第6章・5

 3月の初め、茉莉ちゃんは会社を辞めた。
 より正確に言うなら、引越し予定先の近くにある関連会社に、出向という形での勤務が認められた。どうしても茉莉ちゃんを手放したくなかったらしい上の人たちが、便宜を図ってくれたようだ。
 さらに半月後、籍を入れてから間を置かず、二人は転勤先へと越していった。空がどこまでも青く澄んだ、よく晴れた日に。
 夏にでも遊びにいらっしゃいね、と別れ際に茉莉ちゃんは言ったけれど、十中八九行くことはないだろう。夏にもその先にも。
 自分から、二人に会いに行くつもりはなかった。少なくとも当分の間は。

 茉莉ちゃんと先生が不在の日々は、思っていた以上に穏やかに、そしてこれまでと同じように過ぎていく。
 違うのは、二人が身近にいないことだけ。
 両親にもほとんど変わりはないけれど、心なしか先生や、そしてわたしに対する言葉や態度のトゲは減ったような気もする。家で3人になってからあまり会話をしていないとも言えるけれど、口にしなくなっただけでも、あの人たちにしてみれば珍しい変化だった。
 茉莉ちゃんが遠くへ行ったことで、ある意味気持ちが切り替わったというか、折り合いをつけられる部分が、あの人たちなりに増えたのかも知れない。
 それはそれで良い変化だと思う。
 ほんの少しであっても、両親が二人のことを、表面上だけでなく認めるようになってくれたのなら、その方がいいに決まっているから。

 その年の間、二人に会うことはなかった。電話は茉莉ちゃんからよくかかってきたけれど、そのたび「忙しくてまとまった休みが取れない」と言っていた。結婚式さえ翌年に先延ばしになるほどに。
 先生とは、電話でもいっさい話さなかった。
 次に話をする、顔を見るのはおそらく、茉莉ちゃんが里帰りする時。まだしばらくは帰れそうにないらしいから、そうなる頃にはもしかしたら、子供が生まれる予定が追加されているかもしれない。
 それだけ時間が経っていれば——そのぐらい大きな変化が起こった後なら、たぶん、なんとか普通に会うこともできるだろうと思う。

 区切りはつけられても、当然だけれど、忘れてしまえるわけではない。今までの想いも、これまでの出来事も。
 目を閉じればいつでも、今はまだ何もかも鮮やかに、まぶたの裏に浮かべることができる。
 それら全部に対して、もっと冷静でいられるようになりたい。悲しさやせつなさが生々しい時もある今だから、強くそう思う。
 わたしにはもう何のこだわりもないと、誰が見ても……先生にさえ思わせるぐらいの態度で会えるようになりたいと、心から願っている。
 どんな関係になっても、絶対に手の届かない存在であっても、二人が大切な人たちであることに変わりはないのだから。

 最近、晴れている日は、必ず空を見上げている。
 遠くの空の下にいる、二人のことを思いながら。
 そうやって青い空を見ていると、時々、ふいに涙が出そうになってしまう。
 そんな時はまぶしいからだと自分に言い訳して、わたしは目を閉じるのだった。湧き上がった感情と思い出が、心の底に沈んでいくまで。


