【5】-6:「ありがとう」

 確か、14・5万するはずの品物だ。そんなものをポンと買えるだけの余裕が、柊にあるとは絶対に思えない。
 ああ、と柊はうなずき、
 「バイト増やして資金稼いだ。……まあ、時間短くて実はちょっと足りなかったから、食費削ったりもしたけどな。入荷が間に合うかが心配だったけど、昨日ギリギリで入ったって店から連絡が来て」
 「……どうして、わたしに?」
 その問いに、柊はしばらく黙った。無言のまま、見たことがないほど真剣な表情で、こちらを見つめる。やがて、ゆっくりと口を開いた。
 「瀬尾に、たぶん奈央子は信じるきっかけがほしいんだって言われて、考えた。そのためにどうしたらいいのか。——考えてたら、それのことを思い出した。おまえも、もらえたらやっぱり嬉しいって言ってたこと」
 ……確かにそうは言った。けれどあれはたとえ話で、話のついでに聞かれただけで……
 「おまえが気に入るかどうかはわからないけど、今おれにできる精一杯の表現は、それぐらいしかないと思った。これでダメだったら、もう一度考え直すつもりだけど——」
 柊が、数歩前へ踏み出した。手を伸ばせばすぐに届く距離まで近づく。
「——まだ、信じてもらえないか?」
 ささやくような言葉が、雪花の舞う空間の中に響いた。その響きが、徐々に奈央子の心にも広がっていく。
 胸の奥底にあった戒めが、静かに解けた。頑なに閉ざされたものがゆっくりと開き、何かがあふれてくるのを感じる。
 あたたかなもので心がいっぱいになり、体の中を指先まで満たした。
 ……気がつくと、涙が頬をつたっていた。嗚咽がもれそうになるのを、口を押さえてこらえる。
 柊が、焦ったような慌てたような口調で、
 「あ、っと……やっぱり気に入らなかったか」
 後悔をにじませてそう言うのに、奈央子は泣き顔のまま首を振る。
 「……違う、そうじゃないの。……なんて言ったらいいかわからなくて、つまり……」
 胸の奥に、言葉を探した。いくつも浮かんでは消え、最後に残ったのは、とても単純な言葉だった。
 「ありがとう。——すごく嬉しい」
 奈央子がそう言うと、柊は目を大きく見開いた。
 何回かまばたきをした後、ようやく言葉の意味が飲み込めたかのように表情を和らげる。
 とても嬉しそうな、やわらかな微笑みだった。
 奈央子の手から小箱を取り、蓋を開ける。取り出したリングを、柊は奈央子の左手の薬指に通した。
 びっくりして、思わずまた目を上げる。
 柊は微笑みながら手を動かし、そっと奈央子の涙をぬぐった。その手が、頬に添えられ……ゆっくりと顔が近づいてくる。
 奈央子は自然に目を閉じた。直後、唇のぬくもりが重なる。
 お互い、初めての、恋人としてのキスだった。


                        —終—  


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【5】-5:プラチナリング

 『用はすぐ終わるし、終わったら帰るから。ちょっと会ってほしいだけなんだよ』
 真剣な声音に、次第に緊張してくる。
 「……なに?」
 『駅前にいるから、10分ぐらいで着くと思う。それじゃ後で』
 こちらの質問には応じず、柊は電話を切った。
 ボタンを押すのも忘れ、しばし奈央子は携帯を手にしたまま、立ち尽くしていた。
 ——柊が、今からここに来る。
 全く予期していなかったので、まず心に浮かんだのは、どうしようという焦りの念だった。その後からじわじわと、不安と困惑が胸のうちに広がる。
 同時に感じたわずかな期待は、隅に押しやった。勝手に期待して、その通りにならなかったら、より落胆は激しいものだから。
 ともかく、なるべく落ち着いて応対しないと。
 そう考えた矢先、インターホンが鳴った。出ると予想通り柊だったので、キーを操作し、エントランスの扉を開ける。
 しばらく待つうちに、玄関で再びピンポンと音がする。胸に手を当て、呼吸を落ち着けてから、奈央子はドアを開いた。
 コートの肩や、髪に薄く雪を積もらせた柊が立っていた。どうやら雪が降り始めたらしく、外の冷気は帰ってきた時よりも強くなっていた。
「……とりあえず、入ったら? コーヒーかなにか作るから」
 わずかに逡巡したが、やはり奈央子はこう言う。
 だが柊は首を振った。
 「いや、ここでいい。これを渡したいだけだから」
 と、奈央子の目の前に差し出したのは、小さな紙袋だった。反射的に受け取ってから、袋にプリントされた文字を見て驚く。
 「これって——」
 「中身見て、考えてほしい。返事はいつでもいいから」
 そう言うと、柊はすぐに背を向け、早足で階段の方へと向かった。奈央子は慌てて、紙袋の中の物を取り出し、ラッピングを取り払う。小さな箱の中身を目にして、頭が真っ白になった。
 数瞬後、奈央子は小箱を片手に家の鍵をつかみ、コートを羽織りながら駆け出した。急いで3階分の階段を下り、エントランスの外へ出る。
 柊は、駅の方角へさらに数十メートル進んだところにいた。こちらの呼びかけに気づき、足を止めて振り向く。
 奈央子は、手の小箱を柊に向かって差し出した。
 「……これ」
 「気に入らなかったか?」
 「そうじゃなくて——どうしたの、いったい」
 数ヶ月前、駅ビルで会った時に自分が柊に教えたプラチナリング。箱の中身はそれだった。



