あの頃、こんなふうに

 「なあ、沢辺さんて何が好きかな」
 朝練前の時間、いきなりそう尋ねられた。
 「はっ?」
 「沢辺さんだよ、4組の。幼なじみなんだろおまえ」
 勢い込んで尋ねてきたのは同じバスケ部の、同学年の湯浅。もっとも部室にいるのが二人だけでなかったら、自分に向けた質問とは思わなかっただろう。それぐらい、普段こいつと会話する時なんてないから。今年も去年もクラスが違うし、入部以降に作られた練習グループも違う。湯浅は1年からレギュラー候補で、自分はずっと補欠要員組。
 先月には校外試合のスタメンに選ばれた、今や自信満々で怖いものなしといった態度の湯浅が、柊はどちらかといえば苦手だった。だから話しかけられて正直困ったのだが、今聞かれたことに答えない理由もないから、しかたなく言葉を出す。
 「……、そうだけど。それがなんか関係あんの」
 「なんかって、関係あるに決まってるから聞いてんだよ。ガキん時から知ってんだったらさ、彼女の好みぐらいわかるだろ。アイドルとか食いもんとか」
 妙に熱っぽく説明されても、やはりよくわからなかった。奈央子と幼なじみであるのと、奈央子の好きな芸能人やら食べ物やらを知っているのと、どう関係があるのか。
 確かに子供の頃はよく一緒にいた。家が近いし、3歳上の姉が奈央子を妹のように可愛がっていたから、弟イコール自分の子守を口実にしょっちゅう家に奈央子を招き、あるいは沢辺家を訪ねていた。
 だが自分が小学2年か3年ぐらい、男友達と遊び回るのが主になる頃にはそういう習慣もなくなり、以後は女同士の付き合いが続いているらしい。
 本当の姉妹よりも姉妹らしいあの二人なら、お互いの好みもよく知っているだろう。だが自分を同じ対象に数えられても困る。
 「別に、知らねーし」
 「んだよ、頼りねえな」
 ぼそりと口にした答えに、返ってきたのは吐き捨てるような物言いだった。自分の返答も愛想があるとは言いがたかったにせよ、ムッとした。
 これが他の奴ら、それなりに仲の良い連中なら、当人に聞いてやろうとか提案したかもしれないが、相手がこいつでは話は別だ。そうでなくとも勝手に頼ろうとしておきながらこんな言い方をするような奴には、協力してやろうかという気もそがれる。
 「んなこと言われたって、あいつは姉貴とは仲いいけどおれは別に。だいたい、んなことなんで聞きたいんだよ」
 そう、まず問題はそこだ。当然の疑問に、めずらしく湯浅は即答しなかった。どういうわけか、視線が全然違う方向を向いている。
 「……頼んない上に鈍いな羽村。女子の好きなもん知りたいっつったらわかんだろ」
 機嫌取りたいからに決まってんじゃねえか、と続けた表情は、無表情を保とうとしながらも引きつっている。
 奈央子の機嫌取り? どういうことだろうか。
 「あいつ怒らせたわけ? 何したんだよ」
 「まだ何もしてねえよ、これからなんだよ」
 とことん鈍いな、と言った顔はなぜか若干赤い。
 本当に訳がわからない。そう思ったのとほぼ同時に、あさっての方を向いていた湯浅の顔がいきなり振り向いた。なにか開き直ったように、というよりも普段に近い、必要以上の自信を浮かべて。
 「ほら、あれだけレベル高い女子だったらやっぱ、相応の相手が必要だろ。いまだに付き合ってる奴がいないってことは彼女もそう思ってんだろうし。だから俺が立候補してやろうとか思うわけ。なかなか俺レベルの男なんていねえじゃん、な」
 言い切って得意げな笑みを向けた湯浅を、柊は未知の生物かエイリアンを目の前にしている気持ちで見つめた。
 1年の後半頃から、彼女がほしいだの彼女ができただの、そういう話題をちょくちょく耳にはする。女子と1対1で付き合うことがひとつのステップアップ、いやステータスだったかとにかくそんな感じで、2年になってますますそういう空気が強まってきているのは感じていた。
 ただし柊個人にしてみれば、付き合ってみたいと思う女子がいるわけじゃないし、そもそも女子は不思議な生き物だと思う。嫌いではないが、何を考えているのか謎な時が多々ある。ことに身近な女子たちは。
 だから、よくわからないが湯浅が奈央子と付き合いたいと考えているらしい、と気づいて呆然としてしまった。
 生まれた時からの幼なじみ、誕生日も近いからある意味双子みたいに育てられてきた、もうひとりの姉みたいな存在。
 いや確かにそのへんの女子よりか目立つ見た目だし、時々手厳しいことは言ってくるものの基本いいやつだと思う、けど。
 あいつ相手にそんなこと考える奴がいるなんて、というのがまず最初に思ったことだ。男子とか女子とかいちいち意識しない、それこそ女きょうだいに限りなく近い認識のままで13年以上いるから。
 けどあいつはおまえみたいな奴はたぶん好きじゃない、と思ったが黙っていた。奈央子の好み、ましてや好きな男のタイプがどんなのだなんて知らないけど、あからさまに自信過剰で自分がうまくいかない可能性なんてかけらも疑っていない、こんな奴は奈央子だって迷惑だと思う。
 …… とはいえこいつが女子にそこそこ人気があるのも間違いなかった。バスケ部の中でも背が飛び抜けて高いし見た目は悪くない。レギュラーになってからは特に、手紙やら待ち伏せやらの数が増えたとも聞く。自信過剰な態度も女子から見たら「かっこいい」のかもしれないし奈央子が同じように思わないとも限らない。
 そんなことを考えながら、自分の想像で機嫌良さそうににやにやしている湯浅が視界に入ってくるのは実に居心地が悪かった。練習後なら着替えてさっさと出ていくこともできるが今は朝練前で、全員がそろってのミーティングが終わるまではうかつに出ていけない。なんで今日に限っていつもより早く来てしまったのかと心の底から後悔した。
 苛立ちで吐き気さえ感じ始めた時、やっと他の部員が来てほっとした。しかも普段よく連れだって行動する奴らだったから、挨拶ついでに話しかけて不愉快な存在は無視することができた。
 奈央子に嫌われればいいのに、そうなりゃいい気味だと、頭の片隅では考え続けながら。朝練中も授業中も放課後も、結局1日中そうしていたような気がする。
 それほどまでにイライラした本当の理由に気づくのは、ずいぶん後のことだ。


