『リスタート』(1)

 「なあ、羽村じゃないか?」
 と声をかけられて振り向いた先には、見覚えのある顔があった。大学時代に同じサークルに所属していた、同期の木下である。
 「やっぱりそうか。久しぶりだな、何してんだ?」
 「会社がこの近くなんだよ。そういうおまえは……どこに勤めてたっけ」
 「俺んとこは隣の県だけど、今日はこっちの得意先に用事があって直帰するとこで——な、時間あるならちょっと飲まないか」
 大学を卒業してから3回目の春。
 羽村柊(はむらしゅう)は営業社員として、今いる所からほど近い衣料品のメーカーに勤めていた。今日は仕事が早く終わったので、そのことを電話しておくかと考えながら歩いていたところに、横から木下に呼び止められたのだった。
 しばし携帯を見つめながら迷ったが、卒業以降はめったに会う機会のない相手だし、たまにはいいかと思い、木下の提案にうなずいた。
 最初に目についた居酒屋に入ると、中は満席に見えた。あまり期待せずに店員を待っていると、幸い2人分の空きはあったらしく、奥の席へと案内された。生ビールとつまみを数品注文し、互いの仕事の状況について、愚痴も含めしばらく話し合う。
 その話題が一段落し、会話がいったん途切れたところで、木下が思わせぶりな調子で切り出した。
 「そういや、こないだの飲み会で聞いたんだけど」
 木下が言う飲み会とは、3週間ほど前にサークルのOBOGで集まった時のことだ。柊にも当然連絡はあったのだが、当日は出張が入っていて時間までには戻れそうになく、参加していなかった。
 「なにを?」
 「望月さんが結婚するらしいぞ、7月に」
 その名前に、柊はしばらくジョッキを口に運ぶ手を止めた。
 同じくサークルの仲間で、高校の同窓生でもあり——2年ほどは付き合ってもいた、望月里佳(もちづきりか)。
 別れる時、彼女はほとんど恨み言を言わなかったし、その後も卒業まで、サークル仲間としてはごく普通に接していた。後腐れのない別れ方だったとは思うが、彼女に恋愛感情を持てなかったことを申し訳なく思う気持ちは今でもあったから、里佳のことが話に出ると少なからず複雑な気分になる。
 今も、反射的に手が止まってしまった。木下の言ったことを頭の中で反芻して、ようやく内容を理解し、そして驚いた。
 「……マジで?」
 「おう、本人は来てなかったけど林さんが言ってたからな。間違いないと思うぞ」
 里佳と仲の良かった女子学生(今は当然社会人だろうが)の名前を出して、木下は聞いた限りの詳細を話し始めた。合コンで知り合った相手だそうで、3つ上の27歳。1年ほど前に付き合い始め、数ヶ月後には結婚を考えるまでになっていたらしい。里佳に彼氏ができた、という話は去年誰かが教えてくれた気もするが、その後のことは初めて聞いた。
 「先に惚れたのは相手の方だったらしいけど、何度か会ってるうちに望月さんもその気になったとかって……二次会には同期全員招待するから、会場探し張りきってるって聞いたな」
 「そっか。よかったな」
 「そうだな」
 しばし沈黙と、微妙ながらしみじみとした空気が互いの間に流れた。
 サークルの同期の大半は、柊と里佳の事情をある程度知っていた。自分から言って歩いたわけではなく面と向かって聞かれたこともなかったが、いつの間にか自然に広まってしまっていた。
 まあ二人とも同じ集団に属していたのだから当然ではある。しかし、そこに絡んでくるもう一人の影響も小さくはなかったと思う。当時の学内ではかなりの有名人だったから——と本人に言うと、今でも苦笑いを浮かべつつ否定するのだけど。
 「で、沢辺(さわべ)さんはどうしてんだ?」
 沈黙を先に破る形で木下が尋ねた。聞かれるだろうな、と思っていた矢先だった。
 「あー……まあ、普通に元気にしてる」
 先ほどの話題の後だけに、奈央子(なおこ)に関する話はやや歯切れが悪くなる。里佳に対して残る後ろめたさも作用しているが、それだけが理由ではない。
 「まだ結婚してないのか?」
 柊の左手を一瞥した目とその口調には、いくらかの非難が含まれていた。……そう来るだろうと覚悟してはいたが、いざ言われるとやはり苦い気持ちになる。
 「なにやってんだよ。まさかその気はないって言うんじゃないだろうな、今さら」
 酒の勢いも手伝ってか、木下の語気がいささか荒くなってきた。奈央子と付き合い始める前だが、木下がその頃彼女に惹かれていたことは、直接に聞かされて知っている。この様子だと、未練かどうかはさておき、今も奈央子には特別な思い入れを持っているらしい。
 相手の勢いに少々押されつつも「そんなわけないだろ」と返すと、木下はますます非難がましい目で柊を見た。そして、
 「だったらさっさと結婚しろよ。ぼやぼやしてるうちに他の奴に取られても知らねーぞ」
 決めつけるような調子で言われた台詞に、今度はすぐに言葉を返せなかった。

