« 2011年5月15日 - 2011年5月21日 | トップページ | 2011年5月29日 - 2011年6月4日 »

2011年5月22日 - 2011年5月28日

walk along〈3〉

〈3〉 二次会で報告する

 「で、旦那さんは今日はどこ行ってんの?」
 「例の二次会。ねえ彩乃(あやの)、その……旦那さんていうの、やめてくれない」
 「なんで。いいじゃないの別に、事実なんだから。そうでしょ、奥さん」
 「……だから、そういうふうにからかわないでってば」
 入籍して2ヶ月。夫婦という立場にはまだ、二人とも慣れなくて照れくさい。旦那さんだの奥さんだのと呼ばれると、半ば本気で困ってしまう。
 ましてや、中学からの親友で、自分たちのことをつぶさに見てきた瀬尾(せお)彩乃が相手ではなおさらだ。
 こちらの当惑などおかまいなく、彩乃は実に楽しそうに、にやにやと笑っている。祝福する気持ちがあるからこその物言いだとわかっていても、やはりくすぐったくてしかたない。
 7月中旬、晴れの日曜日。母校である私立K大学近くの喫茶店で、数ヶ月ぶりに会った。
 彩乃は現在文学部の博士課程に在籍しているが、日曜は当然休みである。卒業以来一度も足を運んでいないから久しぶりに行ってみたい、と奈央子の方から口にしたのだった。
 「このへんは、あんまり変わってないね」
 「うん、バス停の向こうもコンビニになったぐらいかな。お弁当屋さんは去年閉めちゃって。それよりさ、写真早く見せてよ」
 と期待をこめて言われた瞬間、また気恥ずかしさが戻ってきた。「絶対持ってきてね」と彩乃は昨夜も電話をかけてきて念を押したし、もちろん忘れてはこなかったが、反射的に躊躇を感じてしまうのはどうしようもない。
 それでも結局はカバンから取り出し、向かいに座る親友に渡す。布張りの表紙を開いた途端、彩乃の目はそこに釘付けになった。ずいぶん長く、無言でそうしているので、次第に落ち着かなくなる。
 「……びっくりした。想像以上にきれい」
 やっと口を開いたと思ったらそんな台詞で、どうにもいたたまれない気持ちになってしまう。そこに写っているのが自分とは思えないからだ。
 「まぁ、その分て言っちゃ悪いけど、こっちの真面目さがなんか笑える」
 写真の片側を指差し、一転しておかしそうな口ぶり。その点は正直、同意だった。一番そう思っているのは本人だから、柊の前で口には出せないが。
 「でも奈央子、ほんとにきれい。ご両親も喜んだんじゃない?」
 確かにその通りだったし、結果的にはよかったと思う。当初、結婚式をやるつもりは全くなかったのだ。日にちの余裕も予算もないと思っていたし、式に対するこだわりも持っていなかったから。
 だが双方の家族は全員、せめて内輪でだけでも式は挙げなさいと強く言ってきた。一番強硬だったのは、今や義理の姉となった公美。『私が、式場も他の段取りも全部手配してあげるから』とまで言われては断るわけにいかず、式を挙げる覚悟を決めた。
 ……確かに、何の前触れも予告もなく結婚を決めてしまったのだから、せめてその意見は容れるべきだと二人とも考え直した。両親の説得は懇願に近いものがあったし、彼らが式を挙げてほしいと思う気持ち、とりわけ奈央子の両親がそう願う気持ちは、奈央子自身も柊もよくわかったから。
 その後2週間も経たないうちに、公美は本当に全ての手配を済ませて、6月中旬の大安の日曜で式場を確保した。その時点で5月末だったし、半年前であっても、6月の大安の予約なんて難しいはずだ。
 そんな無謀というか無茶というか、ともかくあり得ない状況で式場確保ができたのは、公美が職業柄とても顔が広く、その人脈を最大限に利用した成果なのだろう。いくら身内のためとはいえ、仕事で忙しい中、よくそこまでやってくれたものだと思う。しかも、状況を考えればこれまたあり得ないほどの低予算で。その支払いは、全額払うという両親側との攻防の末、最終的には折半で決着がついた。
 「えっと、式に呼ばなくてごめんね。決まったのが半月前だったからすごいバタバタしちゃって、両方の家族と近くの親戚が精一杯で」
