「かえりみち」(2)

 「なに、気分悪いの」
 「——ううん、ちょっと、食べすぎただけ」
 「何を?」
 「…………牛丼」
 「牛丼、てあそこの店で?」
 そういえば彼女はどこから追ってきていたのだろう、と先ほどちらりと思ったことをあらためて考える。しかも制服姿だ。
 土曜日で、授業はとっくに終わっていて、担任との話が長引いたため校門を出たのは2時近かった。話の途中で「急に1人休んだから余った」という弁当を食べさせてもらったから、空腹ではない。荷物が多いからともかくさっさと帰ろうと思い、歩いていたのである。いくぶん感傷らしき気分にひたりつつ。
 「うん、2杯食べたから……2杯目はごはん少な目にしてもらったんだけど」
 「そんなに牛丼好きなわけ?」
 「………………」
 彼女はなぜか答えない。首をかしげた時、あることに気づいてさらに疑問が増えた。
 「そういや家、今はこっちじゃなかったんじゃね?」
 話しているうちにかなり歩いてきていて、もう1本道を越えれば自宅がある町になる。彼女が今住んでいる町に行くには、もっと手前の交差点を直進ではなく、右に曲がる必要があるはずだ。
 問いを投げかけると、彼女はますます顔をうつむけて、足も止めてしまった。
 どうしたというのか。呼びかけると、彼女はぱっと顔を上げた。何事かを決意した、というような目をして。そして言った。
 「メルアド教えてくれる?」
 「え?」
 「明日引っ越すんでしょ。中3の手前で転校なんて大変だよね、だから、メール送るから、励ましの。愚痴とか不安なこととかあったら何でも聞くから、いつでも送ってよ」
 やけに早口で、ともかく最後まで言うのだという勢いをつけたふうに言い切った彼女の顔は、また赤くなりつつある。
 訳がわからないながらも、彼女が転校する自分に気を遣おうとしてくれているらしいとは思ったので、「いいってそんなこと、わざわざ」と何とか返した。すると、彼女は急に不安そうな表情をし、おそるおそる、とても小さな声で「……迷惑?」と尋ねてきた。
 ぽかんとした。次いで、唖然とする。
 ——それって、つまり?
 まさかと思ったが、彼女の泣きそうな、それでいてものすごく真剣な目を見ていたら、自分の想像がただの想像とは思えなくなってきて、次第に焦りが強くなる。
 もしかして、いやもしかしなくても、それを言うために自分が学校から出てくるのを待っていたのか? 牛丼屋の前は必ず通るから食べながら見張って、時間がかかったから無理して2杯目まで食べて。
 ついさっきまで予想もしなかった事態に、ただただ焦ってしまう。どうしていいかわからない。とにかく何か返さなければと思い至ったのは、沈黙してずいぶん経ってからだった。
 「え、あ、その、……別に、えっと、迷惑とかじゃない。全然。嬉しい」
 口走ってから『ええ?』と自分で思う。彼女に負けず劣らず顔が赤くなってきているような気がした。
 ……だけど確かに、迷惑じゃない。彼女の言葉を、向けられている気持ちを、本心から嬉しいと思う。
 「ほんと?」
 なおも不安そうな彼女に、かつてない緊張を覚えながらも、はっきりとうなずく。途端に彼女の顔が輝いた。
 「よかった、嫌だって言われたらどうしようかと思った……ありがとう」
 涙を浮かべながら、顔いっぱいに安心と喜びを表して笑う。そんな彼女が可愛いと、その時初めて思った。

                             —終—

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「かえりみち」(1)

