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2011年5月15日 - 2011年5月21日

walk along〈1〉

walk along~『ココロの距離』後日談・2

〈1〉 一緒に実家へ行く (1)

 5月中旬の日曜日。
 窓の外はよく晴れているのに対し、すぐ横では空気が凍りついたように固まっていた。沢辺奈央子(さわべなおこ)は隣の座席にいる相手に向かって、何度目かの台詞を口にする。
 「ねえ、すごく顔ひきつってるの、わかってる?」
 「わかってる」
 と柊(しゅう)は答えたが、表情が緩む気配はなく、声も固い。もっと肩の力抜いて、と奈央子は言いかけたがやめた。今朝早くから何度も同じやり取りをしてきて、効果は一度もなかったからだ。
 もっとも、柊の異常な緊張もしかたのないことではある。こうやって電車に揺られて実家に向かっているのは、結婚の挨拶に行くためなのだから。
 しかも、奈央子の妊娠報告というおまけ付きで。

 それがわかったのはほんの数日前。しばらく前から兆候はあったものの、なかなか病院に行く勇気が出なかった。確定すれば結婚が現実味を帯びてくる——そのことが正直、怖かったから。
 もちろん、いずれは結婚するつもりでいた。だが具体的に考えたり話し合ったりしたことは、これまでに一度もなかったのだ。
 幼なじみから恋人の関係になって、5年半近く。
 良く言えば落ち着いた、はっきり言ってしまえばぬるま湯の状態に慣れきっていたから、先へ進むことに対して必要以上に躊躇していた。そこに妊娠した事実、ひいては子供を産んで育てる将来への不安が加わり、怖くなってしまったのである。
 だが結果的にその事実が、一歩踏み出すきっかけにもなったのだ。何もなければ、まだ当分は今の状態が続いていただろう。その方が気楽だから。
 お互いがそう思っていたことも奈央子はわかっていた。だから、子供ができたと打ち明けてすぐに柊が、結婚しようと言った時は驚いた。あまりに悩まないふうだったので「ほんとにいいの?」と聞き返してしまったほどだ。
 けれど、内心はすごく嬉しかった。驚きの後ろに隠れていたその気持ちが、柊の言葉を聞くうちに、じわじわと全身に広がっていった。子供を一緒に育てていこう、と迷わずに言ってくれたことが本当に嬉しくて、涙が出た。
 柊とならきっと大丈夫。そう思えた時、将来への恐怖心が溶けていくのがわかった。完全に消えたわけではないがずいぶん少なくなったのは確かで、妊娠の可能性に気づいてから初めて安心できた。
 この先の道が怖くても不安でも、自分は一人じゃない。一緒に歩いてくれる人がいる。それがどれだけ心強いことか、初めて実感したのだった。