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【5】-4:クリスマスイブ

 土曜日、大学生協は平日よりも1時間早く営業を終える。そして今日はクリスマスイブだ。
 昨日で年内の講義期間は終了し、週明けからは生協も営業時間を短縮して29日以降は正月休みとなる。
 そういうわけで、奈央子の年内のアルバイトも、今日で最後だ。年末年始は学生も当然少なくなるので、学生バイトも基本的には入れない。今日はたまたま、普段いるパートの女性が都合で休んだため、奈央子が臨時で入ったのだった。
 閉店の片付けを終え、職員や他のパートにクリスマスと年越しの挨拶をして、建物を出る。
 外はもう薄暗いが、まだ4時半過ぎである。奈央子は帰る途中、乗り継ぎの中継駅で下車した。
 食事は家で作るつもりだったが、イブなのでケーキぐらい買おうかなと考える。駅ビルの中にある、そこそこ有名な洋菓子店の「いちごショート」が、全体にコクがありながらもしつこくない味で気に入っていた。
 店をのぞくと、やはりイブのためか数人が順番待ちをしている。並んで待つ間、奈央子はショーケースの中に見つけた「いちごショート」の直径15センチサイズを、少し迷った末に買うことにした。それほど高くなかった(1000円強だった)し、なんとなくいつもより多く食べたい気分になったのだ。
 最後の1つだったケーキを箱に入れてもらい、それを持ったまま書店といくつかの店を回る。
 自宅の最寄り駅に着いた頃には、6時を過ぎていた。改札を出た途端、凍るような冷たい風が顔に当たり、髪と服を揺らしていく。
 空を見上げると、街灯の明るさの分を差し引いてみても、星はほとんど出ていないようだった。そういえば予報で、夜は雪かも知れないと言っていた気がする。
 奈央子は早足で歩を進め、マンションにたどり着く。なんとか雪が降り出さないうちに帰れたと安心しながら、部屋に入った。
 その時、携帯がカバンの中で鳴り出した。ケーキの箱を慌ててテーブルに置き、折り畳み式の機器を開く。ディスプレイ表示を見て息を飲んだ。
 柊からだった。
 知らず固まっている間にも、呼び出し音は鳴り続けている。はっと我に返り、通話状態にした。
 「————もしもし」
 『奈央子か?』
 ずいぶん久しぶりに間近に聞く、柊の声。名前を呼びかけられてひどく安堵する自分を、奈央子は心の底から感じていた。
 一度深呼吸をして、答える。
 「……うん、わたしだけど」
 『今どこにいる? 家か?』
 「帰ってきたところだけど……」
 『ちょっと待っててもらえるか、今から行くから』
 「え?」