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『リスタート』(2)

 翌日の夜。木下を覚えているかと尋ねてみると、奈央子はすぐにうなずいた。
 「確か、あんたと同じサークルだった人よね。昨日会ってたのってその人だったの」
 昨夜居酒屋に入る前に、知り合いと飲むから夕食はいらないと彼女の携帯にメールはしたが(先にかけた電話では留守電になっていたので)、慌てていたので誰なのかまでは書かなかった。今日会ってからも、奈央子は何も聞かなかったので、柊の方から話に出した——あのことを、彼女に報告する義務もあると思ったからだ。
 「でな、その木下から聞いたんだけど」
 夕食の準備に動き回る奈央子がふきんを持って近づいてきたのを機に、いったん深呼吸をしてから切り出した。
 「結婚するんだって、望月が」
 テーブルを拭く奈央子の手が止まった。顔を上げてこちらを見る。少し驚いた表情のまま何度かまばたきした後、
 「いつ?」
 「7月って言ってた。……だから二次会の案内とかがそろそろ来るかも。サークルの同期は呼ぶらしいから」
 「そうなんだ。……よかった」
 言いながら奈央子は微笑んだ。やっと安心したというふうに。それを見て柊も、同じようにほっとした気持ちになる。彼女の性格からして、里佳のことはずっと気にかけていたに違いなかった。付き合うようになった経緯が経緯だけに、ある意味では、里佳が良い相手に出会うのを一番願っていたのは奈央子かも知れない。
 この機会に、一度聞いておくべきかとも思った。
 「——あのさ」
 と言いかけたのだが、「あ」と声に出したと同時に、奈央子が立ち上がって台所の方へ行きかけた。
 途端に気が挫かれてしまった。奈央子は律儀に気づいて振り返り、「なに?」と尋ねてきたのだが、
 「……あー、いや何でもない」
 言葉を出す気力を再度奮い起こすことができず、そう返さざるを得なかった。「そう?」と首をかしげたものの、さらに問うことはせずに台所へと向かう奈央子の背中を見ながら、柊は気づかれないようにため息をついた。
 彼女といわゆる恋人同士になってから、そろそろ5年半が経とうとしている。もともと幼なじみであるから付き合いそのものは四半世紀に近いわけで、だからつい錯覚を起こしてしまうのだが、5年半という時間も決して短くなどないことはわかっている。
 その間に大学を卒業し、自分は会社員に、奈央子は公立高校の英語教師になった。実家のある県ではなくこちらで採用試験を受けたので、彼女は今も学生時代と同じ女性専用マンションに住んでいる。
 しかし実際に帰るのは週に2・3日程度で、残りは柊の家で過ごしている状態だ。

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『リスタート』(3)