 事情が事情だけに、なるべく早く、実家に挨拶に行かなくてはならない。結婚を決めた日の話し合いで、その点はお互い意見の一致するところだった。
 そして、最初に悩んだ点が「両親にどんなふうに伝えるか」であったことも。
 「だって、付き合ってる人がいるとは話してるけど……あんたが相手だってことは言えてないもの」
 「——だよな、おれも」
 なにぶん生まれた時から——正確には二人が生まれる前から、両親はご近所で顔見知りの間柄。さらに、母親同士は出産日が近かった縁で、昔はしょっちゅう子供連れで家を行き来していた。今も、何やかやと世話を焼き合う仲は続いているらしい。
 お互い、相手の親はもう一組の両親と言っていい存在である。それだけ近しいと、なんというか……今さらこういうことになりましたと報告するのは、何か非常にばつが悪いというか、気恥ずかしい思いが強い。要するに、すごく言いづらいのだった。
 「子供ができたからすぐ結婚するってだけでもインパクト強いのに、そこまで言えないよな、やっぱ」
 「そうよね……うーん」
 しばらくはそんなふうに、二人して首をひねり合っていた。しかしいつまでもそうしているわけにはいかない。
 とりあえず結婚と妊娠の2点は伝えようと決め、まずは奈央子が実家に電話をする。正確には母親の携帯に。時刻は9時近く、普段なら夕食が終わっている頃合いだ。
 呼び出し音が3回目に入った直後、つながった。
 「もしもし、お母さん?」
 『あら奈央子、久しぶりね。元気にしてる?』
 「うん、元気。あのね、急なんだけど……今度の日曜ってお父さん休み?」
 『え、そうね、今は何も聞いてないから休みのはずだけど。どうしたの急に』
 「じゃあ、家にいてくれるように言っといてもらえる? 実はね——」
 結婚を決めたことと、急な話になった理由を、正直に奈央子は打ち明ける。短い沈黙があった。
 「……それでね、入籍する前に挨拶はちゃんとしたいって——彼が言うから、なるべく早く連れてい」
 『わかった』
 奈央子が最後まで言う前に、きっぱりした声が割り込んだ。先ほどまで『えっ』と驚いたきり黙っていた母親は、早くもほぼ、いつもの調子を取り戻している。
 『ちゃんとお父さんには伝えておくから。何時頃に来る?』
 「えっと……昼前、11時ぐらいで大丈夫かな」
 柊と目くばせをしながら時間を相談し、
 『じゃあ、気をつけていらっしゃい。あ、奈央子。おめでとう』
 通話を終える直前にさりげなく、けれど思いは強く感じられる声で、そう言われた。ありがとう、と返して切った後も、しばらく電話を見つめていた。
 「おばさん、なんだって?」
 「……ん、ちょっとびっくりしてたけど、日曜のことはちゃんと伝えてくれるって。それと」
 そこで奈央子は言葉を切る。声が震えかかっているのに気づいたからだ。何度かまばたきをしてから顔を上げ、
 「おめでとう、だって」
 微笑みながら言ったつもりだったが、半分しか成功しなかった。目を見張った柊の表情を見るまでもなく、涙があふれてしまったことには気づいた。
 「そっか。……泣くなよ、もう」
 ほっとしながらも、ほんの少し困った口調。
 ごめん、と言いながら目の縁と頬を拭う。確かに今日は泣いてばかりだ。けれど、嬉しくて泣くのだから、少しぐらいは大目に見てほしい。
 そう言うと、柊は「そうだな」と笑ってくれた。その笑みにつられて、奈央子の顔も自然とほころんでくる。無邪気に笑ってばかりもいられないとは思うが、今はやはり嬉しかった。
 ひとしきり微笑み合ってから、柊が言った。
 「けど相変わらず、おばさんて大物だよな」
 「そう?」
 と返したが、実は奈央子も同感だった。一人娘の結婚と妊娠の同時報告に「ちょっとびっくり」程度で対応できる母親は、そんなに多くはないだろう。
 「ん、おまえとよく似てる」
 「それって誉めてんの、からかってんの」
 「誉めてるに決まってるだろ?」
 言いながら柊は、奈央子の鼻を軽くつまむ。
 不意打ちから慌てて逃れると、柊の笑みがますます深くなった。こちらを見る目は、すごく優しい。
 つきあい始めてから、柊は時々そんな目をするようになった。そうやって見つめられるといつも、勝手に頬が熱くなってくる。今もそうだ。
 照れくささも相まって、奈央子はしばし視線を落とす。そして照れをごまかすために、わざと上から目線の調子で言ってやった。
 「そんなことより、次はあんたの番でしょ」
 「……はい」
 途端に柊は、しかられた子供のごとくしゅんとする。この表情は昔から全然変わらない——情けないなあと思いながらも励ましてあげたくなってしまう顔。だから次の言葉はおのずから、いたわるような口調になった。
 「ほら、頑張って」
 「——ん」
 携帯を手に、柊は一度深呼吸をする。自宅の番号を押す指を、奈央子は祈るような思いで見守った。

