第1章・1

 例えば絶対に勝ち目のない勝負を突きつけられた時——最初からあきらめるか、それでも挑むか。
 人それぞれ、もしくは時と場合によるかも知れない。けれど、たいていの人はきっと、あきらめてしまうだろうと思う。
 ……あの時、わたしもそうしたはずだった。


 「まさこー、待って待って」
 入学式が終わり、講堂を出たところで聞こえた声に足を止め、振り返る。高校からの友達で、大学でも同じ学科に入った亜紀(あき)が息せき切って走り寄り、横に並んだ。
 「ねえ、この後のオリエンテーションどこだっけ。一緒に行こうよ」
 「えーっと、3号館て書いてたから、あっちじゃない? 歩道渡ってすぐのとこ」
 「ああ、あれか。だるいなあ、早く終わんないかなあ。終わったら帰りどっか寄ろうよ」
 「お母さんはいいの?」
 「先に帰ってもらうことにしたから問題なし。理子(まさこ)こそ——あ、いや」
 途端に笑顔がかき消えるのを見て、苦笑する。
 「うちは来てないから。遅くならなきゃ、帰る時間も気にしないと思う」
 「……まだ、認めてくれてないわけ?」
 「未練はあるかもしれないけど、さすがにもうあきらめてるでしょ。でなきゃ入学費払ってくれないって」
 「けど、ここだって別に、偏差値低くないじゃん」
 「ま、しょうがないよ、うちは茉莉(まり)ちゃんが基準だからさ」
 あくまでも軽く言ったのだけど、亜紀は納得のいかない表情をした。わたし自身、100パーセント納得しているわけではないから、彼女が言いたいことはわかる。
 だけど、しょうがないと割り切れば、それなりに気持ちの折り合いはつけられるものだ。物心ついて以来、ずっとそうしてきたのだから。
 亜紀も、短い付き合いではないから、わたしがどう考えているかは当然知っている。にもかかわらずいまだに、この話題が出るとこんな顔をする。わたしが割り切っている部分を、代わりに引き受けているかのように。
 いい友達だと思う。
 「茉莉絵(まりえ)さんね……」
 呟くように言って、亜紀はため息をついた。歩きながら、しばらく沈黙が続く。
 今日、4月最初の月曜日はエイプリルフール、つまり1日。たいていの大学は入学式、会社なら入社式の当日だろう。
 5歳上の姉が今年入った会社も、例外ではない。
 大手の外資系企業の、秘書室勤務になった彼女を祝うため、両親は親戚を巻き込んで、今日は朝から準備に追われている。
 我が家において、わたしの大学入学は重大事ではないのだ。受かった時も「あら、そう」という感じで、一番マシな反応が「浪人生にならなくてよかった」といったものだった。
 両親にとって、現役合格は当たり前以前のこと。
 望んでいたのは、最低でも、姉と同じ大学に入ることだった。
 もし、そうなっていたら、両親はどんな反応をしていたのだろう。考えてもしかたないとわかりきっているけど、それでも考えてしまうことはたまにある。
 視線を感じて振り向くと、亜紀がじっとこちらを見ていた。何かを言いたいけど、あえて言わずにいる。そういう目で。
 何を言いたいのかはわかっている。だから代わりに、わざと口に出した。
 「できすぎた姉がいると大変なのよねえ」
 途端に、亜紀は痛みをこらえる表情をする。彼女がそんな顔をする必要はこれっぽちもないのに。
 本当に、いい友達なのだ。