 就職して半年ほど過ぎた頃、いくらか資金ができたのを機に、ワンルームから今の2DKに引っ越しをした。それを境に、奈央子がこちらの部屋で過ごす時間も長くなった。以前は泊まるとしても週末のみだったが、ここ1年ほどは、平日でも遅くなった時にはそうするようになっていた。もっともその場合、着替えるためにと始発が出る頃には帰っていくのだが。
 とはいえ、実質的には半ば以上、一緒に暮らしているようなものである。年齢その他の状況を考えても、結婚を意識しないと言ったら嘘だった。
 正直、引っ越す先に小さいながらも2DKを選ぶ際に、頭をよぎったことでもあった。けれどまだ就職1年目だしと、踏み込んで考えることは先延ばしにした。……それからもうすぐ2年。
 夕食をとりながら必要以上に視線を向ける柊に、奈央子は当然ながら気づいている様子だった。
 「ね、やっぱり言いたいことあるんじゃない?」
 一度はそう尋ねもしたが、柊が首を振るのを見て「……まあ、本当に何もないならいいけど」とつぶやくように言った後は、何も聞かなかった。
 明日は土曜日で、お互いに仕事も休みである。夕食の片付けを終えた後も奈央子は帰らず、そのまま当たり前のように泊まる流れになった。
 一緒にベッドに入ってからも、言うべきことを考え続けてはいたのだが、口に出す踏ん切りがつかないうちに奈央子は眠ってしまった。寄り添っている彼女の重みと、パジャマ越しに伝わる体温に心地よさを感じながら、そんな自分に対していくらかの自己嫌悪も覚えずにはいられない。
 奈央子と一緒にいるのは、とても気楽で落ち着くことだった。文字通り子供の頃から馴染んだ相手であると同時に、彼女が柊の好みや癖をよく知っていて、可能な限り合わせてくれるからだ。
 今の関係になってあらためて思ったのは、奈央子が非常によくできた、理想的と言っていいほどの女の子——女性だということだ。もともと美人ではあるが、24歳の今では大人びた雰囲気が加わり、学生時代よりもはるかに綺麗になった。年齢以上の落ち着きを感じさせるのは、教師という職業が関係しているかも知れない。教師としての彼女も優秀らしく、2年目の去年にはもう担任を任されていた。今年度も(クラスは別だが)引き続き担任になったとのことで、日々張りきっている様子である。
 そんな奈央子が恋人でいること、言いかえれば自分を好きでいるということが、時折ひどく奇妙に思える。彼女がかなり前から柊を想ってくれていたのは聞いているが、それほどの何かが自分にあるとはいまだに考えられなかった。落ちこぼれではなかったけど、奈央子に比べれば何もかも平凡な人間だと柊自身は思っている。
 しかし奈央子の態度は、付き合い始めた頃から今までの間、まるで変わりがない。都合がつく日は必ず部屋に来て食事を作ってくれている。その他の家事も彼女が進んでやってくれるために任せきりで、それが自然になってしまっているが、奈央子が決して暇なわけではないのは、持ち帰る仕事の量を見ればわかる。
 なぜそこまでしてくれるのか——つまり、どうしてそんなにも自分を好きでいてくれるのか。5年半も付き合っていて今さら何を、と他人には言われそうだが、しかし本気でそう考える時がある。

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『リスタート』(4)

 付き合う前、奈央子の気持ちを知ったのは彼女の親友経由でだった。それ以後も、本人から直接に好きだと言われたことは、実は一度もない。
 だからといって、彼女の気持ちを疑うわけではないのだが……いつ突然に心変わりされても不思議ではないという思いは、いつの頃からか心の奥底にくすぶっていて、消えずに存在し続けている。
 ——もし、本当にそうなったら。
 自分はどうするだろう。彼女を忘れて、他の誰かを同じぐらいに想うことができるのだろうか。
 奈央子の寝顔を覗きこみ、頬に手を添えた。
 この部屋に奈央子が泊まる時、たいていは今夜のように並んで眠るだけである。それ以上のことになるのは、少なくとも自分たちの間ではかなり稀だ。
 初めてそうなったのも付き合い始めてから1年以上後のことで、それまでの間、二人きりで旅行して同じ部屋に泊まった時にさえ、まるでそういう雰囲気にならなかった。全く考えが及ばなかったわけではないのだが、彼女と一緒にいるだけで十二分に楽しかったので『まあ、いいか』といつの間にか思ってしまっていたのである。
 そして、いまだにその傾向は変わらない。こうして、すぐそばに奈央子の存在を感じているだけで、不思議なほど心が満たされる。たまに衝動があってもほぼキス止まりで、それ以上に関しては、数ヶ月の間が空くことも珍しくない。実際、最近そうなったのは1ヶ月近く前の話だ。
 ……今の状態が、良くも悪くもぬるま湯であるのは気づいている。いいかげんけじめをつけるべき頃合いであるのも。特に、年が明けて以降は——お互いの24歳の誕生日前後からは、ほぼ毎日考えていることだ。今さら木下に指摘されるまでもなく。
 しかし、今のぬるま湯がとても楽で心地よいことも確かだった。どんな形であれ、この状態を変えるには相当の気合いを入れなければならない。それは非常に面倒に感じるし、正直、怖くもあった。あまりにも長く続いてきたから、変化させること自体に少なくない不安を覚えてしまう。
 だが当然、いつまでも避けていられる問題ではない。木下が口にしたようなことが起こる可能性は、決してゼロではないと思っている。奈央子を信じられないのではなく、自分自身が信用しきれないからだ。何があっても彼女をつなぎ止めておけるかと聞かれたら、堂々とそうだと言える自信はなかった。
 そのくせ、いや、だからこそ、奈央子が離れていく可能性を想像するだけで背筋が寒くなる。失いたくないと、切実に思う。
 頬に触れていた手を伸ばすと、彼女の髪がシーツの上に広がっているのがわかる。数年前に一度短く切られた髪は、今では再び、かつてのように腰近くまでの長さになっていた。その髪ごと、柊は奈央子の頭をそっと胸に引き寄せる。
 ——言わなければいけないと、頭ではよくわかっている。失いたくないのならなおさらだ。なのに、口に出せない。自分の臆病さと優柔不断さに、闇の中でまた小さくため息をついた。