 両手に袋と荷物を抱えて、校門を出た。振り返ると、見慣れた中学校の校舎がいつもと変わらない様子でそこにある。5秒だけ見つめて、踵を返して歩き出す。
 左へ行くと、歩き慣れた道。角の交差点で信号を渡ると全校生徒行きつけのコンビニ。道を挟んだ向かいには牛丼のチェーン店。土日に部活で来た時には、食べている奴らが知り合いにもけっこういた。
 そうやって、ひとつひとつを眺めながら歩いている自分に気づいて苦笑する。感傷なんて似合わないのに。それとも、もう二度と歩くこともないだろうと思うと、誰でもこんなふうに少し違う気分になるのだろうか。2年間ほぼ毎日、歩き続けた道。
 生まれて14年と半年、暮らした町。明日、家族全員で別れを告げる。
 「今、帰り?」
 柄にもなく思いにふけりながら歩いているところに後ろから声をかけられて、少なからずぎょっとする。振り返って相手を確認し、息をついた。
 「……びっくりした、なんだよ」
 ごめんごめん、と笑いながら返すのは、小学校で何度か同じクラスになったことがある女子の一人。3年か4年までは家も近くて、同じ登校班で学校に通っていた。途中で彼女は校区内の別の町に越していったが、それ以前もその後も、自分に対して気さくに話しかけてくる。はっきり言えば珍しい相手だ。
 男子の間でさえ愛想がないとかとっつきにくいとか評されて、お世辞にも友人が多いとは言えないのだから、女子の評価がどうなのかは言うまでもない。
 だから彼女のような女子は文字通り稀で、自分が言うのもなんだが変わっていると思う。
 「荷物、すごいね。途中まで少し持とうか」
 「いや別に、見た目ほど重いわけじゃないし」
 「そう? 書道カバンとか靴入れとか、けっこう重そうだよ。こっち持つね」
 と半ば強引に彼女は、右手に持った荷物のいくつかを奪い取る。「やっぱ重量あるよ、わりと」と言う彼女を呆気に取られて見ているうちに、断りの言葉も、奪い返すタイミングも失ってしまった。
 「やっぱ男子だねえ、そんなに力あるようには見えないけど」
 「……そっちだって力弱くないだろ、横綱になったんだし」
 思い出して口にすると、彼女は赤くなって焦ったように首と手を振る。
 「いつの話よ、小学校の相撲大会なんてずいぶん前じゃない。そりゃあの頃は一番背も高かったし他の子より力もあったけど、今は全然」
 確かに今の彼女は自分より背は低いし、他の多くの女子と体型の差もなく見える。3年ぐらい前は上の学年の女子よりも長身で体格も良くて、男女混合の校内相撲大会で優勝してしまったほどだったが。
 「そんなの覚えてたんだ、やだなあ」
 本当に恥ずかしそうに彼女は目をそらし、顔を赤くし、そわそわしている。普段あまり、良い意味で女オンナしていない彼女がそんな反応を示すとは、正直意外だった。
 「そりゃまあ、インパクト強かったから。クラスで一番でかい男も倒したもんな」
 「もういいよ、言わないでってば」
 ぶんぶんと首を振る彼女がふいに動きを止め、口を押さえた。理由はわからないがなんだか辛そうに見えた。

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「Like a shooting star」(2)