                             —終—  

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第6章・4

 ……一度だけ、見送りに出た際に茉莉ちゃんが先に家に入って、二人きりになったことはある。その時、先生は、玄関の奥を窺ってからわたしを見て、なんともいえない表情をした。何か言おうと口を開きかけたのをさえぎるように、わたしは笑ってみせた。自分にできる最高の笑顔のつもりで。
 『茉莉ちゃんをよろしくね、お義兄さん』
 声を震わせることも笑顔を引きつらせることもなく、言えたはずだ。理子ちゃん、とつぶやいた後の沈黙に、先生が何を考えていたのか——たぶん「ごめん」と「わかった」のどちらを言うべきか悩んでいたのだろう。
 けれど結局どちらの言葉も続くことはなく、なお笑顔を保っていたわたしの目を見て、うなずくにとどまった。そして、すごく努力して感情を抑えた、というような声で『……元気で』と言った。
 『うん、先生も。——今までありがとう』
 向こうでの生活が落ち着くまで式はしないことになっていたし、その日は、両親が根負けして意見を曲げた日でもあった。だから当分会うことはないだろうと思ったら、自然に最後の言葉が出てきた。
 先生は表情を一瞬歪めたけれど、何も言わなかった。そのまま手を振って、別れた。
 全く傷つかなかったわけではないし、悲しくなかったわけでもない。けれど、わたしは今でも本当に後悔してはいなかった。自分の気持ちを先生にぶつけたことも、その結果も——悪いことをしたのはむしろ、わたしの方だ。
 先生はこの先当分、あのことを引きずるかもしれない。だからせめてわたしは、平気な顔をし続けなくちゃいけない。
 平気だと思えるようにならなければいけない。
 でなければ、先生を好きになったこと、ひいては出会ったことまで、いつか恨むようになるかもしれない。それだけは絶対に嫌だから。
 先生に出会ってからの6年を、否定する自分にはなりたくなかった。好きになってはもらえなかったけれど、先生を好きでいたことで、確かに幸せな時もあったのだから。
 話が終わって、しばらくはお互い沈黙していた。
 ふと気づくと次の講義の時間が迫っていたので、会計を済ませて急ぎ足で出る。図書館を出て講義棟へと向かう途中、ふいに振り向いた亜紀がぽつりと言った。かすかな微笑みとともに。
 「がんばったね」
 すとんと、胸にその言葉が落ちた時、目頭が一瞬熱くなった。
 「……うん」
 短くうなずきながら、すべり落ちた一粒の涙を、見られないように素早くぬぐった。

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第6章・3

 『そういうわけじゃないんだけど……今は』
 嘘にならないようにと思って言いよどんだのを、茉莉ちゃんはどう解釈したのかわからないけれど、ともあれ納得した様子でうなずいた。
 『なんとか、都合つけるようにするわ。何日がいいの?』
 向こうに確認してみると答えて、先生にメールを打った。最後に会った日以来、一度も連絡は取っていなかった。正確に言えば、先生の方からはメールや留守電が何度か入っていた。わたしが返信もかけ直しもしていなかったのだ。
 〈——理子ちゃんに悪いことをしたから、きちんと謝りたい〉
 毎回書かれている、あるいは言っているその一文を、わたしは毎回冷静に受け止め、そして聞き流している。一瞬だけ指先を針で刺すような痛みを感じはするけれど、それだけだ。
 あの時の呼び間違いに気づいたのか、2ヶ月弱の逢瀬自体を指して言っているのかはわからない。でももう、どちらであろうと同じ、謝られる必要も感じないことだった。わたしにとっては。
 だから、返事をしようとも思わなかった。それがよほど気になっていたのだろう、夜遅くだったけれど先生からの返事はすぐに来た。
 明日の夜8時以降なら何時でも、というのをわたしはそのまま茉莉ちゃんに伝えた。ちょっと困っていたようだけど、急用ができたからと早めに抜けさせてもらうようにすると、茉莉ちゃんにしては珍しいことを言った。
 そしてその翌日——クリスマスイブの夜、期せずして会った二人がどんな話をしたのかは知らない。けれど、今度こそ結論を出したのは確かだった。
 次の週末、前触れなく家に来た先生と茉莉ちゃんは、そろって両親に言ったのだ。結婚して、先生の転勤先に二人で行くと。
 私ももちろんその場にいたから、両親の驚きや動揺がどれほどのものだったか知っている。我に返った後、両親が(特に母親が)言葉を尽くして思いとどまらせようとし、それが叶わないとわかると言葉の限りに先生を非難したことも。
 その時ばかりは先生も譲らなかった。茉莉ちゃんに負けず劣らずの意志の固さを見せて、年をまたいでのやり取りの末、ついに両親を押し切り、今後のことを認めさせた。
 つまり、何度か家に来たわけだけれど、わたしはほとんど先生と口をきいていない。話のメインは両親の説得だったし、わたしはお茶を替えたりするのを口実に、意識的にその場に長居はしないようにしていた。