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『リスタート』(5)

 そして、半月が過ぎた。
 相変わらず、例の問題に関しては何の進展も起こせていない。その間に里佳とその婚約者から二次会の招待状が届いたが、奈央子にも見せて「行ってくれば?」と言われた時にすら、自分たちに引き当てて話を切り出すことができなかった。
 いつも、今度こそはと思いながら帰るのに、奈央子の顔を見た途端、その話題に関してだけ口が貝のようになるのだった。……我ながら呆れてしまう。
 そして今日も、言う気持ちだけはあるのだが、結局また自己嫌悪を深めるだけで終わるかもと、すでにあきらめが入っている。同時にそういう自分を情けなく感じて、ますます墓穴を掘る心地がした。
 そんな気分で帰り着き、インターホンを鳴らした——が、応答がない。おかしい、とすぐに思う。
 会社を出る時、つまり1時間ほどに送ったメールに対し、奈央子からの返信は『もうすぐそっちの家に着くところ』だった。だから中にいるはずなのである。
 半ば無意識にノブに手をかけて回すと、ドアが開いたので驚いた。鍵をかけ忘れるなど、まるで奈央子らしくない。急に不安と焦りがこみ上げてくる。
 慌てて玄関に足を踏み入れた時、奥で何かが落ちて壊れる音がした。大きな音ではなかったが、不安を煽るには充分だった。
 「奈央子!?」
 呼びかけながら、玄関から一番近いキッチンに駆け込むのと同時に、奈央子の姿も目に入った。しゃがんだ姿勢で、床に散った卵の殻を拾い上げようとしている。先ほどの音の正体はそれらしいと、とりあえずは安心した。だが。
 「……ど、どうしたのよ」
 こちらを見上げる奈央子の顔は、妙に青ざめている。血相を変えて入ってきた柊に驚いた様子なのは納得できたが、尋ねる口調がどことなく、ぎこちなく聞こえるのが気になった。
 「どうしたって——チャイム鳴らしても出てこないし、鍵開いてるから、何かあったのかと思って」
 「え、閉めてなかった、わたし? そうだった?」
 「……大丈夫か、おまえ?」
 あまりに顔色が悪く見えたので、ごく自然に聞いたことである。なのに、奈央子は表情をこわばらせた。少しの間ではあったが、かなりあからさまに。
 「え……どうして?」
 言いながら奈央子は笑おうとした——ようだが、ひきつった作り笑い以上には見えなかった。そういう反応も彼女らしくなく、不自然だと思った。何か言いたくないことや知られたくないことがあって、それを隠すために必死になっているかのような……
 不意に、ある考えが脳裏に浮かんできた。
 まさか、と柊が思うより先に、奈央子が立ち上がる。
 「ごめんね、なるべく早く作るから待ってて」
 その言葉につられてキッチンのカウンターに目をやると、買ってきたらしい食材が袋やパックに入ったまま並べられている。食事の準備に手が付けられていた様子はなく、ふたが開いた状態の炊飯器の中も空だった。……彼女がここに着いてから、30分以上は経つだろうに。

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『リスタート』(6)