 そして今日、つまり約束の日曜に至る。
 電車を乗り継いで2時間ほどの、高校を卒業するまで住んでいた町に帰ってくるのは、今年の正月以来のことだ。
 二人とも、大学時代から年末年始とお盆の帰省は欠かしていなかったが、一緒に帰るのは初めてである。仕事や私用の都合があったし、それ以前に、日を合わせるのは意図的に避けていた。同じ日に帰っている時でも偶然を装い、わざわざ約束して会うことはしなかった。
 理由は身内に対してと同じで、つまり、地元ではなるべく、付き合っていることを広めたくなかったからである。知られて困るというよりは、やはり、なんだか恥ずかしいのだ。
 しかしこの期に及んでそうも言っていられない。誰に見つかっても潔く対応するつもりで、そろって町の最寄り駅に降り立った……のだったが。
 「誰にも会わなかったね、ここまで」
 あと1つ角を曲がるだけの場所まで来たところで奈央子は言った。徒歩15分の道のりの間、知っている顔には全く出くわさなかった。中学まで一緒だった友人や顔見知りが、まだ何人か住んでいるはずなのだが。
 対する柊の返答は「ん」という一声のみで、顔を振り向けもせず、どんどん足を進めていく。その横顔は、電車に乗っていた時よりもさらにひきつっているように見えた。奈央子はスーツの腕を引く。
 「ね、もうちょっと気持ち楽にできない? 自分の実家に行くのにそれじゃ」
 わたしの家に行く時どうするの、と言いかけたがやめた。その時にはもう柊の実家、羽村(はむら)家の前だったからだ。
 ……3日前に電話した際、応対した母親に柊は、何やら相当耳に痛いことを言われたらしい。よくは聞こえなかったし柊も教えてくれなかったのだが、今と同じ程度の固い、そして青白い顔をしていた。
 ちなみに、当初は奈央子の実家を先に訪ねる予定だったが(礼儀上それが当然だろう、という柊の意見もあって)、母親の介護ヘルパーの仕事が急遽、午前中だけ入ってしまった。そのため、昼と夕方に分けていた予定を入れ替えてもらったのである。
 静止したままの柊を何度も促して、ようやくインターホンのボタンを押させた。音が聞こえてしばし後、玄関のドアが開く。現れた姿に奈央子は少なからず驚き、柊は「げっ」と声に出して言った。
 「……なんでいるんだよ、姉貴」
 柊の3歳上の姉、公美(くみ)に会うのは久しぶりだ。
 現役で有名国立大に入学、在学中に司法試験に合格した、掛け値なしの才女。加えて、素顔でもメイクしているように見えるほど、はっきりとした目鼻立ち。さらにモデル並みの長身とくれば、目立つために生まれてきたとしか思えないような人である。
 今は、数年前に仲間と立ち上げた法律事務所で、弁護士業に忙殺していると聞く。年末年始でさえろくに休みを取らず、めったに帰省していないという彼女が今日、来ているとは思わなかった。
 子供の頃から実の妹みたいに可愛がってくれた人だから、奈央子にとっては苦手な相手ではない。だが、柊が渋い表情を隠せない気持ちもわかる。
 柊の成績はいちおう中の上レベルだったし、見た目も——この点は多少ひいき目が入っていないとは言えないが——平均よりは良いから、決して公美が言うところの「不出来な弟」ではないと思う。
 けれど彼女みたいな人にそう言われ続けたら、それが正しいのだと思い込んでも無理はないだろう。柊がいまひとつ自分に自信を持てないふうなのは、いまだにそのことがトラウマになっているせいかもしれない。
 そんな弟の反応を楽しんでいるかのように、公美はにやりと笑う。そんな表情さえも華やかに、魅力的に見えてしまう人なのだ。
 「ご挨拶ね。不肖の弟が『出来ちゃった結婚』するとか聞いて、帰ってこないわけないでしょ。あんたに引っかかった気の毒な子をなぐさめてあげなきゃ……あれ、奈央ちゃん?」
 ずけずけと言いかけてから公美は、柊の横にいる奈央子に気づいて目を丸くした。
 「くーちゃん、いえ公美さん、お久しぶりです」
 あらたまった口調で、姿勢を正し会釈する奈央子を、公美はまじまじと見つめてきた。さすがに驚いたらしい。
 無言で視線を、奈央子と柊の間で2度ほど往復させてから、やっと合点がいったように「ああ」と声を出さずにつぶやき、微笑んだ。
 「そういうことね。ふうーん。そうなの」
 さらに笑みを深くし、思わせぶりに言う公美は、さっきまでの調子をすでに取り戻している。
 「ま、とりあえず入んなさいよ。母さーん、柊がお嫁さん連れてきたわよ」
 お嫁さんと言われて、にわかに緊張が増す。直後に右手が強い力で握られる。もちろん柊の手だ。
 見上げると、握りながらも正面を向いたままでいる柊の顔、固い表情は変わりないものの、前を強く見据えた目が見えた。
 わたしよりもずっと緊張している——けれど、逃げずに一緒にいようとしてくれている。
 そう思ったら、自分の緊張は半分以上忘れてしまえた。微かに震えてさえいる手を、奈央子は同じだけ強く握り返した。