 「それは別にいいって。今は大事な時期だから式も短めで、披露宴はしないってちゃんと聞いてたし。その代わり、落ち着いたら集まる段取りは今から考えとくからね。地元の子も総動員で」
 楽しそうな彩乃の様子からすると、すでにある程度、具体的な企画が立てられているのかも知れなかった。彩乃を含め、そういう「お祭り」を企画するのが大好きな人物の心当たりは数人いる。
 祝ってもらう立場としては喜ぶべきなのだが……中学までのことを知っている彼女たちがいったいどんな「お祭り」を催すつもりなのか、不安も感じないではなかった。つまり、ある意味で急転直下な展開だという自覚はあったから。
 「ところで」と、彩乃が視線をやや下に落とす。
 「男か女かはまだ調べてないんだっけ。希望としてはどうなの?」
 奈央子も、彩乃の視線が向く場所、自分のお腹に目をやる。最近ふくらみが少しばかり目立ってきた。服も今までのものは合わなくなってきたので、徐々にマタニティスタイルに移行しつつある。
 「んー、考えてないなあ。くーちゃん、じゃなくてお義姉さんは、絶対男がいいって言ってるけど」
 「え、なんで」
 「……女の子だと柊に似る可能性が大きいから、だって」
 彩乃は間髪入れず吹き出した。すぐに「ごめん」と言ったものの、笑いを容易には抑えられないらしく、うつむいて口に手を当て、肩を震わせている。
 いかにも公美らしい、率直すぎる意見である。柊がその場にいなかったのがせめてもの幸いだった。聞けばまた、当人は必要以上に落ち込んでしまうだろうから。
 ……それにしても、と奈央子は心の中でささやかにため息をついた。昔から柊には、自分を必要以上に過小評価する傾向がある。公美のような人が身近にいるから多少はしかたないとはいえ、ちょっと意識過剰なのではないか、と今でもたまに思う。
 思えば奈央子に対しても、特に付き合い始めてからはそんなところが見受けられた。確かに成績などでは上回っていたかもしれない。だがもっと根本的な意味で、柊より上だと思ったことは一度もない。勝ち負けを論ずるならたぶん、自分はずっと負けっぱなしだ——好きだと気づいた子供の頃から。
 彼なりに年齢相応に成長したところはもちろんあると思うが、柊の基本的な性質は、24歳の今でも全然変わらない。鈍感で不器用で、時々ものすごく子供っぽい。そして、驚くほど裏表がなくて正直だ。
 そのせいで手間をかけさせられたり、もどかしく思わされることがあっても、彼の性格の変化のなさには、実のところ安心もしている。小さい頃に好きだと思った、そのままの柊であることが。
 おそらくこの先もずっと同じふうでいてくれる、変わらないでいてくれると、信じていられることが心から嬉しいと思える。そんなことをつい口にすると、親友はふふと笑った。
 「相変わらずだね。いいなあ、幸せそうで」
 「なに言ってんの、そっちだって順調じゃない。結婚待ち状態なだけで」
 「……まあ、ね」と、いつもの彩乃らしくない躊躇が混ざった、同時に可愛らしい照れをも含んだ反応が返ってくる。今は遠距離恋愛中の、従弟でもある2歳下の彼氏のこととなると、彼女の方が年下になったみたいな、こんな態度を見せることが多い。
 「でもほら、あたしもせっかくドクター進んどいてすぐやめるわけにもいかないから。せめて論文ひとつぐらい書かないとね」
 照れをごまかすためにか、目をそらして咳払いを繰り返す。そしてふと思い出したように聞いた。
 「そういや、今日の二次会に来る人たちって知ってるのかな、結婚のこと」
 「……知らないんじゃないかな。結婚はがき出したの親戚だけだって言ってたし」
 と返すと、彩乃はまた楽しげな笑みを浮かべた。
 「そっかー。じゃあ、大騒ぎになるだろうね」

     ◇

 大学のサークル仲間がこれだけ集まる場に来るのは、少なくとも柊は久しぶりだった。たぶん、今日の主役である望月里佳(もちづきりか)と前に会った時、1年ぐらい前の飲み会以来ではないかと思う。
 里佳と、その結婚相手を祝う二次会は、友人代表の挨拶ののち、食事しながらの歓談へと進んだ。