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第1章・2

 茉莉ちゃんがすごいのは、誰が見ても確かだ。
 小学生の頃からずっと一番の成績で、塾も家庭教師も必要とせず、難関国立の法学部に現役で合格した。途中で1年、イギリスへ留学するために休学しながら、卒業前に司法試験に合格した。最終的には司法関係の進路は選ばず秘書になったけど、留学を終えて帰国した後、英語とフランス語の通訳の資格も取得している。
 それだけ優秀でも、一度だって自慢げに振舞ったことはなくて。おまけに、大学のミスコンで2年連続優勝するぐらいの美人で……どうしたって、わたしが敵う相手じゃない。
 嫌いなのではない。
 むしろ、好きだし、いい姉だとも思っている。
 いつだって茉莉ちゃんは人の注目の中心だった。それでいて、わたしに対しては、家族の誰よりも気を遣って接してくれていた。——だからこそ時折、突き放して考えることが難しくなる。
 亜紀が時々複雑な表情をするのは、わたしのそういった、微妙な想いを感じ取っているからだろう。
 ……そうだと気づかされるのは、少しつらい。

 5月最初の土曜日は、4連休の初日。今年のゴールデンウィークの海外渡航者は過去最多とニュースでは言っていたけど、とてもそうは思えないほど、市街地は人が多かった。
 このあたりで一番大きい映画館もものすごく混んでいて(昨日から洋画の超話題作が公開されているせいもあっただろう)、上映1回分は待たされる羽目になった。おまけに目当ての映画はあまり面白いと思えなくて、一緒に観た子とお茶しながら気が済むまでこきおろし、別れてきたところである。
 駅へ向かう道を歩いてはいるけど、まだ帰りたい気分ではなかった。どうせ家には誰もいない。両親は旅行に出かけているし、茉莉ちゃんは……
 その時、大通りの先の信号を渡る人が目に留まった。知った顔だったのだ。
 人混みを大急ぎで走り抜け、声が届きそうな距離まで追いついたところで、その人を呼ぶ。
 「祐太(ゆうた)先生!」

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第1章・3

 相手は心持ちうつむかせていた顔をぱっと上げ、きょろきょろと見回した後、すぐ後ろまで来ていたわたしにやっと気づいた。
 「……ああ、理子ちゃんか、びっくりした」
 言いながら、何度もまばたきを繰り返す。本当に驚いた顔をしているのは、何か考え事でもしていたせいなのか。呼び止める直前の先生の顔は、やけにぼんやりしているように見えた。
 だいたい、祐太先生と呼ぶのはわたしぐらいしかいないと、普段ならすぐわかるはずなのに。
 そこで、歩道の真ん中に立ち止まっていることに気づき、2人同時に脇に寄る。
 相変わらず、見上げるほどに背が高い。最後に聞いた時は187センチと言っていた。いまだ160センチに足りないわたしでは、間近で向かい合っていると正直、首が痛くなってしまう。初めて会った時からそれは変わらない。
 尾上(おのえ)祐太先生は、わたしの元家庭教師だ。中2からの2年間、受験の直前までお世話になった。
 その後も時々顔を合わせているのは、高校も大学も祐太先生の母校だったから、という理由だけではない。
 「先生、今日仕事だったの?」
 スーツ姿だからと思って聞いてみる。道で立ちっぱなしもなんだからと、近くのベーカリーカフェに移動した後のことだ。先生はうなずいた。
 「明け一番に得意先に持ってかなきゃいけない件があってね。どうにか終わったから、明日からは休めるんだけど」
 「そうなんだ。大変だねー営業マンて」
 「理子ちゃんは、買い物にでも来てたの」
 「ううん、友達と映画。『————』の最新作観に行ったんだけどね」
 と、洋画の超話題作のタイトルを挙げる。
 「ああ、もう観たんだ。どうだった?」
 祐太先生がそう聞いたので、わたしは、つい15分前まで友達とさんざん愚痴っていた内容を繰り返し始めた。
 「それがねえ、なんかすごく期待はずれで。監督が前の人と違っちゃったせいなのかな、キャラ設定とか全体の雰囲気もだいぶ変わっちゃってて、あちこち違和感ありまくりで、面白いと思いようがなかったの。それにね——」
 わたしが勢いよくまくしたてた感想に、祐太先生は目を丸くしつつも笑った。
 「そっか。会社の奴が観に行きたいって言ってたけど、やめとけって言ってやる方がいいかな」
 「うん、前のが好きな人にはおすすめしない。あえて前を比べてみたいって意見なら別だけど」
 そう言っとく、と先生が請け負ったところで話が途切れ、1分ほど、自分のチョコクロワッサンとアイスゆずジュースを減らすことに専念する。
 先生は何も言わない。
 コーヒーをすすりながら目を伏せている様子は、何か考え込んでいるかのようにも見える。カップをテーブルに置いてからも、口を開く気配はない。
 だから、わたしの方から聞くことにした。
 「ねえ先生。茉莉ちゃんには最近会ってる?」
 その途端、祐太先生の眉が動き、口元が引きつったのが見えた——ほんの少し、ほんの一瞬だけ。

