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walk along〈1〉

walk along~『ココロの距離』後日談・2

〈1〉 一緒に実家へ行く (1)

 5月中旬の日曜日。
 窓の外はよく晴れているのに対し、すぐ横では空気が凍りついたように固まっていた。沢辺奈央子(さわべなおこ)は隣の座席にいる相手に向かって、何度目かの台詞を口にする。
 「ねえ、すごく顔ひきつってるの、わかってる?」
 「わかってる」
 と柊(しゅう)は答えたが、表情が緩む気配はなく、声も固い。もっと肩の力抜いて、と奈央子は言いかけたがやめた。今朝早くから何度も同じやり取りをしてきて、効果は一度もなかったからだ。
 もっとも、柊の異常な緊張もしかたのないことではある。こうやって電車に揺られて実家に向かっているのは、結婚の挨拶に行くためなのだから。
 しかも、奈央子の妊娠報告というおまけ付きで。

 それがわかったのはほんの数日前。しばらく前から兆候はあったものの、なかなか病院に行く勇気が出なかった。確定すれば結婚が現実味を帯びてくる——そのことが正直、怖かったから。
 もちろん、いずれは結婚するつもりでいた。だが具体的に考えたり話し合ったりしたことは、これまでに一度もなかったのだ。
 幼なじみから恋人の関係になって、5年半近く。
 良く言えば落ち着いた、はっきり言ってしまえばぬるま湯の状態に慣れきっていたから、先へ進むことに対して必要以上に躊躇していた。そこに妊娠した事実、ひいては子供を産んで育てる将来への不安が加わり、怖くなってしまったのである。
 だが結果的にその事実が、一歩踏み出すきっかけにもなったのだ。何もなければ、まだ当分は今の状態が続いていただろう。その方が気楽だから。
 お互いがそう思っていたことも奈央子はわかっていた。だから、子供ができたと打ち明けてすぐに柊が、結婚しようと言った時は驚いた。あまりに悩まないふうだったので「ほんとにいいの?」と聞き返してしまったほどだ。
 けれど、内心はすごく嬉しかった。驚きの後ろに隠れていたその気持ちが、柊の言葉を聞くうちに、じわじわと全身に広がっていった。子供を一緒に育てていこう、と迷わずに言ってくれたことが本当に嬉しくて、涙が出た。
 柊とならきっと大丈夫。そう思えた時、将来への恐怖心が溶けていくのがわかった。完全に消えたわけではないがずいぶん少なくなったのは確かで、妊娠の可能性に気づいてから初めて安心できた。
 この先の道が怖くても不安でも、自分は一人じゃない。一緒に歩いてくれる人がいる。それがどれだけ心強いことか、初めて実感したのだった。