 夕食後、思い出したように見せられたのは1通の封書だった。
 「中学の同窓会?」
 ざっと読んで尋ねると、隣に座る奈央子がこくりとうなずく。
 「卒業10周年の記念企画だって。ほんとは去年だったけど、先生の都合がつかなくてだめだったから今年に延期したらしいわよ」
 彩乃が実行委員だから聞いたの、と奈央子は中学時代からの親友の名前を出す。中学では柊も何度か同級生だった。1年と、今度同窓会がある3年のクラスで。
 「で、行くのか」
 「うーん、みんなには会いたいけどどうしようかな……この子もいるし」
 視線を落とした先には、授乳直後でぐっすり眠っている娘の寝顔。この6月で半年になる。日に日に大きくなる我が子は、どちら似なのかはまだ判断できないが、とりあえず起きていても寝ていても非常に可愛い。
 「9月だろ。まだ産休残ってるし、土曜日なら休めるからおれもついてくし行けば。雪花(ゆか)は実家に預けてさ」
 「…………んー、でもどっちに預ける? まだお願いしたことないし」
 言葉の先を半分本気で困ったようににごした理由は、聞かなくてもわかった。実家は歩いて2分の間隔しか空いていないご近所さんで、どちらの親にとっても初孫である。片方を優先する理由がなくて決めづらい。
 「まあ、それは都合聞いてぼちぼち決めたらいいんじゃねーの。まだ時間あるんだし」
 「そうね、仕事復帰したら機会あっても行きづらくなるし……じゃあ二人とも出席で返事出しとくからね。あ、幹事の長山さんと高野くん、ちゃんと覚えてる?」
 バスケ部で同期だったクラスメイトの名に、ふと連想で思い起こされることがあった。12年前のちょうど今頃、朝練前の部室での出来事。……そういやあんなこともあったけな。
 「ちょっと、聞いてるの」
 「――え、ああ。大丈夫覚えてる」
 「ならいいけど。当日会って『誰?』とか言わないでよ。後で卒業アルバム出しとくから念のため見といて」
 わかった、とこちらが答えるのを確認して、奈央子は雪花を抱いたまま立ち上がった。浴室の方へ向かうところを見ると、風呂に入れるつもりらしい。
 一人になり、緑茶の残りを飲みながら再度思い返していると、いつの間にか口元がほころんでいた。
 あの日からどのぐらい後だったのかは定かでないが、一時期、湯浅が異様に静かだった頃があった。誰に話しかけられても言葉少なく不機嫌で、時には先輩や顧問に対してさえそうだったりした。
 その時は別の意味で近づきたくないと思い、それ以上深くは考えなかったのだけど、今思い返してみるとたぶん、いや十中八九、奈央子に「立候補」して断られたのだろう。
 湯浅に対していい気味だとはもちろん思うが、それ以上に、奈央子があんな奴と付き合わなくてよかったと、心の底から思う。たとえ付き合っていてもすぐ別れただろうけど、少しの間だったとしても、奈央子が嫌な思いをしなくてよかった。
 こんなふうに自分が考えるようになるとは、あの頃は思っていなかった。まあそれを言うなら今のこの状況なんか想像もしなかったよな、と今度は少しだけ声に出して笑う。
 当時は女子という意識さえなかった幼なじみと、結婚して子供を育てているのだから、未来は本当に予測不可能なものである。よくよく考えれば、あの時やけにイライラしたのは根底に奈央子への想いがすでにあったからなのだろうが、あの頃はその可能性の一端すら思い浮かばなかった。
 湯浅を選ばなかった奈央子は男を見る目がある、はずなのだが現状を考えると、自信を持って言い切れない不安は実のところ今でも感じる。
 本人に言うと呆れられるか怒られるかだと思うから言わないが、客観的に見れば(特に姉に言わせれば)、奈央子は頭はいいけど男の趣味はいまいちと言われても不思議じゃない、むしろ当然だろう。
 けれど、他の誰が何を言っても、全く気にならないわけではなくともどうにか受け流せる。奈央子が選んでくれたのは自分で、彼女の気持ちは信じられるから。
 あの頃の未来が今に――奈央子と、そして子供と過ごせる日々につながっていてよかった。柊はあらためて、自分の運命というか人生に、大きな有難みを感じた。