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第6章・2

 とっくにわかっていたことをもう一度、これ以上ないほどはっきりした形で突きつけられて、そのことにあんなにショックを受けるなんて。
 ずっと大きな勘違いをしていたのだとあの時まで気づけなかった、その事実が。
 わたしと先生は同じだと思っていた。
 茉莉ちゃんという完璧な存在に憧れながら、身近にいすぎるせいで苦しんでいる、いわば同志だと。
 ……それは、ある意味では正しいけれど、全面的に正解ではなかったのだ。
 わたしと先生では最初から立場が違う。どんなに似た感情を抱えているとしても、同じ位置にいるわけではない。
 いられるはずがなかったのに、勘違いをした。
 そのしっぺ返しは、ある意味で予想通りだったけれど、予想以上に大きなショックでもあった。
 でもそれは相応の罰なのだろう。自分勝手な衝動——茉莉ちゃんに対する妬みと苛立ちに、大事な人を巻き込んだことに対しての。
 だから、わたしは償いをしなければならない。
 あの日曜の翌日、帰ってきた茉莉ちゃんの口からクリスマスには会わないと聞いてすぐ、実行に移した。転勤の話が出て以来数えるほどしか会っていない二人がいまだ結論を出していないこと、というよりも先延ばしにしているだけなのを、とっくに気づいてもいた。少なくとも茉莉ちゃんはそうだった。意外だけれど、クリスマスさえ仕事を口実に会わないでいるなんて、いよいよそうとしか思えない。
 『じゃあ、いつでもいいから近々わたしに付き合ってくれない? 会わせたい人がいるから』
 と言うと、茉莉ちゃんは目を丸くした。それからにっこり笑って『彼氏?』と尋ねた。
 ——本当は何か気づくことがあったのではないかと、その時思った。
 茉莉ちゃんは性善説を体現しているような人だけれど、決して鈍いわけではない。会う回数が限られていても、先生がずっと不自然でなくいられたとは思えないし、そこに気づかずにいたとも思えない。
 そうだとしても、絶対に、口には出しはしないだろう。今。この時でも完璧な、妹思いの姉としての微笑みを浮かべている茉莉ちゃんだから。
 そして、わたしも一生打ち明けるつもりはない。茉莉ちゃんに面と向かって聞かれたとしても。わたしから知っているのかと聞くのは自分が楽になるための手段でしかないし、もし本当に気づいていないのなら、わざわざ悩ませるのも本意ではないから。
 わたしにできることはただひとつ。茉莉ちゃんと先生のこれからを見届けること。
 別れてほしいとは思っていない。だから、ちゃんと二人で話をしてほしかった。わたしとの約束であれば茉莉ちゃんはきっと来るはず。そこに、先生を呼び出せばいい。