 こういう二次会には、会社の先輩などが結婚した時に数回参加しているが、今日は賑やかさ、騒がしさの質が明らかに違う気がする。どちらも学生時代の友人に限定して招いているという話だから、出席者全員が、昔に戻ったような気分になっているのかもしれない。
 柊自身も、そして同じテーブルの面々も例外ではなく、昔話と近況がほどよく混ざった会話に花を咲かせていた。だが里佳が近づいてくると、そちらに注目した直後に誰もが黙り込む。そして数秒の間の後、感嘆の声、もしくはため息を洩らした。
 里佳が着ているのは、艶のあるピンクの内側に淡いクリーム色の柔らかい生地を重ね、あちこちに黄色い花をあしらったドレス。髪にも同じ花を飾ったスタイルはよく似合っていて、確かに人目を惹く。
 ——自分たちは披露宴も二次会もやらなかったから、奈央子が着たのはウエディングドレス1着だけだった。こういうのを彼女が着てもきっと似合っただろうし、見てみたかった気もする。
 まあ、ウエディングドレス姿だけでも充分にきれいで、全く不満はなかったのだけど。……自分の、滑稽としか言いようのなかった格好は置いておくとして。
 ともあれ里佳は、衣装の華やかさに負けないほどの明るい笑顔で、本当に幸せそうだった。それは間違いなく、結婚相手が与えてくれたものだ。
 その当人——日下部(くさかべ)氏は今、友人らしい数人がいるテーブルに引き止められて、カメラのフラッシュとビールの乾杯攻めに遭っている。
 里佳と「付き合って」いた2年間、最後まで恋愛感情を持てなかった事実は、思い返すと今でも少し申し訳なく感じる。そして、柊以上に奈央子がそのことを気にしていたのを、彼女自身は口にしなかったけれど知っている。だからこそ今、日下部氏には心から感謝したい気持ちだった。
 「ちょっと、ねえ」
 という声とともに腕を引っ張られ、はっとして柊はそちらを振り向いた。隣に立つ女性が、笑顔の中に怪訝そうな色を混ぜて見上げている。里佳と一番仲の良かった林祥子(はやしさちこ)だ。
 「悪い、なに?」
 「なに、じゃないわよ。さっきから呼んでるのに聞こえてないの」
 え、と周りを見回すと、いつの間にか他のテーブルの面々も何人か寄ってきていて、皆一様に、祥子と同じ表情をしている。くすくすと笑い声を立てたのは、その中心にいる里佳だった。
 そういえば今日、まだ一言も話していない。
 「……えっと、おめでとう望月」
 「ありがとう」
 もう望月じゃないって、と数人からすかさずつっこみが飛ぶ。里佳は屈託のない笑みで「いいから」と彼らをなだめた。
 「ところで、羽村くん最近どうしてるの。あ、沢辺さんは元気?」
 絶対、誰かにはそう聞かれると思っていた。それが里佳だったのは皮肉なのか幸いなのか、判断に困るところではあるが。
 思いきり注目されている中、打ち明けるのは非常に勇気がいる。だが嘘をつくわけにはいかないし、皆にはちゃんと報告するべきだとも思う。
 今朝からずっと、意識的に人の目から隠していた左手を持ち上げる。指輪に目ざとく気づいたらしい何人かが目を見張った。
 「実は、5月に結婚した。年明けに子供生まれる」
 ええっ、と予想以上の大きさでどよめきが起こった。10人程度の声が、会場内の他のグループ全員を振り返らせるほどに大きく響き、
 「なにそれ、聞いてない」
 「計算合わないじゃん、ひょっとして出来婚?」
 「羽村が親になんの? うわー似合わねー」
 口々に、しかもさらに大声で言うものだから、何が起きているか知った別テーブルの連中が次々に集まってきた。
 出来婚で正解だとか、だから身内だけの結婚式で済ませたとかどうにか答えつつ、いっそ奈央子も連れて来るべきだったかと一瞬、切実に思ってしまった。それほど浴びせられる質問や感想の勢いはものすごく、一人で対応するのは大変だった。おまけに事情を知らない相手側の招待客に説明を始める者が出る始末で、収拾のつかない状況になりつつある。
 限りなく続きそうな騒がしさの隙をやっととらえて、柊は両手を上げて周りを抑える仕草をした。
 「まだなんかあるんなら後で聞くから。今は望月、じゃなくて日下部さんのお祝いなんだから、それぐらいにしといてくれよ」
 やや息を切らしながらそう言うと、ざわめきの質が変わるのがわかった。それもそうだね、と誰かが言い出し、興奮がすっと治まっていく。
