありがとう」
 その声はかすかに震えていた。いろんな思いを、懸命に抑えているかのように。
 「でも、無理しなくていいから。言っとくけどわたしは、柊に勝ってるとか考えたこと、一回もない」
 思いがけない言葉に虚を突かれた瞬間、奈央子ははにかむような笑みとともに顔を上げた。その表情は、彼女を思いがけないほど子供の頃に近づけた。
 「くーちゃんだって、口で言うよりはちゃんと、認めてくれてると思うし。それに……わたしは今でも充分幸せだから」
 最後の部分は耳のすぐ横で、ささやくように聞こえた。抱きついて寄りかかる奈央子の重みを、柊は全身でしっかり受け止めた。

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