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第6章・1

 後期試験が近づいてきた1月中旬、携帯に亜紀からのメールが届いた。
 先生とのことを看破されたあの日以来、大学で顔は合わせていたし話も普通にしていたけれど、気まずさやぎこちなさはどうしても付きまとっていた。だから大学の外でのやり取り、たとえばメールなどは、かなり減ってしまっていたのだ。1通も送受信しない日も結構あった。
 亜紀から送ってくるのは3日、いや4日ぶりだろうか。試験期間前に提出するレポートの進み具合はどうか、という内容だった。
 期限まで1週間ちょっとしかないのだけれど、まだ資料探しすらしていない。……年末からこちら、そうする気分の余裕はなかったから。
 携帯の画面を見つめて、気づけば30分近く考え込んでいた。意を決して返信を打つと、さらに15分ほど経ってから、また亜紀から届く。
 『わかった。あたしもまだ全然やってないし。明日の午前中でいける?』
 OKだと再返信して、携帯を閉じる。
 もしレポートできていないなら大学図書館で資料を探そう、と最初に返信したのである。
 そうやって何かを一緒に、というのは実に1月半ぶりだった。あれ以来、大学では普通にふるまうようにしていたけれど、講義の後や休みにどこかへ行こう、といった話はお互い口にしなくなっていた。
 亜紀がそうだったのは、どうせ断られると思ってか、わたしへの反感のためか。両方かも知れない。そしてわたしの理由は言うまでもない。
 だから、久々に約束して会うことに不安はあったものの、断られなかったことに安心する気持ちも大きかった。原因が原因とはいえ、やはり亜紀とこのまま、ぎこちない間柄になってしまうのは避けたかったから。
 ……だからといって、自分から歩み寄る勇気も、情けないけれどこれまで出せずにいた。今やっと、修復するための段取りをつけることができたのだ。
 亜紀には、ちゃんと釈明をしなくちゃいけない。あれきり何も、先生とのことについては言及してこなかったけれど、どういう思いを持っていたとしても、心配もしていたはずだから。
 翌日の空は、わたしの心の中を表すように曇っていた。たまに晴れ間がのぞく程度で、雲の灰色は少し重い。
 会って最初の1時間ほどは所期の目的、資料探しに二人とも集中した。時期が時期だけに、検索して目ぼしいものを見つけても貸出中のパターンが多かったのだ。
 なんとか、引用とまぜこぜで規定枚数を書けるかなと目途がついたあたりで、ひと休みついでに図書館内のカフェに入った。
 土曜の午前中だから、ガラガラではないものの、店内は結構空いている。両隣が空いているテーブルを、お互い相談なしに自然に選んでいた。
 注文して、店員さんが離れていってすぐ、わたしは息を吸い込んで言った。ただし声は小さめで。
 「——ごめんね」
 テーブルに視線を落としていた亜紀が、目を上げてこちらを見る。話の続きを促すように無言で。
 「ちゃんと、正直に言えなくて……先生とのこと。心配してくれたのにごまかすみたいなこと言って」
 目をそらさずに言うと、しばらく見返してから、亜紀は小さく息をついた。
 「それで? 今はどうなの」
 責めたり追及したりする強い調子ではない、あくまでも静かな声。わたしは一度、自分で確認するようにうなずいてから、
 「うん、……もうやめた。会ってない」
 はっきりと口にすると、しばしの無言の後、亜紀も「そう」とうなずいた。
 「踏ん切りついた、ってことかな」
 「そうだね。……そうするしかないって、よくわかったから。今さらだけど」
 本当に、今さらすぎて自分でも呆れるぐらいだ。

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第5章・6

 「あのお店、見てみたい。いい?」
 気づくとそう口にしていた。今まで、食事やお茶をおごってもらう以外、祐太さんに何かねだったりしたことはなかった。けれどその時のわたしは、浮かれるあまりに大胆になっていて、祐太さんがうなずいた瞬間、腕にしがみついてしまったほどだ。
 店の中は予想以上に混んでいた。出店後の最初のクリスマスシーズンだからかも知れない。映画館以上に、お客のカップル率も高いような気がする。
 その中に祐太さんと二人でいることを再認識し、わたしはますます有頂天になっていた。ショーケースを見るためにしばらく並ぶ羽目になっても、全然気にならなかった。長くかかればかかるほど、恋人同士でいられる。
 他愛ない会話で時間をつぶしているうちに、順番が回ってきた。ショーケースの中では、明るすぎる照明のせいもあって、たくさんのジュエリーがまぶしいほどに光っている。色とりどりの宝石とそれらで作られたアクセサリーは、見ているだけで夢見心地にさせてくれるものだなと思う。
 でもこのへんのは石が大きいから高そうだな、と値札を見たら案の定、最低6桁の世界だった。祐太さんも目を丸くしている。見回して、混雑の中なんとか1メートル半ほど横に移動し、値段が1桁下のコーナーにたどり着く。祐太さんを見ると、ちょっとバツの悪そうな表情をしつつも、いくらかほっとした様子だった。そして、わたしに尋ねた。
 「どうしようか。この中でほしい物ある? 茉莉さん」