 それを確認してから里佳を振り向き、騒がせたことを謝る。今日の主役なのに、一時とはいえ蚊帳の外に置いてしまった。里佳は、他の皆と同じように驚きは浮かべていたものの、全く不愉快そうではなかった。そればかりか、笑みを見せて首を振った。
 「気にしないで。皆が騒ぐのわかるし」
 確かに奈央子は昔から目立っていたし、大学時代も学内で指折りの才媛として有名だった。彼女狙いの男子学生の中には、サークルの仲間も数人はいたはずだ。
 だから付き合っていると知られた後は、それまでは幼なじみ止まりと認識されていたせいもあって、しばらくの間いろいろ言われたものである。
 それを、当事者の一人だった里佳に思い出させられるのは、若干とはいえ複雑なものを感じざるを得ない。別れて何ヶ月も経っていなかった頃だから、里佳も何かしら言われていたに違いないのに。
 だが里佳の表情に、そういった過去へのこだわりはかけらも感じられない。含みのない笑顔のまま、さらに言葉を続ける。
 「でも意外、羽村くんたちが出来婚って。向こうのご両親に挨拶する時大変だったんじゃない?」
 「——ん、まあそれは」
 つい言葉を濁す。……確かに大変ではあった、主に自分自身の気分の点で。実家でさんざん打ちのめされた直後だったから、ああいう場合でなければまっすぐ帰りたかったほどに疲れていた。それだけに、奈央子の両親がすんなりと話を受け入れてくれたことには、本当に救われた気持ちになった。
 厳密に言うなら、父親はやはり複雑そうな表情と態度を見せていたが、一人娘をどれだけ可愛がっているかを長い間見てきて知っているだけに、それはまあ無理もないと思う。奈央子の父親は普段は穏やかな人だけど、怒る時には自分の子供もよその子供も、同じように厳しく叱りつける人でもあった。
 そういう怖いイメージのせいだけではなく、今回の件では何かしら厳しい言葉をもらうか、もしくは一発ぐらい殴られてもしかたないとは考えていた。その予想からすると、あの場での気まずさなどはたいしたことはなかった、とさえ思える。面と向かっては「奈央子が選んだのだから信じることにする」と言われただけで、他には何もなかったのだ。
 たぶん、母親が非常にうまく取り繕ったり、なだめたりしてくれたのだろう。なにせ、二人で訪ねて行っても驚いた顔ひとつしなかった——あまつさえ薄々わかっていたと言い切った人である。逆にこちらが、奈央子でさえ少なからず意表を突かれた顔をしたほどに、驚かされた。
 そして、挨拶の前後の雰囲気を、奈央子と母親が絶えず明るく保ち続けてくれたのも本当にありがたかった。似た者母娘の見事な連携と威力を見るにつけ、沢辺家の女性には敵わないと思ってしまったことは、大きな声では言えない事実である。
 「けど、喜んでもらえたから」
 途中をかなりすっとばした結論だが、そうだったのは違いないし、少なくとも今日のこの場で詳しく説明を始めるのは、単純に面倒だと思う気持ちがあったことも否めないが、それ以前に筋違いだろう。
 「そう、よかったね。おめでとう」
 奥さんによろしくね、と続けて言われ、照れくささも覚えたが、それ以上に大きな喜びで満たされるのを柊は感じた。家族以外に初めて言われたのと同時に、相手が里佳だからというのもあるかもしれない。立場が逆だな、とは若干思いつつも。
 満面の笑みを向けてくれている里佳に、柊は笑顔とともに「サンキュ」と返した。

| | コメント (0)

walk along〈4〉

〈4〉 思いを打ち明ける

 日々は穏やかに過ぎていった。
 8月の末、夏の盛りが過ぎて秋へ傾き始める頃、子供はたぶん女の子だろうという検査結果が出た。それを知らせた時、やはりというか義姉は電話の向こうで「……あ、そうなの。まあ奇跡的に奈央ちゃんに似ることを祈ってるわ」と、非常に複雑そうな声で感想を述べた。
 思わず苦笑いを声に出してしまい、そばにいた柊に「なに? なんつったの姉貴」と聞かれる羽目になった。表現を若干やわらげて伝えたものの、彼が憮然とした面持ちになったのも予想通りだった。