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walk along〈2〉

〈2〉 一緒に実家へ行く (2)

 「……ね、いつまでもそんな顔してないで。疲れたのはわかるけど、もう終わったんだから」
 ぼそぼそと、辺りをはばかるような小声で奈央子が言う。日曜夜の9時台、電車にはまだそれなりに乗客がいる。だからこその小声だろうし、彼女の言うことも頭ではわかってはいるのだが。
 「悪い、わかってるけど」
 感情制御できない自分がもどかしく、顔を見ずに答えると、細いため息が聞こえた。奈央子も、しょうがないと同意する気持ちはあるから重ねて言ってはこないが、大人げないとも思っているのだろう。自分でも同じように思う。
 だが、そう言い聞かせてもなお、何とも言えない重い気持ちは消せない。理由はほとんど、あの姉のせいである。昔から遠慮も手加減もしてくれたことがなかったが、今日は最大級に辛辣だった。どちらの両親も、予想よりすんなりと状況を受け入れ、祝福してくれただけに、姉の物言いはこたえた。
 ——正確に言えば、公美と奈央子の会話が、である。もっとも、柊が聞いていたのを奈央子は知らないはずだ。
 当然ながら、結婚の報告は両家に小さくない動揺を呼んだ。柊の両親は、奈央子を見て公美以上に呆気に取られ、信じ難いという表情を隠さなかった。特に母親は、電話で言った台詞——『申し訳なくて向こうの親御さんに顔向けできやしない』をさらにパワーアップさせて口にした上、奈央子には『本当にごめんなさいね、うちの馬鹿息子が』と涙ながらに謝り続けて、公美以外の困惑顔を誘った。
 とはいえ、奈央子は昔から母親と姉のお気に入りだし、父親にも異存はなかった。今後どうするか、つまり今週中に入籍して同居を始める報告と、続いての昼食はとりあえず穏やかに運んだ。
 公美が動いたのはその後。食事が片付いたのを見計らい、洗い物とお茶を入れるのを手伝ってほしいと、奈央子をキッチンへ連れていったのである。
 家に入ってからそれまでの間、公美はあまり口を開かなかった。母親の横で『よくこんなのと結婚してくれる気になったわね』程度のことは言っていたが、長年の経験で比較すれば毒は少ない方だった。
 しかし、こと柊に関して毒吐きを遠慮したことがないのも、経験上わかっている。奈央子と二人きりで何を話すつもりなのか、非常に気になった。
 だから、トイレに行くふりをして席を立ち、こっそりとキッチンに近づいて、耳をそばだててみた。
 『……だから、大丈夫ですから』
 『あのね奈央ちゃん、私に対して敬語なんか使わなくていいのよ。で、ほんとにいいの、あんなので』
 『はい。一緒に子供育てようって、すぐ言ってくれましたし』
 『ま、多少は評価してやってもいいけど、そんなのは当たり前よ。一生かけて責任取らせてやらないとね。もしあいつが、奈央ちゃんや子供をちょっとでも粗末にするようなことがあったら、すぐ言って。知り合いで一番優秀な人に弁護頼んで、母子家庭でも困らないだけの慰謝料と養育費をふんだくらせるから』
 『……あの、くーちゃん』
 奈央子が苦りきった声で先を続ける前に、目眩を感じてへたりこみそうになった。足音を立てないようその場を離れ、居間に戻った後も、公美の発言が耳の奥で響いていた。
 今も、思い出すと頭がくらくらしてくる。そのたびに目を閉じて、こめかみを押しながら考える。
 ……なるべく冷静に、かつ客観的に考えるなら、公美があそこまで柊に対してきついのもわからないではない。