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第1章・4

 再びカップを取り上げ、一口飲んでから、
 「いや、4月以降は……先週に約束してたけど急にダメになって」
 軽く言おうとしているけれど、どことなく無理を感じさせる響きがある。
 「ダメになったって、どっちの都合で?」
 「茉莉さんの方。急に入った重役接待にどうしても同行しなきゃいけなくなったからって」
 と言っている間、先生はほとんどわたしと目を合わせない。そうすることが徐々に増えているのに、先生は気づいているだろうか。
 祐太先生と姉が恋人同士になってから、何年経つのか——わたしが中学を卒業する前に二人が付き合い始めたから、丸4年が過ぎたわけだ。
 実は理子ちゃんのお姉さんが好きなんだけど、と先生に打ち明けられた時のことは、今でもはっきり覚えている。あんなにショックで、頭がくらくらして何も考えられなくて、泣き出してしまいそうなのを必死にこらえていた瞬間は、後にも先にもなかったから。
 先生にとってわたしが生徒以上でも以下でもないのは、それより前からわかっていたことだ。彼女がいないことは知っていたから、冗談ぽく「じゃあ、わたしが彼女になってあげようか?」と言ってみたことが何回かある。そのたび先生は、さっきと全く同じように目を丸くしてから笑って「理子ちゃんは可愛いけど、大事な生徒さんだから」と言うばかりだった。
 一度でも本気に取ったことがあるのかないのかはともかく、少なくともわたしと付き合うという選択肢を先生が考えたことがないのは、その表情と声音でよくわかった。
 そして、祐太先生が姉を好きなことも、とっくに気づいていた——初めて二人が顔を合わせた時、先生がどんな目をしていたか、今でもはっきり覚えている。
 いきなり夢の中に飛び込んだような……見ているものを信じられないと思いながらも、それ以外に世界に存在するものがないように見つめる、心ここにあらずの目。
 茉莉ちゃんを初めて見た男の人は、たいてい同じ目をする。ああいうのを一目惚れっていうんだろうなと、それまでにも何度も思ったものだ。
 ただしその時違っていたのは、いつもなら気がつかない素振りで受け流す姉が、びっくりしたように先生の視線を受け止めていたこと。そして、先生に返した、いつもより格段にきれいな笑顔。
 だから最初からわかっていたのだ。けれど、二人とも何も言わなかったから、わたしも気づかないふりをした。いつか現実になると、わかっていても考えたくはなかったから——大好きな先生が、よりによって姉と付き合うなんてことは。
 しょせん意味のない努力、無駄なあがきだった。
 しかたない、先生が幸せならいいとずっと自分に言い聞かせてきて、実際にそう思ってもいた。
 ……なのに、ある日わたしは気づいてしまった。
 いつ頃からそうだったのかはわからない。けれど確かに、先生が茉莉ちゃんに対して、複雑な感情を持っていることに。
 「じゃあ、研修から帰ってきたら、会う約束はしてるの」
 この連休、今日からの3日間、会社の保養施設での新入社員研修に茉莉ちゃんも参加している。
 先生はしばらく首をひねってから、答えた。
 「……わかんないな、かなり忙しそうだから」
 「先生だって忙しいの同じじゃない。一日ぐらい、休みが合う時とかあるでしょ?」
 たたみかけるように言うわたしに、先生が返した笑みは、今度は苦笑いと呼べるもの。
 「ごめんなさい、余計なお世話だったね」
 だからわたしは素直に謝る。
 すると先生は、笑い方をやわらげて言うのだ。
 「理子ちゃんは優しいね、心配してくれてありがとう」
 そう言われて、わたしはいつも笑い返しながら、もうひとりの自分が先生の言葉を否定しているのを感じている。
 ——優しくなんかない。
 二人のことを気にかけてはいる。
 けれど、それ以上に、茉莉ちゃんへのコンプレックスを先生と共有できている事実に、満足感を覚えているのだから。