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冬空に春を見る

 「家出っ?」
 思わず飛び出たすっとんきょうな自分の声に一瞬慌てる。しかしそれどころではない。
 電話の向こうの声は、慌てたり取り乱したりは全くしていないが、呆れと不機嫌があふれるほどに含まれていた。
 『そうなの、気づいたら部屋にいなくてね。あんまりのんきにしてるから昼間、母さんや私がちょっと忠告したらすねちゃって。で、夕ごはんできたって呼びに行ったら』
 「……あの、くーちゃん?」
 なかなか止まりそうにない勢いで続く言葉を、奈央子はさえぎった。公美は『ん?』と気分を害したふうもなく聞き返してくる。
 「家出はないんじゃないかな。いくらなんでも柊だってそこまで無責任なわけじゃ」
 『わかってるって、あのバカだってまさかそんなことしやしないでしょ、こんな時に。けどもう2時間以上経つのよ。どこほっつき歩いてるのか知らないけど、こんな寒い時にうろついてたら風邪引くかもしれないのに、いくらバカでも』
 「……………」
 複雑な気分になってきた。大部分は同意だし、公美なりに弟を心配しての発言だともわかっているけど、こうもバカと連呼されるのを聞いていると、柊が少々気の毒にも思えてくる。
 『ね、奈央ちゃん。嘘ついてるって思うわけじゃないけど、あいつから何も連絡ない? メールとか』
 「……うん。マナーモードにしてないから着信あったらわかるし。かけてみようか?」
 『いや、いいわ。どうせ私の差し金だと思って出ないだろうし。普段鈍いくせにそういう時だけ鋭いんだから』
 いまいましげな口調に、確かにそうだなと思って苦笑いが浮かぶ。経験の成せる業か、姉が関わっている、もしくは考えていることに対しては、当人曰く「警戒アンテナ」の感度が非常に良いのである。
 普段は本当に、とんでもなく鈍いくせに。
 思わずつきそうになったため息をこらえつつ、連絡があればすぐに知らせる、と約束して公美との通話を終えた。
 沈黙した携帯の画面を見つめつつ考える。時刻は午後9時半過ぎ。
 ――何やってんのよ、もう。
 明日は受験当日だというのに。しかも私立K大、イコール柊の第一志望である大学の。
 彼の通う県立高校は、近隣校の中では進学校の部類に入る。詳細は知らないのだが、柊の成績は平均以上はあるものの上位組ではなく、だから近県では偏差値の一番高い私大であるK大を受けることを、担任や進路指導の先生は口をそろえて止めたらしい。模試も最高でC判定だったと聞いている。
 しかし、表向きは別の大学を第一志望にしつつも、柊はK大受験をやめようとしなかった。無理と言われてかえって挑戦したくなったのか、仲のいい友達も何人か受験するからか、――付き合って1年半になる「彼女」も受けるからなのか。
 どれが決め手かわからないが、ともあれ、今日は最後の追い込みか、早く休むかするべき日のはずだ。なのに。
 短縮に入れてある番号を押しかけたが、出ないかもしれないという公美の言葉を思い出して指を止める。……柊だってそこまで無責任じゃない。自分の言った言葉も思い返しながら。
 だけど、何もせずに連絡を待つだけなんてできない。
 「お母さん、コンビニ行ってくる!」
 「え、今から? 明日の朝にしたら」
 「シャーペンの芯が少なくなってるの、さっき気づいて。朝だと慌ただしくて忘れるかもしれないから今買っときたいの。ついでに何か、いる物ある?」
 「そうね、じゃ牛乳とはがき頼めるかしら。早く帰ってくるのよ」
 「うん、自転車で行くから」
 言いながらコートに袖を通し財布と携帯をコートのポケットにつっこみ、早足で家を出る。駐車スペースの自家用車横に止めてある自転車を引き出して、ライトを点けた。
 ――30分だけ。それ以上かかると心配されてしまうから。
 忘れないように心の中で繰り返しながらペダルをこぐ。平日の夜、ほとんど通行人のいない界隈。自転車とはいえ一人で行き来するのはやはり少し怖い。でも町内はひと通り回ってみようと、スピードを調節しつつ周囲に目を凝らす。途中で本当にコンビニに寄って、頼まれた品物を急ぎ買ってからも。
 ……でも、無駄なことをしているのかも。近所にいない可能性だって大いにあるのに。
 駅前まで出てファーストフード店とかにいるかもしれないし、もっと遠くまで行ったかもしれない。男子だから暗い道も別に怖くないだろうし、そもそも、最近の柊の行動半径なんてよく知らない――
 そう思った途端に思わずブレーキをかけていた。なんだかすごく嫌な気分、言い表せない寂しさに襲われて。
 その重さを振り払いたくて、わざと勢いよく顔を上げる。目線の先に、子供の頃よく遊んだ公園があって、そして。
 見えた人影に目を見開き、直後、公園の敷地内に向かって自転車を走らせる。ジャングルジムのすぐ横で止まり、しばし見上げたのち、ベルを思い切り鳴らしてやる。てっぺんの人影が文字通り飛び上がった。
 「うわっ、――なんだ、何やってんだよ」
 「それこっちの台詞なんだけど。何やってんのよあんた、明日受験日のくせに」
 「お互いさまだろ、それは」
 「あのね、問題はそこじゃないの。なんでこんな時間にそんなとこにいるかってこと。まさか2時間もそこにいたんじゃないでしょうね」
 「まさか。駅前まで歩いてちょっと食って、コンビニ何軒か回ってからここ来た。……てかなんで2時間?」
 「くーちゃんから電話あったの。2時間以上帰ってこないって」
 と言った途端、柊はあからさまに顔をしかめる。
 「あー、……どうせまたろくでもないこと言ってたろ。探してくれとか言われた?」
 「言われてないけど、聞いちゃったらやっぱり気になるでしょ。今日は特別寒いし」
 「ふーん?」
 「……何よその目」
 「いや、心配されたのかと思って」
 「――心配したらおかしい? せっかく反対押し切って受けるのに当日熱とか出したら台無しじゃないの。わたしやくーちゃんが苦手科目教えた甲斐だってなくなるし」
 今が夜でよかった、と思った。勝手にどんどん赤くなる顔の色をはっきり見られないで済むから。
 目線を落としている間に下りてきた柊が「そりゃごめん。でもまあ、おまえも見てみろって」と上を指さしたので、言葉に従って見上げると、
 「……うわ」
 一瞬、言葉をなくして呆けてしまうほどの星空。
 昼間の曇り空が夜になって晴れたことも、公園でこんなに星がよく見えることも今まで気づかなかった。
 顔を動かさないまま横目で隣を窺うと、彼も同じように空を見上げている。生まれた時からずっと、近くにいた幼なじみ。身長差が頭半分以上になるだけの月日が経っても高校が別になっても、会おうと思えばたやすく会える距離にいた、一番好きな人。
 ――けれどもうすぐ、こんなふうに会えることもなくなってしまう。
 K大の最寄り駅はここから2時間以上かかる。家から通えないわけではないけど、通学の往復で毎日5時間近く費やすのは楽な話ではない。大学に近い町で一人暮らしをする方が効率的だし、受かれば十中八九、彼はそうするだろう。
 そうなったら確実に、会う機会は一年の中で数えるほどでしかなくなる。いつかは来ると思っていた事態が目の前に迫っている現実に今さら気づいて、胸が締めつけられる心地がした。……寂しくてせつなくて、痛い。
 いきなり湧き上がってあふれそうになった涙を、くしゃみでとっさにごまかした。非常にわざとらしいと自分では思ったが柊は気づかなかったようで、「あ、悪い。寒いよな」とやや焦った口調で応えた。
 「自転車、キー付いてる?」
 「付いてるけど、……何してんの」
 サドルの高さを調整し始めた柊の行動に、今度はこちらが焦る。
 「ん、あ、早く帰った方がいいと思って。ほら乗れよ」
 と言う当人はサドルにまたがっている。この状況で乗れと言われたら後ろの荷台しかないことは判断がつく、が。
 「あんたバカ? 二人乗りなんか危なくてできるわけ」
 「固いこと言うなよ、今は非常時だからいいだろ。もし警察とかに見つかったら、おれが怒られてやるから」
 その言い方には何のてらいも気負いもなくて。だからこそ彼が、自分をただの幼なじみとしてしか見ていないことがわかって、先ほどとは違う意味で少し胸が痛む。
 ……全然気づかない鈍感野郎なのにあきらめてしまえないのは、時々こんなふうに示される優しさのせいなのか。 嫌になるのに、嫌いになれない。
 睨んでみても、当然ながら真意に気づくはずもなく、柊は変わらぬ表情を向けたままで自分の行動を待っている。観念して足を踏み出し、荷台に横向きに腰掛けた。
 走るぞ、の言葉とともに発進した自転車は最初こそ何度か揺れたけれど、次第に安定して走行もスムーズになる。危なげないペダルの足運びに、幼なじみとの性差をあらためて意識する。最初に揺れた時に反射的にしがみついた、見た目より広い背中にも。
 もちろんすぐ離れようとはした。だが離れる直前の「つかまってろよ、危ないから」の一言でタイミングを逸し、次いで意志も失ってしまった。
 氷がそのまま空気になったような冷たい風の中で、コートごしに彼につかまる手と、どさくさで背中に寄せた頬だけが温かい。――離れたくなかった。しがみつく姿勢を保ったままで、空をまた見上げる。
 自転車が進んで周りの風景が変化していっても、目に映る星の配置は同じだ。けれど、日にちが経てば同じ時間でも見える星は変わる。寒さがやわらいで夜でもコートがいらなくなる頃、春になれば確実に。そして自分たちの環境も。
 自分が第一志望にしているのはここから1時間足らずで行ける国立大。ずっとB判定以上だし、よほど相性が悪い試験問題だったりしない限りは、たぶん受かる。そうなれば通うのは自宅から。もし一人暮らしをするとしてもK大とは逆方向の土地になる。国公立受験クラスの自分がそこを蹴ったら不自然に思われるだろう。近さでも偏差値でも学費の安さでも、国立大の条件が一番良いから。
 ――でも、わたしはK大に行きたい。こいつと一緒に。滑り止めの私立大に含めたのも、周りにこぞって薦められたからではなくて、その可能性を残しておくためだった。
 就職の時にはどうしたって離れざるをえない。それまでの4年間だけでも、彼の存在をできるだけ近くに感じていたいと思った。一日でも長く、今の距離を保っていたい。幼なじみのままでいいから……他に彼女がいてもかまわないから。
 最後の部分が本心ではなく強がりなのはわかっている。けれどその辛さよりも今は、柊と同じ大学に行きたい気持ちの方がずっと勝っていた。こんなふうに彼の優しさに触れられる機会を、まだなくしたくない思いが。