 まず、姉が人並み外れて優秀なのはまぎれもない事実である。加えて、傍目からは不必要に見えるほどの努力を重ね、誰もが驚く結果を出し続けてきながら、彼女がそれをおごったりひけらかしたりしたことは、知る限りでは一度もないのだった。
 そして、兄弟に等しい近さで育ってきた幼なじみは、姉ほど極端ではないにせよ、外見も中身も充分に秀でている。その優秀さを鼻にかけず、むしろ、自身には厳しいほどである一面もよく似ている。
 だから公美が、奈央子を妹のように可愛がるのは当たり前で——実の弟が、引き比べるとあまりにも頼りなく見えるだろうこともまた、当然であった。
 「明日仕事だから、今日は帰るけど……ねえ、ほんとに大丈夫?」
 それぞれの実家でもらった土産を置きに、いったん柊のマンションに寄った。もう11時近いから、奈央子が帰ると言うならすぐにも送っていくべきなのだが。
 実家を出て以降ほとんどしゃべっていない上、淹れてもらった茶にも手をつけず、ダイニングの椅子から立ち上がる気力さえ出せずにいる。気遣わしげな奈央子の声は「それとも、今日は泊まっていった方がいい?」と暗に尋ねている。
 今に始まったことではないが、自分がひどく情けなく思えてきた。本来、この状況で気遣うのはこちらの役目であるのに。
 「姉貴が反対すんのも当たり前だよな」
 知らず口に出していた言葉に、奈央子はすぐに反応した。
 「なにそれ、何の……あっ、話聞いてたの?」
 察するのも早かった。もっとも、居間にいる間の公美ははっきり反対を匂わせる発言をしなかったのだから、そう考えるしかないかもしれないが。
 奈央子はこちらを見ながらまばたきを数回して、その後、困ったような笑みを見せた。
 「あのねえ、あれでもくーちゃん、心配してくれてるのよ。わかりにくいとは思うけど」
 公美の毒舌に柊がくぼむたび、昔から奈央子はそんなふうに言う。フォローしてくれているとわかっても、素直に受け入れられたことはなかった。
 なるほど、心配していること自体は確かだろう。だがそれは奈央子を案じてのことであって、自分に対してはむしろ逆というか、「奈央ちゃんを幸せにしなきゃ許さない」的な気合いがあるに違いない。
 ある意味、奈央子の実の父親よりも怖い存在だ。そのせいか奈央子の実家に行った時には、緊張はしていたものの、同時に妙な落ち着きも感じていた。もう何を言われようと動揺しない、というあきらめに似た気分があったからだろう。
 姉が要求するレベルはいつだって平均のはるか上で、容易に手が届くものではない。たとえ柊が限界まで努力しても、ほとんどの場合は認めてくれないだろう。これまでに多少なりとも肯定的な発言をしたのは、大学合格の時と、就職内定の時ぐらいだった。
 もし、普通の順序での結婚報告であったら、姉は自分たちを別れさせるためにあれこれ画策するかもしれない。それぐらい公美は奈央子を可愛がっているし、弟に対する評価は低いのだ。
 「まさか。そんなことしないって」
 ぼそりと口に出した仮定を、奈央子は笑いながらきっぱりと否定する。
 妙に確信に満ちた口調で、なぜそこまで言い切れるのか不思議だった。だからそう尋ねると、
 「だって、そういうことはもうあきらめてるはずだもの。わたしの気持ちはとっくに知ってたし」
 「……え?」
 「昔から言われてたのよ、あんなのよりマシなやつは山ほどいると思うけどって。実際、くーちゃんの知り合いを紹介されかけたこともあったし」
 2回ぐらいかな、と奈央子は苦笑いを浮かべながら打ち明ける。
 「けどそのうち、絶対気持ちが変わりそうにないって思ったのか、『しょうがないわね』ってずいぶん呆れられたけど。でもそれ以上は何も言わないで、見守ってくれてた」