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第2章・1

 「……あれ、帰ってたの」
 午前1時すぎ。両親はとっくに眠っている。
 「ん、ついさっきね」
 答えながら微笑む顔には、毎日遅くて疲れているはずなのに、そんな様子は微塵も浮かんでいない。
 蛍光灯がひとつ点いただけの台所で、シンクの前にたたずんでいる姿でさえ絵のように見えるのが、茉莉ちゃんという人だった。
 「まあちゃんこそまだ起きてたの。勉強?」
 「レポート書いてた。明日提出だから」
 「そう。難しいところがあったら手伝うけど、大丈夫?」
 もうほとんどできてるから大丈夫、と言ったのだけど、茉莉ちゃんはなおも「大学の方はどう、何か困ってることない?」と聞いてくる。
 当人は、本心から助けになりたくて聞いているつもりで、言われている側からも実際、そんなふうにしか見えない。
 ……嘘がないだけに、わたしには、かえってタチが悪いと思えてしまう時がある。最近は特に。
 「わたしのことより、茉莉ちゃんこそどうなのよ」
 「え、私はなんとかやってるわよ。忙しいけど面白いこともたくさんあるし、みんな親切だし」
 それはそうだろう。姉に親切にせずにいられる人がいたら、連れてきてほしいものだ。これだけ目立ちながら人の反感を買ったことが(少なくとも知る限りでは)ないどころか、老若男女、ことごとくに好かれてしまうのだから。
 「会社じゃなくて、祐太先生のこと」
 と言うと、茉莉ちゃんはきょとんとする。
 「祐太くん?」
 その表情は、これ以上ないぐらいに「それがどうかした?」と言っていて、わたしは内心苛立った。
 「……最近、全然会ってないって聞いたよ。大丈夫なの」
 「あら、まあちゃん会ったの。元気にしてた?」
 目を丸くして、何の含みもなしに尋ねてくる。
 「どうしてわたしに聞くのよ。直接聞けばいいじゃない」
 「聞いてるけど、メールや電話じゃわからないこともあるでしょう。あんたが見てもちゃんと元気だった?」
 迷いながらも、結局わたしは答える。
 「……元気だったよ。そんなに気になるなら、自分で直接確かめたらどうなの」
 と続けると、茉莉ちゃんは、困ったような笑みを口元に浮かべた。憂いの表情を絵に描いたらこんなふうになるだろう、という具合に。
 「そうしたいけど忙しいのよ。だからその分、電話とメールはこまめにしてるつもりなんだけど」
 「忙しいったって、休みが全然ないわけじゃないんでしょ。土日がダメでも平日の夜とかさ、習いごと1回ぐらいさぼったっていいじゃない」
 「そういうわけにはいかないわ。どれも大事なことだし、先生に申し訳ないもの」
 少し語気を強くして言い募るわたしに動じることなく、茉莉ちゃんはあくまでも冷静に答えを返す。
 その口調は、聞き分けのない子供を教え諭すような、静かで柔らかいながらも厳しさを秘めたもの。決して強い調子でも押し付けがましい物言いでもないのに、些細であっても悪いことを言ったのはこちらなのだから反省しなくてはいけない、という気分を起こさせる。
 昔からそんなふうに、自分が正しいと思っていることは、力技をひとつも使わずに相手に納得させてしまえる人。