 3ヶ月前、突然倒れた彼は病院に運ばれ、精密検査の結果、すい臓がんと診断された。
 すぐに手術して一度は退院したけど、経過は期待通りの方向には進まなかった。そして1ヶ月前に再入院した時、お医者さんからはっきりと告知された。
 ——保ってあと、半年程度だろうと。
 「どうかした?」
 「ううん、なんでもない」
 初めてそう聞かされた時のことを思い出すと、今でも、心臓が止まるような感覚に襲われる。
 高校の時に出会って、すぐにお互い好きになった。付き合ってこの夏で2年。同じ大学に行こうと頑張って勉強して、晴れて一緒に合格した。
 彼が大学でいきなり倒れたのは、入学式から1ヶ月半しか経たない頃の出来事だった。あれからだってまだ、3ヶ月しか経っていない。なのに、どうしてこんなに。
 彼は自分では何も言わないし、私に気づかせない努力もしている。それでも、会うたびに少しずつではあるけれど彼が痩せて、体力が落ちていることはわかってしまう。
 さっきだって、息切れをしていた。病室のある最上階から1階分の階段を上がってきただけで。バスケ部で足腰を鍛えていた彼ならありえない疲れ方。
 いずれ、階段を上ること自体できなくなる——自力で歩くことさえも。それは、そんなに遠い日の話じゃない。
 彼の笑顔から目をそらして見上げた空に、ひときわ大きな光がいくつも、続けざまに流れた。きれいすぎて、急に涙があふれそうになる。まぶたを押さえてうつむいたら、肩を抱き寄せられた。
 「我慢しなくていいよ」
 誰より泣きたくて辛いはずなのに、彼はどこまでも優しい声でそう言ってくれる。涙が抑えようもなく流れて、唇を噛んだ。
 神様はよほど意地が悪いに違いない。でなければどうして、彼をこんな目に遭わせたりするものか。肩に回されている腕もその力もぬくもりも、来年の今頃にはどこにも存在しないなんてこと、あるはずない。あっていいはずがない。
 だから神様になんか祈ってやらない。代わりに流れ星に願い続ける。
 企業のスカウトが来るほどにインターハイで活躍して、でも最終的には進学を選んで国立に合格した彼がいなくなったら、人は流れ星のようだったと表現するのだろう——けど誰にも絶対、そんなことは言わせないと私が決めた。
 流れ星はなるものじゃなくて、願うものだから。
 ひとつずつは小さくて一瞬でも、たくさん集まれば大きな輝きに、長い時間になる。
 だから毎晩、流れる星全部に願えば、どんなに可能性が低いことでも叶うかもしれない。この世に100%確実なことなんてないんだと言い聞かせながら。
 彼を失わずにいられるなら何だってする。たとえどんなに衰えて寝たきりになったとしても、そばにい続ける。だからどうか。
 星1個ごとに1日分でいいから、命を延ばしてください。少しでも長く隣にいられるように。手をつないで寄り添っていられるように。
 ……2061年に来る彗星を、二人で見られるように。


                             —終—

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「Like a shooting star」(1)

 流れ星を見よう、と約束した。
 夜のデートのいつもの口実。お互いに、会いたい時にはそんなふうに言う。
 最近はもっぱら、屋上で見る。このあたりで一番大きな病院。市街地からは離れているし、消灯時間が過ぎれば建物の中も暗くなるから、星がよく見える。
 面会時間が終わって以降、看護婦さんに見つからないように隠れているのはなかなかにドキドキする。スリルがあって面白い、と言えなくもない。
 そうして、時間を見計らって、こっそり屋上に上がるのだ。
 今夜は私の方が早かったらしい。指定席のベンチに座っていると、ほどなく彼がやって来た。扉が開く音が聞こえると同時に立ち上がって駆け寄る。ゆっくりと歩く彼に寄り添って、ベンチに一緒にたどり着く。
 「寒くない?」
 「だいじょうぶ」
 8月の半ば、そんな会話を誰かが耳にしたなら、何を言っているのかと笑うだろう。
 彼も笑いながら、私の問いに答えた。足が蒸れるから嫌いと普段は冬でも靴下を履かない彼は、今も素足をスリッパに突っ込んでいる。
 昼間のうだるような暑さが嘘だったかのように吹く風は心地よい。けれど彼にとってはやはり、少し寒くはないだろうか。上に薄手のジャケットを羽織ってはいるけど、パジャマの下には特に着込んでいないはずだから。
 「一番多く降るのは夜中だけど、今日は極大日だから、今の時間でもたくさん見えるよ」
 私の心配をよそに、彼は無邪気な表情で空を見上げる。同じように見上げると、ほぼ真上から左にかけてすうっと流れていく光が見えた。
 「あ、あれかな」
 「そうだね、あ、こっちも」
 3つ4つ連続で流れたけど、それからはしばらく、はっきりとした光は見えなかった。
 「ペルセウス座流星群って有名なんだよね。でも流れ星の大きさはそんなに変わらないんだ」
 「去年も言わなかった、それ」
 彼がくすくすと笑う。そうだっけ、と返して私も笑った。
 ひそやかな笑い声が夜の空気に溶けた後、しばしの沈黙がおりる。空を見上げたまま、彼が唐突に尋ねた。
 「ハレー彗星って知ってる?」
 「聞いたことある。76年ごとに地球に近づくんだよね。前に来たのっていつ?」
 「僕らが生まれる前の話。次は2061年らしいから、その時は70歳かな」
 「70歳かあ。立派なおじいちゃんおばあちゃんだね」
 お互いの姿を想像して、また笑う。二人して年老いて、その彗星を一緒に見る姿。
 笑い合いながらも、そんな日が来る可能性が限りなく低いことは、もう知っていた。