 だが予想外だったこともある。柊の、子供に関する事柄への熱の入れようだ。女の子だとわかった直後からは顕著になって、服やおもちゃその他をやたらと揃えたがり、週に1度は何かしら買ってくる。
 名前も、こちらが言い出す前に考え始めていた。そして毎日のように、買い込んだ姓名判断の本を読みふけったり、思いついたものを占いサイトで調べてみたりしている。その熱心さは正直なところ意外だった。
 単純に、彼が率先して何かしたことが、長い付き合いの中でも数えられるほどにしか覚えがないという背景もあったけれど、それだけではない。
 子供を大切に育てようという柊の意思は、確かに当初から感じていた。でもここまで、有り体に言えば親馬鹿に近い行動をするとは思わなかった。
 今からこうでは、子供が生まれた後はどうなるのやら。良くも悪くもべったりになってしまいそうな気がして、ちょっと不安だった。
 ……そして、同時に感じていたかすかな苛立ち。なぜ苛立つのかわからなくて、けれど、柊が子供のことを口にする回数が増えるごとに感じる頻度も高くなり、そのたび落ち着かないことが続いた。

 その感情が何なのか気づいたのは、10月初めの、朝から少し空気が冷たかった日のこと。
 数日前まではしつこい残暑で日中はまだ暑いほどだったのに、一転して平年以下の気温、最低温度は12月上旬並みだと天気予報で言われていた。
 その日、奈央子は定期検診と休職にともなう手続きのために、一日休みを取っていた。全ての用事を済ませて帰る途中の夕方、雨が降ってきた。
 突然ではあったけど、予報で午後からは雨の可能性があると聞いていたので、傘は持っていた。だから自分自身は困らなかったが、必然的に柊のことを思い出した。朝はよく晴れていたから、大丈夫だろうと楽観的に言って傘を持っていかなかったのだ。
 迎えに行こう、と思ったのは自然ななりゆきだった。こんな時はタクシーは混むかもしれないし、今はなるべく節約するに越したことはない。
 夜は冷えるだろうけど、今はもう安定期だし、冬の装いで暖かくしていけば大丈夫だろう。
 そして、終業時間を見計らって柊に電話した時。
 『もしもし?』
 「あ、わたし。今日何時頃になる?」
 『もうちょっとかかるから、会社出んのは6時半ぐらいかな。なんで?』
 「ううん、別に。お疲れさま」
 迎えに行く、とわざと言わなかったことにも他意はなかった。どんな顔をするかな、といういたずらっぽい楽しみがめずらしく頭に浮かんだだけで。
 6時半に会社を出たなら、自宅の最寄り駅に着くのは7時15分前後だろう。夕食の準備を、あとは焼いたり温めたりする段階まで済ませてから、奈央子は家を出た。
 今の家は、駅から徒歩で10分ほどの2DK。就職後1年ほどして柊が前のアパートから引っ越した部屋で、入籍後に奈央子が、学生時代から住んでいたマンションを引き払い同居した。もっとも、週の半分は通ったり泊まったりしていたから、それ以前から半ば同居の形だったとも言えるのだが。
 駅に着くと、少し前に電車が到着したらしく、改札に通じる階段から人がまとまって降りてくるところに出くわした。その波の後ろの方、人が途切れかけるあたりに柊の姿を見つけ、奈央子は背伸びをした。
 ほどなく柊が顔を振り向けてこちらに気づき、目を見開いた。かなり驚いた表情が狙い通りで嬉しくなって、笑いながら大きく手を振った。
 当然、同じように振り返してくれる、あるいは笑顔を返してくれるものだと考えた。だが柊は表情を変えないまま人波を縫うように走り寄ってきたかと思うと、いきなりこう言った。
 「なにやってんだよ」
 「……え?」
 言われた意味がつかめなくてきょとんとする。その反応が信じられないと言いたげに柊はさらに目を見張り、声高に言いつのった。
 「こんな寒い時に外出てくるなんて、なに考えてんだよ。おまえ自分がどんな体かわかってんのか」
 「……わ、わかってるわよ、だから着込んであったかくしてきたし、今着いたとこだから長い時間待ってたわけじゃ」
 「そういう問題じゃない」
 と、うろたえながらの奈央子の言い訳を柊は切り捨てるようにさえぎる。そしてとどめに「子供に何かあったらどうするんだ、バカ」と付け加えた。