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第2章・2

 実際、茉莉ちゃんの意見はたいていの場合正論だから、うなずかざるを得ない。けれど多くの人が、言われても不満は持たないだろう。それどころか、自分の主張を変えて本心から同意するようになる。
 ……そういう、外見だけでなく中身も稀有な人。
 「それはそうだけど——うん、サボるってのは言いすぎだけど。4月から全然会ってないんでしょ? いくら連絡はまめにしてても、たまにはちゃんと顔合わせなくちゃ。そりゃ、付き合い長いお二人さんにはそれで充分なのかも知れないけど? でも会わないとわからないこともあるって、茉莉ちゃん自分で言ったじゃない」
 後半は、我ながらかなり皮肉っぽい調子になっていたように思う。が、茉莉ちゃんの方は特に気にする様子もなく、かすかな笑みを浮かべた。
 「そうね」
 と、手にしたコップから水をひと口飲んで、
 「まあちゃんの言うことはもっともだわ」
 納得を深めるように、一度強くうなずく。
 そうして、再びわたしに向けた微笑みは、身内でも一瞬見とれずにはいられないほどにきれいで——天使や聖母と表現されても、きっと誰も大げさとは思わない。
 「明日、久しぶりに会えるかどうか聞いてみるわ。心配かけてごめんね、まあちゃん。おやすみ」
 早く寝なさいよと言いながら、茉莉ちゃんはコップを片付けて台所を出ていく。実は台所に用事があったわけではなくて、足音が聞こえたから下りてきただけだったけど、そのままそこに留まっていた。……隣同士の2階の部屋まで、茉莉ちゃんと一緒に行くのが嫌で。

 時々、姉の落ち着きぶりにはひどくイライラさせられる。憎らしく感じる時もある。慌てたり取り乱したりと、姉が動揺したところを、わたしは一度も目にしたことがなかった。
 感じていたとしても、絶対に、表には出さない。困っている時でさえ、傍から見ればいつもと変わらない顔で、どうするべきか落ち着いて考える。
 憧れるには身近すぎて、完璧すぎる人だった。
 だから普段は突き放して考え、姉らしい優しさを見せる茉莉ちゃんだけを見て、受け入れていこうと思った——何年もそうしてきた。にもかかわらず、いまだに、気持ちをコントロールしづらくなる時がある。口に出さずにいる、目をそらしている感情が抑えきれなくなって、心と頭を一杯にしてしまう。
 物心つく頃にはもう、茉莉ちゃんと比較されることが日常だった。だからと言って、平気でいられるほど鈍感になれるわけではないのだ。
 一生懸命やってもそうと認めてもらえない悔しさは、慣れてしまっても、なくなりはしない気持ちだから。

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第2章・3

 「ねえ、夏休みどうする、どっか旅行しない?」
 「気が早いなあ、6月になったばっかだよ。その前に前期試験だし」
 「だからじゃん。やなこと乗り切るには楽しみを用意しとかなくちゃ。それに、夏休みなんてどこでも混むんだから、今からでも早いことないよ」
 「あーそっか。じゃあ、行くんなら早めに考えとかなきゃだね」
 「そういうこと。旅行カウンターでパンフもらってこよっか」
 というふうに亜紀と話をして、3日間検討した結果、東北の方に行く2泊3日のパック旅行にした。お互い4月からバイトはしているけど、貯金はたいしてできていなくて、予算的には3・4万というところだったから。
 それでも、自分のお金で友達と旅行するのは初めてだし、どこへ行くにも楽しみな気持ちには変わりない。
 東北だったら8月でも涼しいかな、いやけっこう暑いとこもあるっていうよ、などと着ていく服について相談しながら、旅行カウンターのある建物を出たところで、少し先を行く人が目に留まる。
 亜紀も気づいたようで、ほぼ同時に「あ」と小さく声を上げた。その気配を察したのか、ほとんど間を置かずに向こうもこちらを見る。
 結果的に、3人がほぼ同じタイミングでお互いを見たわけで、挨拶より先に、なんとなく笑い合う流れになったのだった。
 そうして10分後には、学食傍にある喫茶スペースに、わたしと亜紀、祐太先生はいた。
 おごるよ、と先生が言ってくれたので遠慮せず、2人ともケーキセットを注文する。
 「先生のところは、新卒募集ちゃんとするんだ?」
 就職課に用事があって来たという先生の話に、わたしはそう尋ねた。来月学内で催される就職説明会に、先生の会社も参加するらしい。
 「若干名だけどね。人の補充はそれなりにやっとかないと会社のためにならない、っていうのがうちの方針だから」
 「へー、今どき珍しい会社だね。わたし3年後に応募しようかな」
 「でも、給料なかなか上がらないよ? それで結局辞めてくやつが少なくない、ってのも求人出してる理由だし」
 ちょっと声を落とした先生の言葉に、わたしたちは笑った。高校の頃に何度か、亜紀と一緒の時にも会うことがあったから、知らない間柄ではない。
 「どうせなら、もっと上を狙ってみたら。○○産業とかさ」
 先生が何気ない調子で出した会社の名前に、少し心が冷えるのを感じた。