 不審に思ったものの、どうしたのかとその場で口に出すことはできなかった。調理に取りかかる奈央子の後ろ姿を見つめながらしばらく考えるが、やがてあきらめてキッチンを出る。
 奥の部屋で着替え、テレビをつけたが、もちろん番組を観たいわけではない。静かな——正確には奈央子が料理をしている音だけが聞こえる中で、考え事をしたくなかった。内容が彼女に関する、かつ、できれば思い浮かべたくもないことであったから。
 だが完全に振り払うことはできず、「お待たせ」と奈央子が呼んだ時、一度目はその声で我に返り、考えに没頭していたと気づいたほどだった。二度目で慌てて振り返り、不安を押し隠しつつキッチン、正確にはダイニングキッチンへ向かう。
 テーブルには、オムレツと野菜サラダ、わかめときのこの和え物などが並べられていた。それが一人分なのに首を傾げつつもとりあえず食べ始めたが、気になっていまひとつ味がわからない。
 調理器具を洗い終えた奈央子が、お茶を入れた湯呑みしか手にせず席に着いた時、柊は箸を置いた。ごくたまに「ダイエット中」と言う時でも、奈央子が食事を抜くことは皆無である。世の一部の女性のような無茶は、彼女は絶対にしない。
 「腹減ってないのか?」
 「え、……うん、ちょっと食欲なくて」
 そう答える奈央子は、口調こそいくぶん普段通りに戻っていたが、顔色は相変わらず良くない。柊が今考えていることは別問題として、今日の彼女は体調自体良くないのではないだろうか。ひどくだるそうな様子でもあるから、風邪の引き始めかも知れないと思った。熱があるようには見えなかったが、念のため確かめてみようと、なにげなく手を伸ばす。
 次の瞬間、額に差し伸べられたその手を、奈央子は避けた。体を後ろに引き、そのまま勢いで立ち上がったために、椅子の音がやけに大きく響く。
 お互いの顔を見つめ合ったまま、沈黙した。戸惑いと気まずさを含んだ間がしばらく続く。
 「————あ」
 先に沈黙を破ったのは奈央子だったが、自分のとった行動にまだ呆然としているらしく、再び口を閉ざす。速いまばたきを繰り返し、そして突然に目をそらした。
 「…………ごめん、調子悪いからもう帰るね。後はそれだけだから自分で片付けといて」
 それ、で柊の前の食器を指差し、奈央子は慌ただしく——見ようによっては逃げるかのように、部屋を出ていった。柊も呆然としていて、呼び止めるだけの余裕がなかった。
 ——恐れていた可能性がついに現実になったのではないか、とその時の柊は考えた。それ以外に、あれほど奈央子の様子がおかしい理由を思いつけなかった。

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『リスタート』(7)

 5月の連休明け、仕事の都合でK大の近くに行った日、思いがけない人物と再会した。正確に言うなら、彼女とそこで行き会うこと自体は不思議でもなんでもないのだが、このタイミングで会うとは思わなかった。先日の木下と同じく、今日も相手の方から声をかけられる。
 「あれぇ? 久しぶり、どうしたの?」
 柊が正門前のバス停近くを通りかかったのと、そこにバスが停まったのはほぼ同時で、そのバスから降りてきたのが瀬尾彩乃——奈央子の中学時代からの親友だった。5年半前のあの時、奈央子との間を取り持ってくれた彩乃は、柊にとっても恩人と言える相手である。
 「……って、その格好からしたら仕事か。平日だものね」
 スーツ姿の柊を見てそう言う彩乃は、今はK大の大学院に在籍しているはずだ。卒論のテーマにした作品に「はまってしまったから」らしいが、奈央子に言わせれば「彼氏が卒業するまで大学にいたい気持ちも、何割かはあったんじゃないかなあ」ということだった。彩乃の相手は2歳下で、従弟でもあるのは柊も知っている。その「彼氏」も3月に卒業して、就職先の都合で遠距離恋愛になったらしい、と奈央子経由で聞いてもいた。
 当たり障りない会話の中で、つい口がすべった。
 「奈央子から、なにか相談されたりしてないか?」
 「え? 別に……そういえばここ半月ぐらいはメールだけで電話はしてないかな。なんで?」
 「……いや」
 と言ってみたものの、その後に続ける適当なごまかしの言葉が出てこない。先日以来、奈央子の言動の奇妙さはいまだに続いているのだ。
 世間は数日前までゴールデンウィークだったが、柊の会社も奈央子の学校も、休日及び勤務日は暦通りである。つまり長期休暇はないものの連休はあるので、普段より遠出もしくは1泊旅行をするのが数年来の習慣だった——去年までは。
 今年は遠出も旅行もしなかった。それだけではなく、連休中は一度も奈央子が部屋に泊まらなかったし、丸一日訪ねてこない時さえあった。その理由を本人は「中間テストの準備に手間取ってるから」と話していたが、少し時期が早いような気がするし、本当に手間取っていて忙しいのだとしても、休日に一度も食事を作りに来ないことはかつてなかったので、どうしたって変だと思ってしまう。
 さらに妙だと感じるのは、その食事である。このところ味付けがなんだかおかしい。味噌汁が微妙に辛いとか焼き魚の塩味が薄い気がするとかいった程度だし、毎回でもないのだが、しかし料理上手な奈央子にしては珍しいことだった。そしてそれを指摘すると、叱られた子供みたいに妙にびくっとして、一瞬表情を硬くする。すぐに普段通りの口調で謝りはするのだが、釈然としない思い、あれもこれも彼女らしくないという不安は深まるばかりの最近なのである。