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【5】-3:信じること

 彩乃が「奈央子をほっとくつもり?」と脅し文句を出した時も、やや沈黙したものの、やはり同じ調子だったらしい。だが、
 『いずれ必ず連絡するから、奈央子にはそう伝えておいてほしい』
 そう言った口調がとても真摯なものだったので、彩乃はそれを信じることにしたという。歯がゆい気分は変わらないけど、と後に付け加えはしたが。
 「昨日も電話してみたけど、やっぱり留守電だったわ。ちょっと腹立ったから、いいかげん何とかしろってメッセージ入れといた」
 「どんなふうに?」
 「そりゃもう、ドスのきいた感じでね」
 と言って彩乃が実演したので、奈央子も「そんなのが入ってたら怖いだろうね」と太鼓判を押した。
 「でしょ、それが目的だもの。なのに効いてないのかね、あの朴念仁には」
 「……忙しいんじゃないの、まだ」
 確かに、たまに見かける最近の柊は、いつもバタバタとした様子でいる。講義には出席しているが、たいてい来るのは直前で、時には遅刻してきたりもする。今日のドイツ語Aでもそうだった。そして、終了後はまたバタバタと荷物をまとめて教室を走り出ていく。
 こちらには声をかける気配がないので、奈央子はほっとしているのだが、一抹の不安はあった。先がわからない不安とでも言おうか。
 彩乃に明言しているのだし、柊が今の状態のままでいるとは考えにくい。……だが、もし万一、自分や彩乃の考え違いだったら。このまま、話すどころか見かける機会も少なくなってしまったら。
 柊が何をしていて、どうするつもりなのか予測ができないので、そんなことはないはずだと思いながらも、気がかりな思いを捨てきれなかった。
 ——もし、柊が離れていってしまったら。
 そんな不安を口にすると、間髪入れずに彩乃は奈央子の頭をこづいた。
 「バカ言ってんじゃないの。そんなわけないでしょう」
 「でも……」
 「信じることにしたんでしょ?」
 「……うん」
 「だったら、待ってあげなさいよ。まあとりあえず今年いっぱいぐらいは。それでもなにも言ってこないようだったら、あたしが怒鳴り込んでやるから」
 真剣に言ってくれる彩乃の気持ちが、とても嬉しくて有難かった。
 「わかった。その時はよろしくね」
 そう応じると、彩乃はくすりと笑った。奈央子も微笑み返した。



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【5】-2:戒め

 たまたま、券をくれた木下という学生が店番をしていて、割引以上のサービスをしてくれた。平たく言うと、タダで食べさせてもらった。
 ちょうど交替の時間だとかで、そばにいた学生にエプロンを押し付け、空いてるなら少し一緒に回らないかと言ってきた。サービスへの義理を感じて、一時間だけは付き合った。だがその後の「もし次の週末、予定なかったら映画でも——」という誘いには、謝りながら首を振った。
 木下氏は見るからにがっかりした後、「彼氏いるの?」と尋ねた。奈央子は少し迷ってから、彼氏はいないけど好きな人はいる、と正直に答えた。肩を落として店に戻っていく木下氏の後ろ姿に、やはり最初から断った方が親切だったかも、と後悔した。
 ……加えて、いっこうに「前向き」になれない自分が、ひどく腹立たしかった。いっそ、申し込んできた誰かと付き合うことを考えられればいいのに、そういうふうには割り切れなかった。その気もないのに良い顔をして、交際することはできない。好意を示してくれた相手に対して、断るのは気の重いことだが、誠意のない態度を取るのはもっと失礼だ。
 そう考えるのは、奈央子自身の主義でもあるが、何よりも思い切れていないからだ——柊への気持ちを。わざわざ髪まで切ったにもかかわらず。
 それなのに、あの日の柊の告白を信じられないでいる。……あまりにも予想外で、取り乱すほど驚かされたのは確かだ。しかし彼が、あの状況で、あんな嘘を言うとは思っていない。彩乃からも、羽村は本気だよと念を押されている——なのにどうして、信じることができないのだろう。
 本当は、自分で理由はわかっている。
 中学時代に一度、恋愛対象として見てもらうことをあきらめてから、その決心をずっと忘れないようにしてきた。柊が里佳と付き合い始めてからは、特にそうだった。好きでいることはやめずにいても、想いが成就する日は来ないから期待はするなと、言い聞かせてきたのだ。
 そのことが今も戒めになって、心を縛っている。 ……けれど、いつまでもそのことから目を背けているわけにはいかない。
 何度もそう思うのだけれど、どうしても一歩踏み出すことができないでいる。
 長年の自己暗示は、自分でも驚くほどに強力で、そして堅固なものだった。胸の奥底に、頑なに閉ざされた部分があるのを知りながらも、それを自力で開くことはとても難しく感じられた。
 何か、よほどのきっかけがなければ——
 「やっぱり、そっちから電話はしてないの」
 「ん——なんか、しづらくって」
 「まあ、わかるけど。あたしの方も相変わらずだから、奈央子が今かけてみても出ないかも知れないしねえ……」
 行動を起こすことを躊躇する奈央子に代わって、彩乃は数回、柊に連絡を取ってくれていた。それによると、当日の夜にはある程度の話をしたものの、それ以降は留守電か、つながっても短い会話しかできていないという。なにやら忙しいようなのだが、聞いてみても理由は言わず「時期が来たらちゃんと話すから」の一点張りらしい。