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「窓の向こう」(3)

 近づきたいとは思うけど、親しくなれなくても別によかった。描きたいと思うのはわたし個人の感情でしかないし、もし上手く描けても見せるつもりはないから、しょせん自己満足でしかない。でもそれでかまわなかった。ただ、窓越しに彼の頑張る姿を見て、絵を描くことで彼とのつながりを感じていられれば、わたしには充分だった。
 1年以上が、そうやって過ぎていった——その間に1度だけの、例外を除けば。
 去年の2学期だったか、いつものように外を走っていた彼が、わたしの目の前で転んでしまったことがある。ほどけた靴ひもを踏んでしまったらしかった。
 すぐさま起き上がって、走っていこうとした彼をその時、わたしは衝動的に呼び止めた。肘に新しいスリ傷があるのが目に入ったから。大丈夫だから、と言い張る彼にかなり強引に、自前のカットバンを貼り付けた。勢いだったとはいえ、我ながらよくできたなと今でも思う。
 その時、当然といえば当然だけど、彼の視線は美術室の中に向いていた。他の人は来るのが遅くて、中にいた部員も、描き始めていたのもわたし一人。だからわたしの絵を見ていたのも当たり前だった。多少はましになった気はしていても、まだ全然、人に見せられるレベルじゃない。そんな絵を彼にじっと見られるのはやっぱり恥ずかしかった。
 カットバンを貼り終えるまで、彼は無言でキャンバスの絵と、その前に立てかけたスケッチブックを見ていた。思いきって見上げた彼の表情は、最初に惹かれたあの時と似ているように見えた。
 今みたいに。
 「それ、描くの?」
 声をかけられただけでも驚きなのに、彼が窓の外から見ているのは、わたしの前のキャンバスにある絵だった。まだ下絵の段階だけど、道を挟んだ向かいの部室棟、フェンス、グラウンド。
 やっと、今なら描けるかも知れないと思えるようになった。だから次の部内課題のテーマは自由だと聞いて、思いきってこれに決めたのだ。そして、今日描き始めたところで彼が話しかけてくるなんて、どういう偶然なのか。
 聞かれる理由がわからなくて戸惑いながらも、やっと「……そう、だけど」と答えると、彼は絵を見つめたまま、何かに納得したようにうなずく。そして次の発言に、さらに戸惑ってしまった。
 「いつ描くのかなって思ってて。ずいぶん前にスケッチしてたよね?」
 信じられなかった。あの一件は半年以上、いや、1年と言う方が近いぐらい前の出来事。たとえそんなに前じゃなかったとしても、その時のスケッチを彼が覚えているなんて。
 おまけに、描いているものをずっと見られていたなんて。どうして。
 聞きたくてたまらなかった。けれど頭の中で言葉がぐるぐる回るばかりで、声には出せない。
 混乱しているわたしをよそに、彼は、やけに鋭いまなざしで下絵を見ている。まだ、描きたいものを全部は入れられていない下絵を。しばらくして、彼の視線がわたしに向いた。
 「いい線描けてる。でも、もっと思いっきり描いてもいいと思う」
 すごく真面目な調子でそう言った後、突然、目元と口をなごませて表情を作った。
 彼がわたしに、笑いかけてくれている。とても控えめにではあるけれど。
 それじゃ、と右手を上げて、彼はランニングに戻ろうとした。その背中を、わたしは急いで呼び止めた。——今なら。
 「あの、いきなりなんだけどその、この絵に描いていいかな。走ってるとこ」
 一気に言ったわたしに、彼はちょっと目を丸くした。思ったほどではないにせよ、やっぱり驚かせてしまったみたいだ。たちまち後悔しかけたけど、もう後には引けない。
 懸命に目をそらさずにいると、意外にも彼は、また笑ってくれた。心なしか、さっきよりもはっきりとした笑顔で。
 「いいよ。好きなように描いてくれて」
 一瞬で頭に血がのぼる。信じられなさと、同じぐらいの嬉しさで、破裂しそうだった。
 なのに、いや、だからこそなのか、言うつもりのなかった言葉まで口に出てくる。
 「描けたら、見てもらえる?」
 言ってから、自分でびっくりしたぐらいだ。対して彼は、今度はそういう反応は見せず、とても彼らしく見える笑顔をくずさないまま、うなずいてくれた。
 「それじゃ。頑張ってね」
 今度こそ走り去っていく彼の後ろ姿を見ながら、もしかしたらこれは夢で、今にも目が覚めてしまうんじゃないかと思った。そんなふうに考えるぐらい、現実感がなかった。
 だけど、そっちも練習頑張って、と言えなかったことを悔やむ気持ちは残っている。なら、今のやり取りも現実だったはず。途端に、いろんな感情が押し寄せてきた。
 彼に見せると約束したことを思うと、すごく緊張はする。けれど、それとやっぱり同じぐらい、嬉しい気持ちもまた湧いてきた。あの絵に堂々と彼を描ける、そのことに対しての。