 事情が事情だけに、なるべく早く、実家に挨拶に行かなくてはならない。結婚を決めた日の話し合いで、その点はお互い意見の一致するところだった。
 そして、最初に悩んだ点が「両親にどんなふうに伝えるか」であったことも。
 「だって、付き合ってる人がいるとは話してるけど……あんたが相手だってことは言えてないもの」
 「——だよな、おれも」
 なにぶん生まれた時から——正確には二人が生まれる前から、両親はご近所で顔見知りの間柄。さらに、母親同士は出産日が近かった縁で、昔はしょっちゅう子供連れで家を行き来していた。今も、何やかやと世話を焼き合う仲は続いているらしい。
 お互い、相手の親はもう一組の両親と言っていい存在である。それだけ近しいと、なんというか……今さらこういうことになりましたと報告するのは、何か非常にばつが悪いというか、気恥ずかしい思いが強い。要するに、すごく言いづらいのだった。
 「子供ができたからすぐ結婚するってだけでもインパクト強いのに、そこまで言えないよな、やっぱ」
 「そうよね……うーん」
 しばらくはそんなふうに、二人して首をひねり合っていた。しかしいつまでもそうしているわけにはいかない。
 とりあえず結婚と妊娠の2点は伝えようと決め、まずは奈央子が実家に電話をする。正確には母親の携帯に。時刻は9時近く、普段なら夕食が終わっている頃合いだ。
 呼び出し音が3回目に入った直後、つながった。
 「もしもし、お母さん?」
 『あら奈央子、久しぶりね。元気にしてる?』
 「うん、元気。あのね、急なんだけど……今度の日曜ってお父さん休み?」
 『え、そうね、今は何も聞いてないから休みのはずだけど。どうしたの急に』
 「じゃあ、家にいてくれるように言っといてもらえる? 実はね——」
 結婚を決めたことと、急な話になった理由を、正直に奈央子は打ち明ける。短い沈黙があった。
 「……それでね、入籍する前に挨拶はちゃんとしたいって——彼が言うから、なるべく早く連れてい」
 『わかった』
 奈央子が最後まで言う前に、きっぱりした声が割り込んだ。先ほどまで『えっ』と驚いたきり黙っていた母親は、早くもほぼ、いつもの調子を取り戻している。
 『ちゃんとお父さんには伝えておくから。何時頃に来る?』
 「えっと……昼前、11時ぐらいで大丈夫かな」
 柊と目くばせをしながら時間を相談し、
 『じゃあ、気をつけていらっしゃい。あ、奈央子。おめでとう』
 通話を終える直前にさりげなく、けれど思いは強く感じられる声で、そう言われた。ありがとう、と返して切った後も、しばらく電話を見つめていた。
 「おばさん、なんだって?」
 「……ん、ちょっとびっくりしてたけど、日曜のことはちゃんと伝えてくれるって。それと」
 そこで奈央子は言葉を切る。声が震えかかっているのに気づいたからだ。何度かまばたきをしてから顔を上げ、
 「おめでとう、だって」
 微笑みながら言ったつもりだったが、半分しか成功しなかった。目を見張った柊の表情を見るまでもなく、涙があふれてしまったことには気づいた。
 「そっか。……泣くなよ、もう」
 ほっとしながらも、ほんの少し困った口調。
 ごめん、と言いながら目の縁と頬を拭う。確かに今日は泣いてばかりだ。けれど、嬉しくて泣くのだから、少しぐらいは大目に見てほしい。
 そう言うと、柊は「そうだな」と笑ってくれた。その笑みにつられて、奈央子の顔も自然とほころんでくる。無邪気に笑ってばかりもいられないとは思うが、今はやはり嬉しかった。
 ひとしきり微笑み合ってから、柊が言った。
 「けど相変わらず、おばさんて大物だよな」
 「そう?」
 と返したが、実は奈央子も同感だった。一人娘の結婚と妊娠の同時報告に「ちょっとびっくり」程度で対応できる母親は、そんなに多くはないだろう。
 「ん、おまえとよく似てる」
 「それって誉めてんの、からかってんの」
 「誉めてるに決まってるだろ?」
 言いながら柊は、奈央子の鼻を軽くつまむ。
 不意打ちから慌てて逃れると、柊の笑みがますます深くなった。こちらを見る目は、すごく優しい。
 つきあい始めてから、柊は時々そんな目をするようになった。そうやって見つめられるといつも、勝手に頬が熱くなってくる。今もそうだ。
 照れくささも相まって、奈央子はしばし視線を落とす。そして照れをごまかすために、わざと上から目線の調子で言ってやった。
 「そんなことより、次はあんたの番でしょ」
 「……はい」
 途端に柊は、しかられた子供のごとくしゅんとする。この表情は昔から全然変わらない——情けないなあと思いながらも励ましてあげたくなってしまう顔。だから次の言葉はおのずから、いたわるような口調になった。
 「ほら、頑張って」
 「——ん」
 携帯を手に、柊は一度深呼吸をする。自宅の番号を押す指を、奈央子は祈るような思いで見守った。