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『気分転換、もしくは休息の一日』〔6〕

 「は?」
 とんでもない勘違いを聞いたように反応された。だがそれも当然だろう。柊はついに観念した。
 「……いや、いつもの調子で飲んだらアルコールの回りが速くてさ、ヤバいなと思って。ああでもしてないと、歩きながら寝れそうなぐらいだったから」
 「…………」
 奈央子は絶句してしまった。怒るべきなのか呆れるべきなのか、決めかねているような表情で。支える杖か棒代わりにされていたと言われればそうなるだろう。ましてや、彼女は悩んでいたのに——
 そう考えてからはっとして、奈央子をまじまじと見つめる。いくらか意外な思いで、思い浮かんだことを口にした。
 「——ひょっとして、それずっと悩んでたの、おれが寝てる間」
 言った途端、奈央子は目を見開き、さらに言葉をなくしたかのように唇を引き結ぶ。ふいと横を向いた顔が赤く見えるのは、オレンジがかった店内の照明のせいだけではない気がする。
 可愛い、と今日一番強い感情で思った。彼女は真面目だから、ひょっとしてと可能性を思いついてからずっと、そればかり考えていたのだろう。見当違いの方向とはいえ、柊に申し訳ないとまで思って。
 そっぽを向いたまま、表情も動きも固まった状態でいる奈央子の姿に、唐突に衝動が湧き起こるのを感じた。
 左手で膝をつかみ、強い感情で体が震えてくるのを抑えながら、テーブルに身を乗り出す。
 「……じゃ、ちょっとだけ希望言っていっかな」
 できるだけ声を低くひそめるのも、これから言う内容を気にすると同時に、声がうわずらないようにするためである。雰囲気の違いを感じてか、奈央子はやや緊張した面持ちでこちらを見た。
 「なに?」
 「今日、する気ない?」
 たぶん3秒ぐらい、沈黙があった。次いで爆発的な勢いで顔に血をのぼらせ、奈央子は飛びのいた。
 「……ばっ、な……こっ」
 バカ何言ってんのよこんなとこで、と言いたかったのだろう。だがうろたえるあまりろくに発音できていない。
 真っ赤な顔で口をぱくぱくさせる彼女の反応に、今度は急激に笑いがこみ上げた。すぐに口を押さえはしたが、肩の震えと表情はどうしても抑えきれない。
 「…………可愛すぎ」
 我慢しきれずにつぶやいた声が聞こえたらしく、奈央子の表情が一変した。一息にコーヒーを飲み干してからじろりと睨み、低い声音で宣言する。
 「それ以上笑うつもりなら、就活で休んだ分のノート貸さないからね」
 『学科が違うから専門は協力できないけど』と言って、今年度は自由履修でできるだけ同じ科目を取ってくれているのだった。え、と笑いを引っ込めた柊を置き去りに、奈央子は席を立って店を出ていく。
 さすがにまずいと思い、慌てて後を追った。おそろしいほどの早足で歩く奈央子に、駅方向へ十メートルほど進んだところで追いつく。
 「ちょ、待てって——ごめん、笑いすぎた」
 心の底から謝ったのだが、彼女はまだ憮然としている。
 「けどほんと、可愛かったから」
 と躊躇なく続けたのはかなり無意識だった。言ってから自分で少なからず驚き、奈央子はこれ以上ないほどに目を見張る。
 追いついた際につかんだ彼女の右手が、じわりと熱くなった気がした。息を吸い込み、手の力を少しだけ強める。
 「で、さっきの、マジなんだけど……だめ?」
 奈央子が息をのむ音が、確かに聞こえた。手と唇がかすかに震え、今にも泣くかもと思うほどに目が潤んでくる。
 うつむいてしまった彼女が、硬い声で「……疲れてるくせに」とつぶやくのも聞こえた。やっぱこんな流れじゃ拒否られるよな、と反省し、もう一度謝りかけた時。
 ふうっと息をついた彼女の口元が、笑みを形作ったことに気づいた。はっとして思わずのぞきこむ。
 「バカすぎる、あんた」と言った声は先ほどよりも大きい。だがその口調はなんだかやわらかくて、涙があふれそうな目をしながらも微笑みを浮かべている。そして奈央子は、手を強く握り返してきた。
 「え、…………いいの?」
 おそるおそる確認した柊に、奈央子ははっきりとうなずいてくれた。はにかみながらも嬉しそうな、とても可愛らしい笑顔で。