 その瞬間、氷水を浴びせられた感覚が、全身に広がった。

 とても気軽な、自然な口調。
 大きい声ではなかったから、どうかすると周りの喧騒にかき消されそうだった。けれどわたしの耳にははっきりと届き、皮肉なほどよく響いたのだ。
 血が一気に足元まで下がった気分で店を出た後、どうしたのかよく思い出せない。
 祐太さん——先生が慌てて追いかけてきたことは覚えている。何も言わずにショーケースの前を離れてしまったし、たぶん、その時は青い顔をしていただろうと思う。
 「どうかした?」と聞いてくる表情は確かに気遣わしげだったけれど、自分がさっき何を言ったかについては、気づいているふうではなかった。
 ……きっと、本当にわかっていないのだ。
 それに間違いないと思った途端、先生の顔を見るのも一緒にいるのも、これ以上は耐えられなくなった。
 「——ちょっと、気分悪くなっちゃって」
 「そうか、人多かったからね。どこかで休む?」
 「ううん、今日はもう帰る」
 「じゃあ送っていくよ、顔色良くないから一人じゃ危な——」
 「大丈夫だから!」
 思わず声を荒らげたわたしを、先生は意外なものに出会ったような目で見た。それで頭が冷えた。
 「ごめんなさい。……ほんとに、一人で大丈夫だから、ここで。それじゃ」
 「あ、うん」
 気をつけて、と続いただろう先生の言葉を、最後まで聞かずに背を向ける。
 とにかく早く遠ざかりたくて、慣れないヒールの高い靴で、できるだけ早足で歩いた。
 周りの、そして今日の出来事の全てが、波が引くように一気にわたしから遠くなっていった。

 最初からわかっていた。
 代わりでいいと自分から言ったし、本当の意味で忘れた時は一瞬もなかったつもりだ。
 それでも、幻想でも錯覚でも、せめて会っている間だけは、違うのだと思っていたかった。だから、懸命に直視しないようにしていた。
 けれど、やっぱり無理なのだ。
 目をそらしても、目をつぶっても、真実は決して消えない。

 電車の窓ガラスに映る顔は、自分でも意外なほど——嫌になるほど、茉莉ちゃんによく似ていた。

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第5章・5

 駅からほど近いシネマコンプレックスは、外まで列が延びるほどに混んでいた。多くはたぶん、一昨日から公開の映画を目当てに来た人たちだろう。
 確実に混んでいるとわかっていて、それを観に行くことを選んだ。人が多い方が、二人でいても逆に目立たないと思ったから。
 けれど、気にする必要はなかったかも知れない。そう思うぐらいに、誰も周りを気にしていないように見えた。列に並ぶ人々のほとんどは、見るからにカップルらしい二人連れ。当然と言えば当然で、ベストセラーになった恋愛小説原作の映画を今日観に来るのは、十中八九、恋人同士に違いないだろう。
 ……その日は、本当に付き合っているのだと錯覚するぐらいに楽しかった。人混みがすごいのをいいことに腕を組んでも、しがみついて顔をすり寄せても、祐太さんは一度も苦い表情や辛そうな目を見せなかった。それどころか、客席の階段を下りる時には、自分から手をつないでくれさえした。
 後から考えれば、全てのことをもっと変だと思うべきだったのだ。何の理由もなく祐太さんが、そんなふうに振舞えるわけがなかったのだから。けれどその時のわたしは、ただ嬉しくて楽しくて、冷静に考えるための落ち着きを、家に置き忘れてきたかのようにはしゃいでいた。
 映画を観て、食事をして、腕を組んで街を歩く。そんな恋人同士の普通のデートを、祐太さんを相手に何度も、繰り返し夢見てきた。真実でないとわかっていてそれでも、かりそめの幸せに溺れていた。
 ……でも、夢はいつかは覚める。だからこそ、夢見ているうちが幸せなのだ。
 それを思い知らされたのは、他ならぬ祐太さんによって。5時間ちょっとで夢は覚めた。