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【5】-1:12月

 5時限目が終わって外に出ると、もう真っ暗だ。
 12月になってから、日没の時間がさらに早くなったように感じる。実際、冬至までは今後も少しずつ早くなっていくのだろう、と奈央子は思った。
 あと2週間もすれば、年内の講義は終了し、冬期休暇期間に入る。今のところ、休暇中の課題提示はどの担当者からもされていないが、まだ油断はできない。英文学講読Ⅰの講師はレポート好きだし、2月の後期試験に代わる課題を出す講義があるとしたら、冬期休暇明け提出になる場合が多いと噂されているからだ。
 先ほどの英語音声学担当の助教授も、それらしきことを話のついでに口にしていた。もっとも、そうやって学生を脅して面白がる癖のある人物なので、信憑性がどれほどかはわからないが。
 それでもやはり気にはなる。今も並んで歩きながら、彩乃はぶつぶつと呟いていた。
 「ったくあのオヤジ、中途半端な言い方ばっかりして。結局、こっちを焦らせて自分が楽しんでるだけなんじゃないの」
 半ば本気で怒っているらしい。その気持ちは奈央子もわかるので、苦笑しながらうなずいた。
 「確かにそうかも、ってわりと本気で思っちゃうよね、あの人の言い方だと」
 「そうそう。なんだろ、欲求不満? 指輪してないし、多分独身だよね。あの性格じゃ彼女もいないんじゃないかな。ね?」
 「さあ、そこまではわからないけど」
 最寄り駅へと歩く途中、赤信号に捕まった。青になるのを待つ間、たまたま会話が途切れる。
 「……ねえ、ところでさ」
 彩乃がふいに、真面目な口調でそう切り出した。たぶんあのことだな、と条件反射で予測をする。
 「全然、連絡ないの? 羽村から」
 「——うん」
 「まだ何にも? もう2ヶ月近いじゃない」
 10月下旬のあの日から、再び柊とは話をしていない。奈央子が柊を避けがちなのは前と同じだが、今度は柊の方も、こちらに接触してこずにいる状況だった。
 大学祭には、彩乃のサークルのコンサートがあったし、初めての行事自体に興味もあったので、一応訪れてひと通りは見て回った。……柊のサークルの出店のことも覚えてはいたけど、やはり足を向けにくかった。しかしもらった割引券を無駄にしたら悪いかも、という思いもあって、遠くから柊がいないのを確認した上で、一度だけ行ってみた。



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【4】-15:自己嫌悪と励まし

 『……だから、奈央子も本当は信じたいはずなの。でも、たぶん急展開すぎて受け入れられないんだと思う……それに、望月さんのこともやっぱり気にしてるだろうし』
 彩乃の話を聞いて、今までの腑に落ちなかった出来事に、ことごとく納得がいった。奈央子の態度の急な変化も、ああいう「勘違い」をして怒った本当の理由も——髪をいきなり短くしたのも、当然ながらその延長線上なのだろう。
 あんなによく似合っていて……好きだったのに。
 そう、奈央子の長い髪が好きだった。普段は、きちんとまとめたり束ねたりしていたが、時折後ろは垂らしていることもあって——さらさらと揺れる髪が綺麗だなと、心のどこかで思っていた。
 そんなことさえ、つい最近まで気づかなかったのだ。ましてや奈央子の気持ちなど……彩乃に言われるまで、全くそうだとわからなかった。
 つくづく、自分は救いがたい鈍感だと、柊はその時自嘲したほどだ。
 柊の返答に、里佳は心得たようにうなずいた。
 「それなら、ちゃんと誤解を解かなくちゃね。どういう内容かはわからないけど、何だったとしても、嫌いにはなってないだろうし」
 「……そう思うか?」
 「思うよ。だってまず間違いなく私よりも前から、あなたのこと好きなはずだし。そう簡単にいきなり嫌いになったりしないわよ」
 ……奈央子と会って半年強の里佳にそこまでわかるのに、どうして自分にはわからないのだろう。
 深い自己嫌悪に陥りそうになる。
 落ち込んだ表情になった柊の背中を、ハッパをかけるように里佳の手のひらが叩いた。
 「そんな顔しないで元気出してよ。——ここまで来たらうまくいってくれないと、私の決心も水の泡になっちゃうんだから」
 明るく言っているが、彼女の隠しきれない微妙な思いは感じ取れた。また謝罪の言葉が浮かんできそうになるが、里佳の心情を慮り、胸におさめた。
 「ありがとうな、望月」
 「あ、それと。サークルいきなり辞めたりしないでね。私は友達がいるから辞めないし、みんなに感づかれても気にしないようにするから……って、もともと私が誘っただけだから、羽村くんがどうするかは自由だけどね」
 確かに、特に断る理由もなかったので、里佳に誘われるままに入ったサークルだった。友人ができたとはいえ、今もさほど執着はないのだが、もしこの状況で柊だけが辞めたら、仲間うちでさらに妙な憶測が飛ぶ可能性が大きい。それぐらいの予測はできたし、そうなったら、何より里佳が気の毒である。
 自分にも辞める理由は特にないから当面はいるつもりだと口にすると、今度は里佳が「ありがとう」と言った。会話の最初と同じ、とても静かな声で。