                             —終—

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『気分転換、もしくは休息の一日』〔5〕

 柊が頭を起こした時、奈央子は向かいで伏し目がちにコーヒーを飲んでいた。一瞬だけ状況がわからず戸惑ったが、すぐに今いる場所を思い出す。
 「……あれ、今何時?」
 「ちょうど9時。ここに来て45分」
 げ、と思わず言ってしまった。
 「うわごめん。おれ寝過ぎ」
 「コーヒーとっくに冷めちゃってるわよ、新しいの買ってこようか」
 「いやいい、これで——う、にが」
 慌てて口をつけたコーヒーはかなり苦かった。普段ブラックで飲むことはない。
 「当たり前でしょ。砂糖もミルクも入れてないんだから……なに、変な顔して」
 「そっちこそ。何か言いたいことあんじゃない?」
 「ミルクこぼれてる」
 と言われて反射的に手元を見て、トレイの惨状に気づく。新しいミルクを取りに行き席に戻るまで、ちょっと不可解な気分だった。
 本人が気づいているかどうかわからないが、何か言いたいことがある時、奈央子の口調はいつもより平坦になる。少なくとも彼女に関する限り、そういった言動と考えていることの関係に気づくようになってきた。そして先ほどのように視線をそらしがちな場合、「言いたいこと」がたいていは言いにくい内容であることも。
 椅子に座った時にも、奈央子はまだそんな様子だった。だがミルクをコーヒーに注ぎ終わるタイミングで「あのね」と声をかけてきた。聞きづらいが聞かないままでいるのも気になる、といった感じで。
 「変なこと聞くかもしれないけど、いいかな」
 彼女らしからぬ前置きに、内心ちょっとだけ身構える。
 「——珍しいこと言うな、なんだよ」
 「……デートの時に、いつも手をつなぎたいとかくっついて歩きたいとか——その、いちゃいちゃしたいとかって思ってたりする?」
 後半が恥じらうように小声になった質問に、思わずカップを倒しそうになった。奈央子をあらためて見ると、やけに気合いの入った表情になっている。
 妙な間が生まれそうになり、打ち消すためにコーヒーを口に付けたらまだ苦かった。砂糖がちゃんと溶けていなかったらしい。考えを言葉にまとめるための時間稼ぎも含めて、マドラーで念入りにかき混ぜる。
 「……そりゃ、まあ。全然思ってないってったら嘘だけどさ。いちおう、おれだって男だし」
 彼女とその手の話をしたことはないから、正直、口には出しにくいものがあった。だからつい歯切れの悪い口調になるが、気持ちははっきりしている。
 間を置かずに「でも」と続けた。
 「今の感じで、別に不満はないけど? そういうことしたくなる時があんまないってだけだし、それが問題とは思ってないし。おまえもそうじゃないの」
 「……うん、そうなんだけど」
 そうだよな、と思う。彼女は見た目以上に、そういう方面には控えめで照れ屋だから。ならばなぜ、そんなことを聞くのだろう。
 奈央子が再び先ほどの仕草を繰り返す間、柊は首を傾げていた。すると、
 「その——さっきみたいなことって珍しいから、今まではなかったけど願望はあるのかなって」
 2つ目の質問はひどく気まずそうに発せられた。「だとしたら、我慢させてたのかなって思って」と続いた声は、先ほどよりもっと小さく、どこか申し訳なさそうでもあった。
「さっきみたいなこと」の内容を、五秒ほど考えて思い出す。「……あー」と応じたものの、今度はこちらが気まずくなってきた。目を伏せて、とっくに砂糖は溶けたコーヒーをまたかき混ぜ始める。マドラーの回転が不自然に速くなっていることを自覚しつつ。
 目を上げると、当然ながら奈央子が不安そうな顔をしている。……なんと説明すればいいものか。
 願望がゼロだったとは言わないが、先ほどに限っては、主たる理由は全然違ったから。
 「あれは、えーと——めちゃくちゃ眠かったから」