 その瞬間、頭の中が沸騰するような心地がして、顔が熱くなる。気づくと奈央子は、無言できびすを返して駅の外へ走り出ていた。
 柊の呼び止める声は聞こえたが、足を止める気にはなれなかった。彼の声からも、思いきり集めていたに違いない周りの注目からも、今はとにかく遠ざかりたくて。
 傘を差すことに思い及ばず屋根のないところへ出たが、その時もう雨は止んでいた。だが駅前の石畳とコンクリートの道はもちろん濡れていて、だからなおさら走ったら危ないという意識はあるにもかかわらず、それでも足を止められない。
 自分が今抱えている感情が激しすぎて、かつ理解できなくて、立ち止まりたくなかった。止まってしまったら冷静にならざるを得ない——そして、感情に向き合うしかなくなるのが怖い。
 懸命に走ったつもりだったけど、結果的には当然ながら、さほど距離も速度も稼げなかったらしい。駅正面のロータリーからいくらも離れないうちに腕をつかまれ、体ごと振り向かせられる。
 その動作も腕をつかむ手にこもる力も、柊にしては乱暴だった。だがきっとまだ怒っているのだろうと思えば無理からぬことでもある。考えてみれば、彼が声を荒らげてまで怒ったことなんて、子供の頃のケンカを除けば今までなかった。それほどに怒らせてしまった、という思いが気持ちを一気に萎縮させ、顔を上げることができない。
 異常に長く思えた沈黙の後で発せられた声は、しかし予想に反する低いトーンで、穏やかにさえ聞こえた。
 「どうしたんだよ。なんかおかしいぞ、おまえ」
 おかしい、と言われて、反射的に柊を見上げた。その途端、戸惑いの表情がさっきと同じレベルの驚愕に変わる。うろたえた仕草で頬に触れられてようやく、自分が泣いていることに気づいた。
 うそ、とつぶやいた自分の声のひび割れ具合に、慌てて口を押さえる。そうすると乱れた感情が全部目に集まったようになって、さらに涙が出てくる。
 柊が落ち着かない様子でまばたきを早くするのを見るとまたいたたまれなくなって、再び顔をうつむけた。
 ……ああ、ものすごく困っている。当然だ。
 自分でもなぜ泣いているのかわからない——否、薄々わかっているけど直視したくなくて、説明できない。だから何も言えなかった。
 「——とにかく、帰ろう。タクシー使おうな」
 静かな声で柊が言った時にもまだ涙は止められていなくて、そんな自分がふがいなくて、彼の言葉にとっさに反応できなかった。返事もうなずきもしない奈央子に柊は重ねて問うことはせず、こちらの肩に腕を回すことで行動を促した。
 促されるままに歩いてタクシー乗り場にたどり着き、ちょうど客待ちをしていた1台に乗り込む。
 車内でもしばらくは泣いていたし、二人ともほぼ無言だったから、運転手さんはさぞかし困っただろう。そんなふうに思う理性はちゃんとあったのに、泣く理由を説明する踏ん切りはつけられなかった。
 家に帰ってからもそうで、おまけに食事の準備をする気力も出なくて座り込んでしまう始末。めずらしく気を回したらしい柊がお茶を淹れてくれても、まだ何も言えなくて、気持ちだけがどんどん深みにはまっていく。
 何も言われないことがかえって辛かった。さっきのように怒るなり訝しむなりしてくれた方が、まだ気が楽にさえ思える。今の気持ちは自分で説明できない——したくない感情だから。
 ないがしろにされているなんて、思う方がおかしいのだ。柊が子供のことばかり考えて、優先しているから……そんなのは当たり前なのに、そのことに嫉妬するだなんて。
 あまりにも幼稚な感情だから、口に出したくなかった。けれどそれさえも、ただ自尊心のために意地を張っているように思えてならない。結果的にだんまりが続いている今の状態が、本当に情けなくて、ますます自己嫌悪が深まってしまう。
 いっそのこと逃げ出したかった。けれどどこにも逃げる場所はない。今は、ここが家なのだから。
 やっと少しだけ目を上げて、時計を見ると、8時半を過ぎようとしていた。帰ったのが何時か正確にはわからないが、おそらく40分以上経っているはずだ。それだけの時間、何もせずに座ったままでいたことを再認識して、また気分が重くなる。
 お互い、夕食もまだで、明日は仕事なのに。