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第2章・4

 「……えー、さすがにそこは無理だよ。ねえ亜紀」
 「え。ん、どうかな。でも難しいよね」
 「けど候補のひとつにしてもいいんじゃないかな。茉莉さんが行ってるんだし」
 だからダメなんだって、と言いたいのをこらえ、わたしは言葉を探した。
 「そうかな、でも、すっごく難しいでしょやっぱ。……可能性あると思う?」
 「……まあ、会社ってのは相性もあるからさ。大学と同じで」
 笑い合った顔は、微妙にぎこちなかったと思う。たぶん、空気も。
 「あの、理子の先生がここの卒業生っていうの、初耳でした。何学部だったんですか」
 やや唐突な感じで亜紀が割って入り、しばらくは先生の学生時代の話が続く。学部の話、サークルの話と来て、再び就職の話に戻ってきた。
 「一昨年は今以上に不景気でね、だからなかなか内定がもらえなくて。秋前にやっと、今の会社に決まったんだ」
 その頃の先生がどれだけ大変で辛そうだったか、わたしは知っている。内定をもらえた時、茉莉ちゃんは喜んだけど、両親は会社についてこっそり何か言っていたことも。
 思い返してみると、その頃からかも知れない——先生との、感情の共通点が見えてきたのは。
 「そういえば、茉莉ちゃんとは連絡取れてる?」
 話が途切れた瞬間を見計らい、わたしは尋ねた。亜紀が驚いて息を呑む気配がしたけど、気づかないふりをする。
 先生は、まばたき2回分の間を置いてから、口元に笑みを浮かべつつ答える。
 「うん、電話はそんな多くないけど、メールはよく来るよ。最近は2週おきぐらいに会ってるし」
 「そうなんだ、よかったね」
 嬉しそうに言う祐太先生に合わせて、わたしも同じ口調で返した。同じように笑顔で、繰り返し頷き合いながら。