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『リスタート』(8)

 柊が黙ったきりなので、当然ながら彩乃は不審に思ったらしく、再度「なんなの?」と聞いてきた。
 「ケンカでもしたわけ?」
 話の流れからしてそう聞かれるのは当然である。しかし事情を話すことはためらわれた。もしかしたらと思うあまりに口をすべらせてしまったのを、柊は後悔していた。
 奈央子のことを彩乃に打ち明けたら、5年半前の「あの時」の再現になってしまう。今日ここで会ったのはあくまで偶然だが、危機的状況の打開に彼女を頼る点は変わりない。2度もそんな真似をするのは、いくらなんでも情けないだろう。
 そう考えてなおも黙っていると、彩乃がはーっと大きくため息をついた。そのわざとらしさには覚えがあるなとぼんやり思い、「あの時」に呼び出されて話をした際に似たことがあったのを思い出した。
 「……なんていうか、肝心なところで意思の疎通が足りないよね、あんたたちって」
 呆れたような彩乃の言葉に、そうかも知れないと今さらながら思う。なまじ、言わなくてもわかることが多いだけに、お互い言葉少なになる時もある。それを居心地悪く感じたりしたことはなかったが、たまたま今までは不都合が出なかったというだけなのかも知れなかった。
 「言っとくけど、あたしは奈央子からなにも聞いてないし、聞くつもりもないからね。気にならないわけじゃないけど」
 諭すような口調で彩乃は続けた。
 「もういい大人なんだから、ちゃんと話して二人で対処しないと。……いくら付き合いが長くてもね、話さなきゃわからないこともやっぱりあると思う」
 「——そうだよな。わかってる」
 柊は素直にうなずいた。言葉を惜しむつもりはないし、そもそも、今は惜しんでいる場合でもない。結果が悪い方へ転がるとしてもそれは自分の責任に違いないのだから、甘んじて受けるべきだろう。
 「なら、すごくおせっかいだと思うけど……」
 彩乃が、今度はややためらいながら、
 「問題解決したら、いいかげんプロポーズしてあげなさいよ、奈央子に」
 と言ったので、柊は言葉に詰まりながらも反射的に赤くなった。今まさに考えていたことだったからである。
 「そう言うそっちはどうなんだよ」
 「あたし? ……あたしは博士課程進んだところだし、向こうも就職したばっかりだし」
 言いながら彩乃もほんのり顔を赤くする。
 「あたしたちはあと2・3年かかるぐらいでちょうどいいの。そんなことより、羽村は奈央子とのことだけ気にしてればいいのよ。わかった?」
 指を突きつけられて断言された。照れまじりの口調とその勢いに苦笑しつつも、柊はもう一度はっきりとうなずいた。

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『リスタート』(9)