                             —終—

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「窓の向こう」(2)

 仲良くなった同じクラスの、彼と中学も同じだった子たちに尋ねてみると、いろんな話が出てきた。何かの理由でお父さんに反抗しているとか、将来は絵の道に進むと約束している代わりに部活では違うことをやらせてもらっているとか。でも結局は誰も、本当の理由や事情は知らないみたいだった。彼は自分からは家のことを話さないし、聞かれても詳しくは答えない。
 目立たないと思ったのは見当違いだったけど、おとなしい、というより静かな人であるのは確かだ。
 彼はテニス部でも頭角を表して、1年のうちに公式試合の選手に選ばれた。そのことや絵の話が広まると、彼は周りに注目される存在になった。近づこうとする人の中には当然、女の子も少なからずいたけど、当人はいつもあまり気に留めていないふうで、その様子をずっと保っていた。
 だから、好奇心で近づいた人の多くはそのうち気がそがれてしまい、徐々に彼は、クラスで浮くというほどではないものの、基本的に一人でいることが普通になった。それでも、常に数人からは注目されている、そういう状態が定着した。
 騒がれている間も表面的には収まった後も、彼は自分の態度をまるで変えなかった。少なくともわたしが見ていた限りではそうだったから、すごいなあと感心した。あんな、にわかアイドル状態になったら、調子に乗るか偏屈になるか、どっちかに偏りそうなものなのに。彼はそのどちらでもなくて、できるだけ角が立たない対応をしながら、核心を突いた質問はかわして済ませるということをやってのけていた。同年代の男子とは思えないぐらいだった。
 クラス替えまでの1年間、たぶん他の人たちと同様に、彼とはほとんど話したことはない。
 その分というか代わりにというか、目が合うことは時々あった。もっともそれは、教室でよりは美術室の窓越しでのことが多い話だけど。
 硬式テニス部がランニングで校舎の周りを走ると知ってからは、よく窓の外を見ていた。部活が始まる時間はだいたい決まっているけど、最中でも自主練習なのか、走っている人は時々いる。その中にはよく彼の姿があったし、朝練前のずいぶん早い時間に走っていることもあった。
 なぜわたしが知っているかというと、その時間に美術室にいたことがあったのだ。課題の締切が近くて、部活の時間内では描けそうになかったから、こっそりと。カーテンを閉めた窓の向こうを通った人影に驚いて、そっと見てみたら、ジャージ姿の彼が校舎の角を曲がるところだった。
 普通より充分上手くできるのに、手抜きしないどころか、人よりも多く努力している。そういう彼はいつしか、わたしにとって見本であり目標で、少しでも近づきたいと思う人になっていた。
 そしてランニングの時間帯には、わたしはよく窓の向こうをスケッチしている。描き上げたことは、まだ一度もない。入部当時の下手さ加減は致命的と言われたほどだったから、1年目のほとんどはひたすら基礎練習、デッサンに費していた。
 さらに、2ヶ月ごとに出す部員ごとの課題もあったから、放課後の部活の2時間は今でも、わたしにとっては短すぎるぐらいだ。それでも隙を見ては、休憩のふりをしたりしながら、窓の向こうを少しずつ描き続けた。見慣れた建物、フェンス、グラウンド。それらを背景に毎日同じスピードで走り過ぎていく、彼を。
 1年は経つのにまだスケッチである理由は、時間の短さや画力不足ももちろんある。けれど一番大きな理由は、いくら描いてみても納得がいかなくて、そのたび一から描き直しているせいだ。
 ……彼に近づきたい気持ちが恋心だと自覚したのは、何度目のやり直しの時だっただろう。
 ひょっとしたら、彼を描き直したいと思った時にはもう、好きだったのかも知れない——たぶんあの授業での、彼の表情を見た時から。