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【4】-14:今さらだけど

 「こないだ望月に言われたこと、よく考えてみたんだけど——確かに、望月が正しかったよ」
 しばしの沈黙ののち、里佳が言った。やはり静かな口調で。
 「ふうん。やっと気づいたってこと」
 「……そうだな、今さらだけど」
 意外なことに、里佳はそれを聞いて吹き出した。
 「そうね、ほんとに今さらよ。私は付き合い始めて半年もしないうちに、なんとなく気づいてたのに」
 「え——そんな早く?」
 「うん。……でも、別れたくなかったから言わなかった。あなた自身は全然自覚してないみたいだったから、そのうち気持ちが変わるかも知れないって、多少は期待してた……私はずっと好きだったから」
 せつなげな口調に、柊はあらためて里佳に申し訳ないと思った。少し迷ったが、結局は口に出す。
 「ごめんな」
 「いいよ、謝らなくても」
 「いや。おれ本当に、なんにも気づいてなかった。自分の気持ちにも、望月にそんな思いさせてたことも……こんなに鈍感だったなんて、自分でも知らなかった」
 「だから、いいんだって。わかってたことだし、羽村くんが正直にそれを認められるようになったんなら——まあでも、ちょっとは悔しいかな」
 思わず振り向いて見た里佳の横顔には、言葉とは裏腹に、おだやかな微笑みがあった。
 「私も、羽村くんの幼なじみならよかったかな」
 コンビニの買い物かごにコーラのペットボトルを入れながら、独り言のように里佳が言う。
 「うーん、でもやっぱりダメだったかも。沢辺さんみたいな人が身近にいる限り、勝てる可能性は低いかもね」
 「ほんとに——」
 再び謝ろうとした柊を、里佳が手で制する。
 「それ以上謝ったりしないで。……ところで、沢辺さんにはまだ伝えてないの?」
 にわかに口調をあらため、里佳はそう聞いた。柊は少し考えてから、
 「一応言った。月曜に」
 「言ったの? そのわりに元気ないのね。それで、返事は」
 「聞いてない。……逃げられたから」
 柊のその言葉に、里佳は目を丸くした。
 「逃げられた、って……どうして」
「問題の日」以降のことを細かく説明する気には、さすがになれなかった。代わりにこう答える。
 「なんていうか——ちょっと、誤解されてるみたいなんだ。あいつの友達によれば」
 「沢辺さんの気持ちは知ってる?」
 「——ああ」
 奈央子に告白した日——月曜の夜、彩乃からまた連絡があった。
 柊の前から逃げ出した後の様子を大まかに説明したのち、「奈央子には悪いけど」と前置きして彩乃は打ち明けた。奈央子が、ずっと以前から柊を想い続けていることを。