 「……そんなこと、全然」
 知らなかった。今の今まで気づきもしなかった。
 「うん、絶対ばらさないでって頼んでたから。何とかしようかって言われたこともあったけど、それって高2の夏休みだったし」
 だからわたしはもう言わないつもりでいたんだけど、と奈央子は続けた。高校2年の夏というと、里佳に告白されて付き合い始めた頃だ。
 ——その時、もしくはその前でも、もし奈央子に告白されていたらどうしただろうか?
 あの頃の自分が奈央子を幼なじみ以上に認識していなかった、少なくとも想いに気づいていなかったのは確かで……彼女に好きだと言われた場合に向き合うことができたかどうかは、自信が持てない。
 情けない話だが、たぶんそれが事実だ。
 奈央子を頼もしく思ってはいたけれど、あの頃の柊にとってはそれが全てだったから、好きと言われてもきっと、困ることしかできなかった。彼女も察していたから、言う気になれなかったのだろう。
 自分がいかに鈍感であったか、あらためて思い知らされた気分だった。
 同時に湧き上がってきたのは、姉に対する意外の念。時も場所も関係なく、ひたすら容赦なく辛辣な口出しばかりの姉が、この件に関しては沈黙を守ってきたとは——もちろん奈央子に懇願されたからではあるだろうけど、それでも意外だった。
 そして、もっと強い勢いで胸の内を満たしていくのは、奈央子へのさまざまな感情。一番大きいのはやはり、愛おしさと、同じほどの感謝の思い。こんな自分を好きでい続けてくれたこと、結婚にうなずいてくれたことに対しての。
 昔は、奈央子が近くにいるのを当たり前だと——いや、わざわざ考えもしなかったほど、普通のことと感じていた。けれど付き合い始めて以降、ふとした時に、それは決して普通でも当然でもないのだと何度も気づかされた。——今、この瞬間のように。
 いくつもの偶然で出会えて、身近にいられて、そして互いに想い合えるようになった。
 今こうしていられるのは、奇跡的なことなのだ。
 黙り込んで結構時間が経ったらしく、気づくと、奈央子がすぐ横まで来て顔をのぞき込んでいた。
「どうしたの?」と心配そうな表情で問いかけられても、まだ答える言葉が出てこない。代わりに手を伸ばして彼女の頬に触れ、同時に少しだけ顔を近づけた。呼吸が一瞬止まる。
 唇を離した後も、手は頬に添えたままでいた。唐突さに戸惑った様子の、奈央子の目をまっすぐに見る。
 「……あのさ、おれ、頑張るから」
 「え?」
 「おまえにはたぶん勝てないだろうし、姉貴とかには一生認めてもらえないかもしれないけど、でも、努力する。少なくとも絶対、おまえと子供を不幸にはしないから」
 一息に言い切ると、奈央子は何度もまばたきをしてから、目を伏せた。考え込むように間を置く。
 「……うん。ありがとう」
 その声はかすかに震えていた。いろんな思いを、懸命に抑えているかのように。
 「でも、無理しなくていいから。言っとくけどわたしは、柊に勝ってるとか考えたこと、一回もない」
 思いがけない言葉に虚を突かれた瞬間、奈央子ははにかむような笑みとともに顔を上げた。その表情は、彼女を思いがけないほど子供の頃に近づけた。
 「くーちゃんだって、口で言うよりはちゃんと、認めてくれてると思うし。それに……わたしは今でも充分幸せだから」
 最後の部分は耳のすぐ横で、ささやくように聞こえた。抱きついて寄りかかる奈央子の重みを、柊は全身でしっかり受け止めた。

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