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『気分転換、もしくは休息の一日』〔4〕

 中華料理店を出た時、店の前の通りは思わず目を見張るほどの混雑だった。土曜日の夜で、市内一の繁華街という条件がそろえば無理もない。
 手前の人の流れは駅とは逆方向で、その向こうが駅へ向かう人波だった。流れの隙間を目を凝らして探していたら、先に見つけたらしい柊に強く腕を引かれた。やや引きずられるように流れを横切り、駅方向への人波に混じり——いつの間にか抱き寄せられていた肩が、いくらか混雑がましになってきたあたりでもそのままであることに気づいて慌てた。
 『……ねえ、もう大丈夫だから』と言いながらはずそうとした手は、さらに強く肩を引き寄せた。さすがに奈央子が文句を言おうとした時、
 『いいじゃん、たまには』
 妙に熱っぽく耳元でささやかれて、その瞬間、抵抗できなくなってしまった。結局、カフェに着くまでされるままになっていたのだったが  
 テーブルに両肘を置く体勢で、柊の顔をのぞき込む。ほんの少し斜めになっている横顔は、目を閉じているといつも以上に童顔に見える。当人は嫌がるだろうが、こうしていると子供の頃とあまり変わらない。……けれど、彼はもう子供じゃなくて、あと2ヶ月で21歳の成人だ。
 自分たちが、直接的な触れ合いに関しては、一般のカップルよりかなり頻度が低いだろうという自覚はある。淡白というよりは、そういう気になることが少ないというのが本当だ。二人きりでいてもキスさえあまりしょっちゅうはしない。
 ましてや、それ以上のことは——初めてそうなったのだって今年の初め、交際1年が過ぎてからで、その後は今に至るまで、1度しかしていない。
 そんな調子だから、人前ではいまだに、手をつなぐこともめったにないのが普通だった。
 自分からは照れくさいからしないし、柊からも普段はあまり触れてくることはない。ましてや、先ほどみたいに強引とも言える行動はまず取らない。
 世間並ではなくても、自分たちはそんなふうでいいと思っていた。一緒にいるだけで充分、満たされた気持ちになれるから。
 だが、そう思っているのは実は自分だけで、もしかしたら柊には我慢を強いていたのではないだろうか? 彼だって男なのだから、そういう欲求が世間並にあったっておかしくはない。けれど、奈央子があまりそういうことを求めていないのを感じ取っているから、抑えているのではないか——もしそうだとしたら。
 これまで、頭に浮かぶ時はあってもさほど深く考えはしなかったことを、初めて真剣に悩んでいた。
 20年以上身近にいても、わからないことはなくならないものだなと時々思う。しかし、本当に彼が自分に遠慮しているのだとしたら、少し寂しい。そういうふうに思わせてしまっていることが辛い。
 ひどく申し訳ない気持ちが湧いてきて、柊の頭にそっと手を添える。
 いかにも恋人同士といった感じでべたべたするのは恥ずかしい。けれど、たまになら……今日ぐらいのことなら、してもいいのに。
 軽く髪をひと撫でした途端、彼のまぶたが開く。奈央子は仰天して手を離した。何度肩を揺すっても頬をつついても起きなかったくせに、なぜこのタイミングで目を覚ますのか。慌てて椅子に座り直し、平静を装うため深呼吸した。

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『気分転換、もしくは休息の一日』〔3〕

 ——向かいの席で、柊が爆睡している。
 オーダーバイキングのディナーを食べた中華料理店を出て、しばらく歩いてから入ったカフェ。席に着くなり『悪い、ちょっと寝かして』と言ってテーブルに突っ伏してしまったのだった。
 それから30分近く経過したが、彼が起きる気配はない。……相当寝不足なんだな、と用語集を閉じながら奈央子は思った。
 夏からこちら、企業説明会や就職セミナーと、少しでも暇があれば就職活動にいそしんでいる。卒業論文の準備も、厳しいと評判の担当教授の元でずいぶん真面目にやっているようだ。休日は休日で、バイトを集中的に入れているからたぶんあまり休んでいない。疲れているのは当然だった。
 元来かなりマイペースな柊がそこまで気合いを入れているのは、きっちり4年で卒業、なおかつ新卒で就職するために他ならない。卒論はともかく就職に関しては、いまだ厳しい不況を早くも実感させられているからでもあるだろうが、意地もだいぶあるのだろうと感じていた。言うまでもなく、姉の公美に対しての。
 去年、大手の法律事務所に就職した彼女は、来年には正式に弁護士になると聞いている。自分もせめて新卒で就職を果たさなければ格好がつかない——というよりは、何を言われるかわからないと危惧しているに違いない。
 奈央子の目から見ても、公美の弟への態度や言葉が、相当に手厳しいのは確かだ。
 ……先週会った時にも、柊に連絡しようとした奈央子に対し、実際には『あんなのはどうでもいいから』と言った。ストレートに伝えると彼は確実に落ち込んでしまうから違う言い方をしたが、本当はどう言われたか察していたかもしれない。
 彼女なりに真面目に心配するからこその極端な言動なのだと、奈央子にはわかっている。だが、年中「あんなの」呼ばわりされる当人からすれば、素直にそうは思えないだろう。だから、柊が意地になるのもある程度はうなずける。
 ——けど、わたしに対してまでそんなふうに思う必要なんかないのに。
 柊が自分に対し、引け目とも言うべきコンプレックスを持っているらしいことには、今の形で付き合い始めてから気づいた。
 子供の頃から、公美を初めとして身内には事あるごとに比べられていたから、そういう傾向があるのは認識していた。だが、奈央子が思うよりずっと、彼にとっては根の深い問題であったらしい。
 是が非でも新卒で就職しようと頑張るのはいいけど、その動機が公美や自分への意地から起こっているというのは、何か違う気がしてしまう。
 そもそも、彼は自身を過小評価しすぎている。
 点数では全体的に奈央子の方が上まわっていたとはいえ、成績は充分に優秀と言えるレベルだった。気を抜かず普通に頑張れば、問題なく就職できるはずだ。柊が人に与える、明るくて人好きのする印象は、成績以上に就活の助けになると思う。
 ……しいて言うなら素直すぎるから、多少は場に応じた発言をする練習をした方がいいかもしれないが。
 それはそれとして、奈央子が一番好きなのは、彼のそういう性質なのだ。誰も真似できない、裏表がかけらもないまっすぐさ。たとえ、そのせいで社会に出て損する事態に陥ったとしても、柊が変わらない限り、絶対に見捨てたりはしない。
 奈央子自身はそう思っているのに、彼には、口にはしないけれど確かに抱えている引け目が、今でもあるのだ。
 ……だから、もしかして遠慮しているのかもしれないと、1時間ほど前のことを奈央子は思い返す。