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第2章・5

 その時、近くで携帯の鳴る音がした。聞き覚えのない着信音に周りを見回しかけたら、先生が取り出した携帯が発生源だった。
 「もしもし、はい尾上(おのえ)です。お疲れ様で……え? ……わかりました。1時間ぐらいで戻ります」
 早口でしゃべって電話を切り、先生はこちらに向き直る。
 「ごめんね理子ちゃん、急に会社に戻らないといけなくなったから——これで払っといて。おつりは返さなくていいから」
 とわたしに言い、ついで亜紀に会釈してから、荷物を抱えてバタバタと店を出ていった。テーブルの上に残された5千円札をつまみ、亜紀の顔の前でひらひらと掲げてみせる。
 「うわ、先生こんなに置いてっちゃった。確実に2千円以上余るよねえ、どうしよ」
 「ねえ、まさこ」
 わたしの軽口をさえぎり、亜紀が呼びかけた。妙に真面目な顔つきで。
 「……なに?」
 「あの先生ってさ、今でも茉莉絵さんと付き合ってるんでしょ」
 「そうだよ? なんで今さら」
 「それでも、まだ好きなの」
 次の答えを口にするには、少し間が必要だった。息を深く吸い込む。
 「——そうだよ」
 「けど、一度はあきらめたって言ったじゃない」
 亜紀の言う通りだ。二人が付き合い始めてすぐの頃、一度はあきらめた。祐太先生が姉をどれだけ好きか——それこそ、心の底から崇拝しているのは、嫌でもわかったから。けれど。
 この4年間、決して茉莉ちゃんを呼び捨てにしないでいる、先生の中にある距離感。
 正面切って反対したりはしないけど、うちの両親は最初から先生を、茉莉ちゃんにはふさわしくない相手だと思っている。先生が就職してからは、その考えをかなりあからさまに表に出すようになった。
 先生は辛抱強く耐えているものの、うちに来る回数は、学生時代と比べると格段に少なくなった。
 茉莉ちゃんはと言えば、両親の態度には気づいているけど、特に強くとがめるわけでもない。自分が認めているのだから、他の人がどう思おうと気にする必要なんかない、というスタンスでいるらしかった。何事につけてもそういう人で、確かに一理あるのだけど、誰もが茉莉ちゃんと同じレベルで考えられるわけじゃないということには気づいていない。
 そもそも茉莉ちゃんは、悪意や皮肉や嫌味などとはほぼ無縁で過ごしてきた、例外的な人だ。だから負の感情を持たずにいられる代わりに、そういう感情を自分に向けられる辛さを本当にわかることは、たぶんできない。
 茉莉ちゃんに悪気がない分、こちらは何も言えなくて、余計にストレスが増すのだ。身近にいるからこそ感じる、息苦しさと居心地悪さ。
 ——きっと、わたしと祐太先生にしかわからない気持ち。

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第2章・6

 「でも、今でもけっこう会うからさ。完全にあきらめるのって難しくて。でも今さら告白とかするつもりはないよ? 先生が困るだけだもん」
 苦笑いしながらも、基本的にはあっけらかんと聞こえるように言ったつもりだった。けれど、亜紀の真面目な顔つきに変化はない。それどころかますます、難しい表情を浮かべる。
 「そういうことじゃなくて。気づいてないの、どれだけ不自然な感じなのか」
 「……不自然って、なにが」
 「どっちもよ。あんたも、あの先生も。茉莉絵さんの話をする時がものすごくわざとらしい」
 内心ひやりとする。口に出しては「そうかな」とあくまでもとぼけていたけど。
 「そうよ、言っちゃ何だけど、単なる元先生と生徒には見えなかった。……なんか、言えない秘密を共有してる同志って感じだった」
 表現が的確すぎて、不覚にもしばらく、ぽかんとしてしまった。
 「やだな、大げさな言い方しないでよ」
 もう一度笑いながらそう返したけど、冗談としてまぎらせるには間が空きすぎていたかも知れない。我ながら、顔も声もちょっとひきつっていたと思う。
 その証拠に、亜紀は最後まで笑わなかった。

 こういう会話はこれが初めてじゃない。
 正確に言えば、祐太先生を好きでい続けていることについては、何度か指摘されていた。
 あきらめないと辛いだけなのは、亜紀に言われるまでもなくわかっていた。けれど、あきらめることと好きでなくなることとは、同じようで実は違う。物理的に離れられてはいないから、気持ちを変えることが難しいのも本当だった。
 そのうちに、先生が、わたしと似たような思いを抱えていることに気づいて——先生に近づけた気がして、なおさら、想いを手放せなくなった。
 今のわたしは、ある意味では先生の一番の理解者だとさえ自負している。
 わたしほど、先生の気持ちがよくわかる人間はいない。だから近くにいるべきなのだと。
 それが不自然な感情だと、理解はしていても。

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