 時計から視線を動かした途端、柊と目が合った。そして一瞬躊躇したら、そらせなくなった。彼が何とも言いがたい、はっきり言えば感情の読めない目をしていたから。自己嫌悪と気まずさが、一転して大きな不安に変わる。
 それを察したかのように、柊の目が感情を取り戻した。まだ戸惑いを残し、どう対処すべきか悩んでいるらしく見える。お茶の存在を思い出すふりをして奈央子は視線をはずし、湯呑みを手に取った。
 当たり前だがとっくに冷めきっているお茶を。それでも一口含んで飲み込んだ、その時。
 「ごめん」
 はっきりした声で言われたにもかかわらず、しばらくぽかんとしてしまったのは、柊から聞くべき言葉ではなかったからだ。謝るのは、確実にこちらであるはずだから。なぜ、彼から謝られるのか。
 「せっかく迎えに来てくれたのに。礼も言わないで怒鳴ったりして、悪かった」
 ごくあっさりと、当然のように言って、軽く頭を下げさえする。それを見た途端たまらない気持ちになり、思い切り首を横に振った。
 「ちがう、……違う、悪かったのはわたし。わたしが悪いの、わたしが」
 声に出した瞬間からまた感情がたかぶってきて、言葉をうまく文章にできない。少しでも呼吸を整えようと口を手で覆い、繰り返し息を吐き出す。
 「……わたしが気をつけてなかったから。だから、怒られて当たり前なの」
 裏返りそうな声を必死に落ち着かせながらそう言うと、柊はなぜか口元を歪めた。その表情は、戸惑いとはまた別の困惑——純粋に、けれど心から困っているようだった。首の後ろに手をやり、少しだけ目を伏せて口を引き結ぶ。そうしていたのはたぶん10秒かそこらで、再びこちらに視線を向けると同時に、柊は「そうじゃない」と言った。
 「いや、確かに怒ったと言えばそうだけど。でも、奈央子が心配だったから」
 「え」
 「え?」
 「……子供が、じゃなくて?」
 おそるおそる、細い声で尋ねると、柊はますます困った表情になる。どうしてそんなことを聞かれるのかわからないと顔中に書いてある。
 「そりゃ子供だって心配だよ、当たり前だろ。でもさ、今一番大変なのって奈央子じゃないか。おれはただ心配が増えただけだけど、おまえは体の方でも楽じゃない思いして、なのに家のことも仕事も全然手抜きしてなくて。そこまでしてるのに、おれにまで気を遣う必要ないんだよ」
 さっきと同じく、少しのあてつけがましさも含まれない、至極当然といった口調。だがそれだからこそ、反射的に奈央子は言い返した。
 「だって、……あんただって大変じゃない、今年も補充なかったから人数ギリギリなんでしょ。これからお金かかる分、前より残業増やしてるのも知ってるし。なのにわたしが怠けてるわけにいかないし、節約だってするに越したことないし」
 「怠けろなんて言ってないだろ。そうじゃなくて、無理するなってことだよ。おまえ、おれに前に言ったじゃんか、無理しなくていいって」
 はっとする。
 「そりゃ残業は多くなってるけど毎日じゃないし、自分の許容範囲でやってる。それに、休みはちゃんと休んでるだろ?」
 「……うん」
 「だから、奈央子もそうしていいんだって。おまえが弱音吐かないから、ついつい今までと同じにしてたおれも悪いけどさ——つらい時は言ってくれたらいいから。家のことも、まあ、同じようにはできないかもしれないけど、もっと手伝うし」
 言葉の後半はどこか照れくさそうというか、ほんの少しだけたどたどしくなった。柊は、家事能力があるとはお世辞にも言えない方なのだ。料理は包丁の扱いや火加減が危なっかしいし、掃除や洗濯も、時間がかかる上になんとなく不器用さの残る結果になってしまう。
 それでも、同居を始めてからは彼なりに、今までは奈央子任せにしていた家事を引き受けてくれるようになった。洗濯物をたたむとかお風呂掃除とか、不器用でもどうにかなる範囲のことではあるけど、前よりは確実に頑張ってくれている。
 だから、それ以上の手助けは求めていなかった。自分の方が要領がわかっているという思いもあったが、なにより、これまでと同じようにするのを当然だと思っていたから。いろんな動作のたびに不自由は感じても、仕事と家事の両立自体を負担だとは考えなかったのだ。けれど。