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『気分転換、もしくは休息の一日』〔2〕

 だが負けるわけにはいかない。そんなふうに思うのは奈央子がいるからだ。彼女はまず間違いなく、来年の採用試験に合格するだろう。だから自分もせめて、新卒で就職しなければならない。でなければ……有り体に言えば、格好がつかないから。
 それに就職浪人などしようものなら、両親はともかく、姉はまた持ち前の毒舌で存分に攻撃してくるだろう。それだけは回避したい、と切実に思う。
 「そう? ちょっとずつでもやっといた方がいいわよ。さてと、20分の遅刻だから、今日はおごってあげるつもりだったけど2割払ってね」
 「あ、おれが全部出すから」
 予定通りに起きていれば事故に行き合わず、遅刻もしなかったのだから当然だ。だが奈央子は笑い、顔の目で手を振った。
 「いいって。バイト、就活で前ほど行けてないんでしょ。こないだ行った時の10%引き券もあるし……あ」
 しまった、というふうに口を押さえる奈央子に、柊は意外な思いで「え、行ったことあんの」と尋ねた。今日行く店は『おいしい店だとこないだ友達に教えてもらった』と聞いていたのである。
 上目遣いにこちらを見た奈央子は、何やらばつが悪そうな表情をしている。しばらくの沈黙の後「実はね」と、ためらいがちに口を開いた。
 「先週行ったの。くーちゃんと」
 奈央子だけが呼ぶ姉・公美の愛称に、反射的に顔をしかめてしまった。
 「先週わたし、実家帰ったでしょ。家に戻る時にここで、くーちゃんが職場の人と飲み会行くとこに行き会わせて、そしたら就活の激励したげるって誘われて。わたしは、あんたも呼ぼうかなって電話しかけたんだけど、……『時間もったいないから』ってくーちゃんに携帯取られちゃって、そのまま引きずられてっちゃったから……嘘ついてごめん」
 小声で謝る奈央子を責める気は、柊にはかけらもなかった。彼女が、自分を気遣って隠していたのは察しがつくから。
 公美の、奈央子に対する猫可愛がりようと、柊への冷遇ぶりは子供の頃から変わっていない。相変わらずの姉の態度に納得しつつも、どうしてもいまだに気分の重さを感じてしまう――自分のそういう、トラウマ的な条件反射というか気持ちの弱さを奈央子もわかっているから、言わずにいたのだろう。
 今も彼女は、1ヶ所でやや言葉を濁した。公美が実際にはどんなふうに言ったのかは、容易に想像がつく。姉への反発心と、自分の情けなさへの憤りのような感情が、同時に湧きあがった。
 「やっぱ、今日の分おれが払うから」
 奈央子は表情を複雑そうにゆがめた。そんなふうに言うだろうと思っていた、と言いたげに。
 「じゃ、割り勘にしようよ。10%安くなるっていっても一人4千円近くするんだし、ね」
 奈央子のなだめるような提案にも、柊はきっぱり首を振る。意地になっている自覚はあったが、今は引きさがれない気持ちでいっぱいだった。

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『気分転換、もしくは休息の一日』〔1〕

 寝過ごした上に、人身事故のせいで乗った電車が止まってしまった。停車して15分近く。今から動いても絶対に間に合わない。
 『わかった、急がなくていいから。焦ってあんたまで怪我とかしないでよ』
 奈央子はそう言ったが、今すぐにでも窓から外に出て、線路を走りたい心境だった。近頃疲れてるみたいだから気分転換しよう、と彼女が誘ってくれた今日のデートなのに、彼女を待たせるなんて。
 卒論の資料読みとエントリーシート記入の練習で徹夜するのは、近頃の日常になりつつある。だが昨夜ぐらいやめておくべきだった、と柊は心の底から思った。

 待ち合わせ場所を目前にして思わず立ち止まる。
 ターミナル駅の構内、各方面への改札へ続くコンコースの中央にある大きな柱時計。その周囲に置かれたベンチの一つに奈央子は座っていた。手にした新書サイズの本を一定時間真剣に見つめ、ページをめくることを繰り返している。
 同じベンチには他に誰も座っておらず、両隣にも人はいなかった。時計の真上に作られた窓から秋のやわらかい光が差し込み、彼女に降り注いでいる様は、一枚の絵のようだった。
 物心つく前から知っていて、付き合うようになってからも2年近く経つ。それなのにまだ時々、今のように彼女に見とれずにはいられない瞬間がある。
 清楚とか清純とか、今では使える場合も少なくなってしまったような表現が、奈央子にはこの上なく似合う。もともと美人だけど、20歳を過ぎたあたりからは、加速度が増したような勢いで綺麗になっている気がする。
 奈央子が「彼女」であることが信じられなくなるのはこういう時だ。こんなに綺麗で可愛い子が自分を好きでいてくれているなんて、何かの間違いではないのかとさえ思ってしまう。
 何かに気づいた様子で顔を上げた奈央子が、こちらを向いた。立ち上がりながら浮かべる微笑みは、本当に可愛らしくて――
 「なに、ぼーっとして。そんなに寝不足?」
 はっと我に返ると、真正面、30センチぐらいにまで奈央子が近づいてきていた。急に落ち着かない気分が襲ってくる。見とれていた、と正直に言うのは照れくさい。
 「え、いやその……今読んでたの何」
 質問と全く関係のない、しかも質問返しの発言に首を傾げられたが、まあいいかと思われたのか追及はされなかった。
 「般教の用語集。あんたも読んどく?」
 言いながら、本を目の高さに掲げる。教職志望の奈央子は、この春から教員採用試験対策の勉強を始めた。3年になるかならないかの時期で早すぎないかと言ったところ、
 『だってすごい範囲広いのよ。特に般教なんか、何が出るのか予測できないもの。遅くて後悔するより早い方がいいでしょ』
 と返された。般教、つまり一般教養分野は国語や社会系科目の知識、数学的計算問題にまで出題が及ぶらしい。全てを等しく勉強するには長い期間が必要に違いなく、真面目な彼女らしい正論である。
 そして、一般企業の筆記試験とも般教は無縁ではないから、勉強しておくべきなのは確かなのだが、
 「ん――まあ、そのうち貸してもらうかも」
 ついそう答えてしまう。正直、そこまでの余裕は時間的に持ちづらかった。それどころかサークルの先輩から、あるいは就職セミナーなどで聞かされる厳しい現状と就職活動の困難さに、早くもくじけそうになっている。

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『桜、夕立ち、若葉の頃』(11)