 そして今日、つまり約束の日曜に至る。
 電車を乗り継いで2時間ほどの、高校を卒業するまで住んでいた町に帰ってくるのは、今年の正月以来のことだ。
 二人とも、大学時代から年末年始とお盆の帰省は欠かしていなかったが、一緒に帰るのは初めてである。仕事や私用の都合があったし、それ以前に、日を合わせるのは意図的に避けていた。同じ日に帰っている時でも偶然を装い、わざわざ約束して会うことはしなかった。
 理由は身内に対してと同じで、つまり、地元ではなるべく、付き合っていることを広めたくなかったからである。知られて困るというよりは、やはり、なんだか恥ずかしいのだ。
 しかしこの期に及んでそうも言っていられない。誰に見つかっても潔く対応するつもりで、そろって町の最寄り駅に降り立った……のだったが。
 「誰にも会わなかったね、ここまで」
 あと1つ角を曲がるだけの場所まで来たところで奈央子は言った。徒歩15分の道のりの間、知っている顔には全く出くわさなかった。中学まで一緒だった友人や顔見知りが、まだ何人か住んでいるはずなのだが。
 対する柊の返答は「ん」という一声のみで、顔を振り向けもせず、どんどん足を進めていく。その横顔は、電車に乗っていた時よりもさらにひきつっているように見えた。奈央子はスーツの腕を引く。
 「ね、もうちょっと気持ち楽にできない? 自分の実家に行くのにそれじゃ」
 わたしの家に行く時どうするの、と言いかけたがやめた。その時にはもう柊の実家、羽村(はむら)家の前だったからだ。
 ……3日前に電話した際、応対した母親に柊は、何やら相当耳に痛いことを言われたらしい。よくは聞こえなかったし柊も教えてくれなかったのだが、今と同じ程度の固い、そして青白い顔をしていた。
 ちなみに、当初は奈央子の実家を先に訪ねる予定だったが(礼儀上それが当然だろう、という柊の意見もあって)、母親の介護ヘルパーの仕事が急遽、午前中だけ入ってしまった。そのため、昼と夕方に分けていた予定を入れ替えてもらったのである。
 静止したままの柊を何度も促して、ようやくインターホンのボタンを押させた。音が聞こえてしばし後、玄関のドアが開く。現れた姿に奈央子は少なからず驚き、柊は「げっ」と声に出して言った。
 「……なんでいるんだよ、姉貴」
 柊の3歳上の姉、公美(くみ)に会うのは久しぶりだ。
 現役で有名国立大に入学、在学中に司法試験に合格した、掛け値なしの才女。加えて、素顔でもメイクしているように見えるほど、はっきりとした目鼻立ち。さらにモデル並みの長身とくれば、目立つために生まれてきたとしか思えないような人である。
 今は、数年前に仲間と立ち上げた法律事務所で、弁護士業に忙殺していると聞く。年末年始でさえろくに休みを取らず、めったに帰省していないという彼女が今日、来ているとは思わなかった。
 子供の頃から実の妹みたいに可愛がってくれた人だから、奈央子にとっては苦手な相手ではない。だが、柊が渋い表情を隠せない気持ちもわかる。
 柊の成績はいちおう中の上レベルだったし、見た目も——この点は多少ひいき目が入っていないとは言えないが——平均よりは良いから、決して公美が言うところの「不出来な弟」ではないと思う。
 けれど彼女みたいな人にそう言われ続けたら、それが正しいのだと思い込んでも無理はないだろう。柊がいまひとつ自分に自信を持てないふうなのは、いまだにそのことがトラウマになっているせいかもしれない。
 そんな弟の反応を楽しんでいるかのように、公美はにやりと笑う。そんな表情さえも華やかに、魅力的に見えてしまう人なのだ。
 「ご挨拶ね。不肖の弟が『出来ちゃった結婚』するとか聞いて、帰ってこないわけないでしょ。あんたに引っかかった気の毒な子をなぐさめてあげなきゃ……あれ、奈央ちゃん?」
 ずけずけと言いかけてから公美は、柊の横にいる奈央子に気づいて目を丸くした。
 「くーちゃん、いえ公美さん、お久しぶりです」
 あらたまった口調で、姿勢を正し会釈する奈央子を、公美はまじまじと見つめてきた。さすがに驚いたらしい。
 無言で視線を、奈央子と柊の間で2度ほど往復させてから、やっと合点がいったように「ああ」と声を出さずにつぶやき、微笑んだ。
 「そういうことね。ふうーん。そうなの」
 さらに笑みを深くし、思わせぶりに言う公美は、さっきまでの調子をすでに取り戻している。
 「ま、とりあえず入んなさいよ。母さーん、柊がお嫁さん連れてきたわよ」
 お嫁さんと言われて、にわかに緊張が増す。直後に右手が強い力で握られる。もちろん柊の手だ。
 見上げると、握りながらも正面を向いたままでいる柊の顔、固い表情は変わりないものの、前を強く見据えた目が見えた。
 わたしよりもずっと緊張している——けれど、逃げずに一緒にいようとしてくれている。
 そう思ったら、自分の緊張は半分以上忘れてしまえた。微かに震えてさえいる手を、奈央子は同じだけ強く握り返した。

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