 クリスマスが近いから今日プレゼント買おうか、と言われた瞬間のわたしは、間違いなく世界で一番幸せだったと思う。本当に、みっともないほどに浮かれて、嬉しさが抑えられなかった。
 「何がいい?」
 「え、どうしよう」
 と、少しの間迷うそぶりをしてみたけど、本当はなんでもよかった。だから結局は素直に「祐太さんが選んでくれたものでいい」と答え——ようとした時、ある店が目に入った。
 確か今年の春、日本に初出店したアメリカのジュエリーショップで、ひと頃はしょっちゅうニュースで取り上げられていた。高いものはかなりの値段だけど、数万円単位の商品もあるんじゃないかと思う。ちょっと前に大学の友達が、彼氏にもらったと話していたはずだから。

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第5章・4

 クリスマス直前の日曜、その日も先生と会う約束をしていた。茉莉ちゃんが上司の出張に同行して、週末はいないことを知っていたから。
 当日はさすがに二人で会うだろうけど、それより先に、わたしが一緒にクリスマスを過ごせるのだと思うと、みっともないぐらい心が浮き足立った。
 昼間から会うことも初めてだったから、勢いで、普段は適当な化粧を念入りにした。服も、持っている中で一番大人っぽいものを選んでみた。大学の帰りに会うのがほとんどで、カジュアルな服装しか先生に見せたことがないから、ちょっとびっくりさせたかったのだ。
 そうして、今までになく気合いを入れて装ってみた鏡の中のわたしは、自分で言うのも何だけど、普段の5割増しは綺麗に見えた。努力の結果に満足して、笑みがこみ上げてくる。
 今のわたしなら茉莉ちゃんにも引けを取らない、そんな自信まで持てそうなほどだ。
 意気揚々と、わたしは家を飛び出した。「行ってきまーす」と言った時に両親が妙な目をして見ていたけど、気にならなかった。
 いつもの待ち合わせ場所、ターミナルの駅前広場は、いつも以上に人口密度が高い。誰かを待つ人や行き交う人の波の中、自分の約束の相手がどこにいるのか探すのは少々骨が折れる。しばらく見回してようやく、斜め左方向にあるベンチの横に立つ先生を見つけた。
 わたしの呼びかけに振り向いた先生は、こちらを見るなり、目を大きく見開いた。近づいてからもなお、まじまじとわたしの顔を見ている。
 「……顔に何かついてる?」
 「え、……いや違うよ、ちょっとびっくりして。綺麗で、見違えた」
 夢から覚め切っていないような、少しぼんやりした口調で言われた言葉に、わたしは舞い上がった。先生にそう言ってもらえただけで、今日の自分が誰よりも美人でいる、そんな気分になれる。
 「ほんとに? ありがとう。祐太さん」
 とびきりの笑顔でそう言うと、先生はまた目を見張った。けれど今度はすぐに、同じように笑いながらうなずいてくれた。
 特別な季節だから、今日ぐらいは「先生」でなく名前で呼んでみたい。先生——祐太さんもきっと、それを望んでいるに違いないから。そう思った。
 その日の祐太さんがいつになく機嫌が良くて楽しそうだったのを、わたしはずっと後まで忘れられないことになる。