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【4】-13:彼女との話

 柊が立ち上がろうと思った頃にはチェックも終わったようで、企画委員の一人である3年生が休憩の指示を出した。彼女はその場にいる全員を見回し、柊に目を留める。
 「悪いけど羽村くん、買い出し行ってきてくれる? あ、一人じゃ持ちきれないだろうから誰か——」
 「私、行きます」
 3年生の呼びかけに応じた人物に、柊は驚く。
 いつの間にか来ていた、里佳だった。
 彼女とはあの日以来、サークルの集まりで顔を合わせても口はきいていない。運良くというか、しゃべらなくてはいけない機会もこれまではなかった。……しかし、柊と里佳の関係はサークル内ではほぼ暗黙の了解事項なので、何か不自然に感じた第三者が多少はいるだろうと思う。
 案の定というべきか、里佳が名乗りを上げた時、思わずといった様子で自分たちをうかがった学生が何人かいた。柊は心の中でため息をつく。
 当の3年生は気づいていないようで、ごく素直に里佳の申し出を受け入れた。それぞれの希望(飲み物やお菓子など)を集計して、リストを柊に渡す。
 とりあえず、大学生協内の売店へ向かうことにした。学生会館の方角へと、里佳と並んで歩く。
 ——彼女とも、話をしなければならなかった。
 奈央子への想いに気づいた以上、里佳とこれ以上付き合うわけにはいかない。だが、考えれば考えるほど、申し訳ないという思いばかりが湧いてきて、奈央子に対する時とは違う意味で気が重かった。
 意識してなかったにせよ……いや、意識してなかっただけに、里佳に悪いことをしてしまったと思わざるを得ない。
 二人きりの今のうちに話しておかないと、また後回しにしてしまうかも知れない——それはやはり避けたい。しかし、どう切り出したものか。
 お互い無言の状態が続くうち、目的の売店に到着した。学内の状況を反映して多くの品物が売り切れで、リストの半分ぐらいは買えなかった。どうしようかと考え、大学近辺のコンビニを回ってみることにする。
 ……先ほどから、完全に行き先のことしか口にしていない。ひょっとしたら里佳の方から話を振ってくれるかも、などと消極的に逃げている自分を、今さらながら自覚した。
 ——言わなくては。
 「……あの、さ。望月」
 学生会館近くの門から学外に出たところで、ようやく柊はそう切り出した。
 「なに?」
 聞き返した里佳の声は思ったよりも平静だった。そのことに安堵しつつ、話を始める。




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【4】-12:大学祭2日前

 走って走って、大学図書館の前を通り過ぎ、講義棟の一角とは反対側の庭園の中へ入って、ようやく足を止めた。幸い、ここも人の姿はない。
 やや遅れて、彩乃が後ろから駆け込んでくる。
 お互いに、呼吸を整えるため傍らのベンチに腰を下ろし、しばらく無言でいた。
 かなり息が落ち着いた頃、
 「ちょっと、なお——」
 彩乃がいくぶん非難するように言いかけたが、こちらを見てすぐに口を閉ざした。その表情で、奈央子は自分が泣いていることに気づいた。
 勝手に涙があふれてきて、何度ぬぐってもきりがない。奈央子のそんな様子に、彩乃は一転して心配そうな口調で尋ねる。
 「……ねえ、どうしたの。もしかして羽村の言ったこと、嘘だと思った?」
 しばし考えたのち、奈央子は泣きながら首を振った。しかし「じゃ、信じてあげるの」という彩乃の言葉にも、同じように横に振る。
 「——だったら、どうしたいの、奈央子は」
 彩乃の声は戸惑っていた。それを当たり前だと思いながらも、奈央子はただ首を振り続けた。
 「……わかんない。もう全然わかんないの」
 頭の中がぐちゃぐちゃで、何をどう考えたらいいのか、全くわからなかった。

 明後日からの、土日を含めた4日間が、いよいよ大学祭本番である。何かしらの催しに携わる学生は皆、講義の合間を縫っての準備に追われていた。
 柊の所属サークルも例外ではない。今日は午後から、屋台や器具のレンタル・食材販売などの業者が学内に出入りしている。事前に大学の担当を通じて各団体の必要数は発注済みで、それらの搬入・受け渡しが、学生会館前の広場で行われていた。
 早くに引き取りを終えたところは、各所で早々に屋台の設置にかかっている。柊のサークルは、3時限目に体の空いてる人間が少なかったこともあり、多数の団体に混じって必要な物を引き取り終えたのは、4時限目の時間を半ば過ぎた頃だった。
 屋台用の鉄のポールやテントは大きい上にかなり重い。加えて、サークルが出店場所として割り振られたのは、正門の近くである。来客がよく通る場所ではあるだろうが、重くかさばる物を持って行き来するには、学生会館からの距離が少々長かった。
 全て運ぶために、柊はサークルの仲間2名と受け渡し場所との間を何度も往復し、そのたびに長い列に並び、時間と気力をかなり消費した。ようやく終わった頃にはへとへとで、しばらく地面に座り込んでしまった。
 ふと周囲を見ると、4時限目が空き時間らしい学生が数名集まっていて、荷解きを始めている。運んできた品物や数量に間違いがないかを確認しているらしい。




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