 無理するなと言われて初めて、自分がどれだけ気を張っていたのか気づいた。妊娠がわかってからも、よほどつわりが重い時以外は、多少体がつらくても休もうとはしなかった。どうにかできると思ったから、というよりは今思えば、自分の役割をこなさなければいけないと思い詰めていたのかもしれない。自覚のないままに。
 そういうことにはどちらかと言えば無頓着な柊が言うぐらいだから、他の人にはもっと、そんなふうに見えていたのかもしれなかった。たぶん奈央子があまりにも自然にしていた??しようとしていたから、気づいたとしても言いにくかったのだろう。
 涙がこぼれた。けれどすぐに止まったし、さっきとは逆に、感情が落ちつき気がゆるんだからこその涙だ。だがそれをわかるはずもない柊は、控えめながらも三たび、戸惑いを浮かべる。
 また困らせる前にと、今度は自分から釈明した。
 「ごめん、悲しいんじゃないの。ちょっと……自分の方が子供みたいだったなって思って」
 「……? 何の話」
 「わたしね、……たぶん、この子に嫉妬してた。あんたがこの子の話をするたびにもやもやした気分になるのは、親馬鹿ぶりがらしくないからだって最初は思ってた。でもそうじゃなくて」
 ずいぶん大きくなったお腹に手を当て、一度言葉を切り、息を吸い込む。
 「どんな時でもこの子最優先なのが悔しかったの。それが当たり前に決まってるし、わたしだってもちろんそうしてるけど——この子よりも後回しにされてるみたいに感じちゃって、そういう問題じゃないってわかってるのに、それでも悔しくて」
 この期に及んでも、口に出すのはやはり勇気のいることだった。思ったよりは詰まることなく言えたけど、言ってしまうとあらためて恥ずかしくなる。顔を見ながらだとなおさらそう感じたから、言い終えた後はまたうつむいてしまった。今どんな顔をされているのだろうかと思うと、ますます恥ずかしくなって、次の行動のタイミングがつかめない。
 息を大きくつく音が聞こえた時、思い切って顔を上げた。いつの間にか同じように目を伏せていた柊が、同じタイミングでこちらを見るところだった。
 「……意外だな、奈央子がそんなこと思ってたなんて」
 本当に意外そうで、なおかつ、ほんの少しだけ、呆れが混じっているふうに聞こえた。だがこちらに向けている表情は、ひどくやさしい笑み。
 テーブル越しに柊の手が伸びてきて、こちらの手を包み込むように握る。
 「あのさ、誤解すんなよ。子供が大事とか可愛いとか思う理由って人それぞれかもしれないけど、おれの場合は、おまえとの子供だからだぞ。それ、わかってくれてる?」
 奈央子はうなずいた。そんなこと、これ以上はないぐらいとっくにわかっている。にもかかわらず、彼が気遣う意味を取り違えるなんて、本当にどうかしていた。情緒不安定にも程がある。
 自分の情けなさに、ごめんなさいと謝る声がまた震えてくる。目頭がまたもや熱くなったけど、今度はかろうじて涙はこぼさずにいられた。
 「ほんと、情けないよねわたし。バカって言われてもしょうがなかった」
 「あ、いや」と柊が途端にうろたえる。
 「あれは言葉のあやっていうかはずみっつーか——本気じゃないからな」
 「わかってる」
 「それと、情けないなんて思うな。そりゃ奈央子らしくないからびっくりはしたけど、そういう時もあるだろ。特に今の時期は」
 力みのない、それでいて真剣な口調。どうして柊はこんなふうに、大事なことをなんでもないことのようにあっさり言えてしまうのだろう。
 やっぱりわたしは負けっぱなしだ、と奈央子は思った。彼の素直さ、どこまでもまっすぐな心には、きっと一生かなわないだろう。
 今ここにいてくれるのが、柊でよかった——柊を好きでいられてよかったと伝えたいけど、想いで胸がつまって言葉は出てこなかった。
 だから繰り返しうなずきながら、こちらの左手を包んでいる柊の右手にさらに自分の右手を重ね、力いっぱい握りしめた。

| | コメント (0)

« 2011年5月15日 - 2011年5月21日 | トップページ | 2011年5月29日 - 2011年6月4日 »