 親友が感極まってしまう気持ちはとてもよくわかる。彩乃にとっても、奈央子と柊がようやく結婚に踏み切る気になった事実は、二人が付き合い始めた時以上に感慨深く思える出来事だから。
 ずいぶん長くかかったけど、親友が気持ちを変えずにいたことは結果的によかったのだと、今は疑いなく思える。彼女の辛抱強さが実を結んだのだ。
 再び沈黙し、自分を落ち着かせるように深呼吸をしてから、奈央子は今後の予定を教えてくれた。次の休みにお互いの実家へ挨拶に行き、それから籍を入れて同居するつもりだという。
 「で、結婚式はどうするの」
 『うん……わたしと柊はしないつもりでいるんだけどね。今から式場とか探すんじゃ、ちょっと時期が悪いし』
 奈央子がそう言うのは、現在妊娠3ヶ月だからだろう。確かに、普通だと式場の確保その他の準備で半年ぐらいかかるから、式を挙げる頃には臨月かその直前になってしまう。だが。
 「けど、それじゃご両親が納得しないんじゃない? なんたって一人娘なんだし」
 『うん、そうかも……どう言ったらいいと思う?』
 「ごめん、あたしには答えられない」
 『え、なんで』
 「だって見たいと思うもん、奈央子の花嫁姿」
 3度目の沈黙は、今日で一番長いものだった。
 『————やだな、からかわないでよ彩乃』
 「からかってないよ、ほんとに見たいんだってば。絶対ウエディングドレス似合うと思うし、奈央子が着ないなんてもったいなさすぎるよ。ほんとにそう思う」
 『……ありがと。でも、期待には応えられないかもしれないよ?』
 他の話題も織り交ぜつつの通話を切った頃には、1時間近くが経っていた。メールは頻繁にしていたのだが、リアルタイムで話すとやはり違うらしい。
 静かな自室で、あらためて奈央子の報告を思い起こすと、じわじわと胸に迫るものがある。
 二人と出会ってから12年。その間の出来事が、自分自身のことも含めて、いろいろ浮かんでくる。
 騒がしい中学の日々、もどかしかった高校の頃、波瀾万丈だったと言える大学時代、そして今日までの——
 はっと気づくと、頬に涙が流れていた。拭いながら、今度は自然と笑みがこぼれてくる。
 本当に、心の底からよかったと思う。家族を除けばたぶん、二人に幸せになってほしいと一番願っていたのは自分だと言えるぐらいに、ずっと気にかけてきたから。
 その二人が結婚式を挙げないというのは、事情があるのはわかるが、やはり釈然としない。特に本人にも言ったように、奈央子がウエディングドレスを着る機会がないなんてもったいないにも程がある。
 どこか、来月にでも予約を取れる式場や教会がないか調べてみようか、と考えかけて思い出した。柊の姉、公美(くみ)のことを。
 中学と高校の頃に一度ずつ会う機会のあった公美は、奈央子に見せてもらった写真以上に綺麗で、そしていろんな意味で力強い人だった。今は、かねてからの目標通り弁護士になり、日々忙しくしているらしい。
 会った時、彩乃はほとんど言葉を交わさなかったけど、公美が奈央子を可愛がっていることはよくわかった。今でもそうなのだろうから、彩乃以上に、奈央子にドレスを着せたいと思うに違いない。
 ……となればきっと、公美はどうにかして、二人の式の手配をするはずだ。それが可能だと思わせる雰囲気、行動力のオーラが彼女にはあった。彩乃が心配する必要は何もないだろう。
 ただし、家族にはずっと交際を隠していると言っていたから、実家に挨拶に行った時には一悶着あるかもしれない。それを想像すると、さっきとは違う意味での笑いがこみ上げてきた。
 状況的に式に呼ばれない可能性があるのは残念だけど、その分、仲間うちでのお祝いは気合いを入れて計画しておこう。中学高校で文化祭実行委員や生徒会役員をやっていた友達、その何人かとは今も連絡を取り合っているから、彼女たちにも協力してもらって。
 まずは、結婚式の写真を見せてもらうのが楽しみだなと思いながら、彩乃は早くも二人を祝う催しの構想を練り始めていた。


                             —終—

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『桜、夕立ち、若葉の頃』(10)

 1年半前の奈央子は、言葉にこそしなかったが、柊への想いを断ち切るという考えも持っていただろう。そうでなければ距離を置く必要も、必然性もなかったはずだ。
 そして、距離を置いたことが効を奏さなかったのは明らかで、通う学校が違う以外、二人の関係は何も変わっていない。おそらく今後も、ほぼ確実に変わることはないだろう——奈央子への柊の態度は。
 しかし奈央子にとってそれは、絶対に辛い場合の方が多いのではないのだろうか。柊と「彼女」との関係が続いている間中、奈央子はこんな顔をしょっちゅうしていなければいけないのか。
 それは、すごく理不尽だと思った。
 「……奈央子がいいって言うなら、しょうがないけどさ。ねぇ、だったらこの際もっと前向きになろうよ。クラスの子が時々やってる合コンに行くとか」
 今の今、こういう提案を今することには正直ためらいがある。けれど黙っていたくなかったし、他に言いようがない気がした。
 実際、彼女ができた相手を想い続けるのは、純愛とか言えば聞こえはいいけど、やはり前向きとは言いがたいと彩乃は思う。自分を異性として意識してもらえないと思い定めているのなら、いっそ気持ちを切り替える試みをしていく方が、よほど建設的なのではないだろうか。
 そう思って、あえて言ってはみたものの、当人がこの場でうなずくとは考えなかった。だが予想に反して奈央子は「そうだね」と穏やかに応じた。
 「それか、くーちゃんに頼もうかな。何回か、誰か紹介しようかって言われてるし」
 穏やかな中にほんの少しだけ混じる、苦々しさ。そういうふうに前向きになることが必要だとは思っていても、実行できる自信が持てないのかもしれない。長年の気持ちはちょっとやそっとで変えられるものではないと、繰り返し思い知ってきたからだろう。
 口に出すだけでもずいぶんな進歩だとは思いながら、心の底では、彩乃も同じ心配を感じていた。


 「ほんと!? うわぁ……あ、ともかくおめでとう」
 久しぶりの電話で報告を聞いた直後、彩乃は勢い込んでそう言った。近いうちに決まるだろうとは思っていたものの、当人の口から聞くとやはり安心するし、嬉しい。まさか二重におめでたい展開になるとまでは、予想していなかったけど。
 電話の向こうはしばらく沈黙した後、抑えた声で「……うん」とだけ返してきた。あきらかに、泣くのを懸命にこらえている様子だった。

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