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「窓の向こう」(1)

 誰にでも、特別に感じる風景はあると思う。

             ◇

 毎日、飽きるほど眺めている風景なのに、違って見える時がある。わたしの場合は、校舎の1階の、美術室の窓から見える景色。道を挟んだ一番手前は、運動部の部室が集まった部室棟。その向こうは緑色の、3メートル以上はあるフェンス。さらに向こうには、グラウンド。
 いくつかの運動部は、練習前のウォーミングアップで必ず校舎の周りを走っていて、硬式テニス部は必ず5周する。
 その10数分の間に、彼が窓の外を通るわずかな時間だけ、いつもの景色は特別なものに変わる。

 彼とは1年の時、同じクラスだった。中学は一緒じゃなかったし、もし一緒でも、知る機会は限りなく少なかったかも知れない。それぐらいおとなしくて、目立たない男子だと思っていた。
 4月最初の美術の授業、男女1組でお互いの顔を描くという課題があり、出席番号順に組を分けられた結果、わたしは彼と組むことになった。
 自慢じゃないけど、小さい時から絵は苦手だった。特に、写生の類は。どうしても見たように描けないばかりか、バランスがあり得ない状態になってしまう。彼の顔もやっぱりそんなふうにしか描けなくて、すぐに憂鬱になった。
 だから描く気も失せてしまって、ため息をつきながら正面を見た時——わたしを見つめる彼の、真剣な表情にしばらく見入ってしまった。もちろん、真剣なのは絵を描くために集中しているからで、それはわかっていたけど、その度合いが普通じゃなく感じられて、惹きつけられて、ドキドキした。要するにすごく、かっこよく見えたのだ。
 出来上がった絵を見て、ますますびっくりした。わたしにすごくそっくりでありながら、わたし自身よりずっと魅力的に見えたから。先生も驚いていた。
 後で知ったのだけど、彼のお父さんはわりと名の知られた画家で、彼も子供の時から習わされていたらしい。中学の時には何か賞を取ったことがあるとも聞いた。
 そんな彼に、わたしの絵はどんなふうに見えただろう。時間内には結局描ききれなくて、出来具合は言うまでもなかったから、さぞ滑稽だったに違いない。他の人が必ずするみたいに、変な顔をしたり失笑したりの反応は見せず、ただ眉をちょっと上げただけだったけど。
 悔しかった。そしてその何倍も、申し訳ない気分になった。あんないい絵を描いてくれた彼を、まとも以下にしか(しかも途中までしか)描けなかったことが。
 描き直させてほしいと思った。授業ではその日だけの課題だったし、彼に面と向かってそう言ったわけでもなかったけど、絶対にもう一度描き直したかった。その気持ちが、翌日、美術部に入部するという行動になった。
 中学からの友達はわたしの美術嫌いを当然知っているから、よりによって何で、と皆が聞いた。苦手だからこそ急に挑戦したくなったのだと言ったら、首をかしげた子もいたけど、大半は妙に感心したような反応を見せた。その理由もある意味では本当だったから、それなりに真実味を感じてもらえたのかも知れない。
 彼も入部するのかなと考えたけど、仮入部期間もその後も全く姿を見せることはなく——少し経ってから、硬式テニス部に入ったと知った。噂によれば中学でも美術部ではなかったらしい。


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