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第5章・3

 「理子(まさこ)、最近誰と会ってるの?」と亜紀に聞かれたのは、本当に唐突だった。
 ずいぶん寒くなった、12月のある日。
 この1ヶ月と少しの間、何度か、講義が終わった後の亜紀の誘いを「寄る所があるから」と断ってはいた。
 けれど、それまで一言も、誰かに会うというようなことは言っていない。……祐太先生に関することだから、亜紀だから何か察するものがあった、と言えるかも知れない。
 「何いきなり。なんの話?」
 とりあえず、とぼけてはみたけれど、亜紀の真剣な表情は変わらない。怖くなるような目つきでわたしを見ている。
 「真面目に聞いてるの。寄る所があるって言う時、変にそわそわしてるじゃない。——人と会う約束があるからなんでしょ。女友達じゃないわよね。だったらそう言うはずだもの」
 亜紀の視線の強さに追い詰められた気分を覚えながらも、わたしはなんとか目をそらさずにいた。感づかれているのだとしても、自分から白状するような真似は避けたい。
 「……『先生』なんでしょ、相手」
 その重い声音で、今までのような気軽な会い方だとは思っていないとすぐわかった。やっぱり、このことに関しては彼女は鋭い。
 だからと言って、自分から認めはしないけれど。
 ——認められるわけがないけれど。
 「違うよ、全然」と言ったけど、当然、亜紀はかけらも信じていない顔だった。
 「茉莉絵さんと別れたわけじゃないんでしょう? 何してるの、あんたも『先生』も」
 「………だから、違うって」
 「ねえ理子」と、その声は一転して優しく、同時にひどく辛そうにわたしの耳に響く。
 「気持ちは、わからないでもないけど——でも、そんなことして一番傷つくのは、結局自分なんだよ。わかってるの」
 苦いとわかっているものをあらためて、無理やり飲み込まされた気分になる。
 結果的に肯定になるとわかっていても、ため息をつくことでしか答えを返しようがなかった。

 言われるまでもなく、最初からわかっている。
 長続きするはずがないことも、——関係をすっぱり断ち切ったとしても、今さら以前のようにはもう戻れないことも。
 それでもいいと、わたし自身は覚悟して言った。だから今でも、その意味で後悔はしていない。
 けれど先生はきっと……いや確実に違う。
 初めのうちこそ、わたしに引きずられての高揚感もあっただろうけど、性格からして後悔せずにいられるわけがないのだ。実際、後ろめたさや罪悪感を絶えず抱えているのを、会うたびに、そして日にちが経てば経つほど察しないわけにはいかなかった。
 それでも、会ってくれるうちは会い続けたかった——自分から終わらせたくはなかった。

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第5章・2

 「おかえり」
 その夜、帰ったら茉莉ちゃんに出迎えられて、驚いた。この春就職してからは一度もないことだったし、状況が状況だったから。
 「……あ、帰ってたんだ。もっと遅くなるんじゃなかったの」
 「まあちゃん、今何時だと思ってるの。十時よ?」
 「でも、もっと遅い時だってしょっちゅうあるじゃない」
 言いながら、家の近くまで送ってもらわなくてよかったと思った。もっとも、こうなる前ならともかく、それ以降はいつも駅で別れているけど。
 「デートだったの?」
 心臓が一度、跳ね上がった。でも顔には出さず、そ知らぬふりでいられたと思う。
 「どうして?」
 「だって最近、まあちゃん楽しそうだから」
 と言われて湧き上がってきたのは後ろめたさと、同じぐらいの割合で、意地の悪い嬉しさ。相反する感情は、今この場では後者の方が勝った。
 抑えられない笑みとともに「そうかな」と言う。
 「そうよ。それに、なんだか綺麗になったし」
 不意を突かれた気分で、ちょっと沈黙してしまった。
 「……茉莉ちゃんに言われても誉められてる気がしないなー」
 「何言ってるの。まあちゃんは充分可愛いわよ、子供の時からね」
 全く嘘の感じられない口調と、やわらかい笑み。その時になって急に、後ろめたさが心の中で優勢に転じた。茉莉ちゃんの顔を見ていられなくて、目をそらす。それに気づいて律儀に「どうしたの?」と聞いてくる、何の疑いも持っていない声。
 「なんでもない。明日1限からだから寝るね、おやすみ」
 「え、ちょっとまあちゃん」
 お風呂は、と追いかけてくる声に「早起きして入る」と振り向かないまま返し、2階へ駆け上がる。
 部屋のドアを閉めて、大きく息をついた。
 つい1時間前まで、わたしと先生が裏切っていたなんて、露ほども考えていない綺麗な顔——清らかすぎて、わたしが見ても愚かに思えるほどに。
 それでいて、見ているとその清らかさに、罪悪感をかきたてられずにはいられない。

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