 彩乃と別れてから、すぐに奈央子にメールを打った。話したいことがある、遅くなってもいいから今日は部屋に来てほしいといった内容で。
 驚いたことに、10分もしないうちに返信が来た。届いたメールを開くと、こちらも話すことがあるから行くつもりだった、帰りが何時になるとしても待っているというふうに書かれている。
 文面を読んだ途端、一瞬だが決意が萎えかけた。奈央子の「話すこと」とはいったい何だろう、と考えるとつい、悪い想像が浮かんでしまう。きちんと話をして、不安が自分の思い過ごしなら、今度こそ結婚について切り出すつもりだった——しかし思い過ごしでなければ、その決心も意味のないものになってしまう。恐怖心がよみがえってきた。
 だが、今ひとりで考えていてもしかたない。そう無理やり割り切るまでにしばらくかかった。
 それに先ほど、どんな結果になっても受け入れると、覚悟を決めたはずだ。携帯を閉じ、その場に立ち止まって深呼吸をする。ほんの少しでも気持ちを落ち着かせるために。
 幸いにというか、会社へ戻った後は残業の必要もなく、ほぼ定時で退社できた。最寄り駅までの道中に再びメールを送り、これから帰ると報告した。
 その後は脇目も振らずマンションへ急ぐ。普段は約1時間の道のりが、45分ほどに短縮された。
 部屋に着くと、予想通り奈央子が待っていて、柊を出迎えた。すでに7時近いが、見たところ夕食の準備は全くされていない。
 それどころではないほど重大な話があるのだろうと思い、また怖じ気づきそうになる。奈央子の何か思いつめたような固い表情が、予感にだめ押しをしているふうにも見えた。
 スーツの上着を脱いだのみで、ダイニングの椅子に座る。先に座っていた奈央子が顔を上げてこちらを見たが、すぐに目を伏せてしまった。テーブルの上で組み合わせた自分の手をじっと見つめている。
 沈黙がしばらく続いた後、再び奈央子が、今度は思いきったように勢いよく顔を上げた。そして口を開きかける。そのわずかな間に、タイミングを見計らっていた柊は割り込んだ。
 「あのな、奈央子——なんていうか、おれ、今までおまえにすごく甘えていたと思う」
 話し始めるタイミングを奪われたのと、話の内容の唐突さに、奈央子は少しの間憮然とした面持ちになった。しかしその表情は何度かまばたきする間に消えて、相手の話をひととおり聞くための真面目な顔つきへと変化する。
 それに背中を押される心地で、柊は話を続けた。
 「……気づいてないわけじゃなかったけど、深くは考えないようにしてた。正直、奈央子が甘えさせてくれるのが気楽だったから。……けど、逆におまえが甘えてきたことって、考えたらほとんどなかったよな」
 単なる幼なじみと思っていた頃から、柊が奈央子に相談したり愚痴をこぼすのはよくあることだったが、その逆は数えるほどしか記憶にない。それも、本人から言い出した場合となると皆無に近かった。

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『リスタート』(10)

 就職して以降、慣れない仕事のことで柊がしょっちゅう愚痴らずにはいられなかったように、奈央子にもいろいろ思うことはあったはずである。だが、彼女が何も言わず聞き役に徹しているのをいいことに、自分の言いたいことは遠慮なく吐き出しても、逆に彼女はどうなのかと聞いてみたことはめったになかった。考えることすら少なかった。
 「——それが、おれが気を遣ってやらなかったせいだとしたら、ほんとに悪かったと思う。今さらだろうけど……だから」
 この期に及んでも、その先を口にするのは相当の勇気が必要だった。何とかかき集めて、一日中考えていたことを言葉にして声に出した。
 「だから、もしおまえに愛想つかされてるんだとしても、それはしょうがないと思う。別れたいと思ってるなら、言ってくれればいつでもそうする」
 一息に言って口を閉じ、相手の反応を待った。
 途中までは真面目な顔で聞いていた奈央子は、最後の部分を聞くうちにぽかんとした表情になった。柊を見つめたまま、その表情はまだ変わらない。
 柊も同じく見つめ返していると、急に奈央子の顔から一切の表情が消えた。あまりに突然でしかも予想外だったので、少なからずうろたえていると、
 「————そんなこと考えてたの」
 抑揚のない、おそろしく低い声音で奈央子が言った。直後、立ち上がって柊のそばに来ると、無言で柊の左頬をひっぱたいた。平手で、それほど勢いもなかったから痛みは少ないが、奈央子がそうしたことに対する衝撃は強かった。お互い、相手に手を上げたことはこれまで全くなかったからだ。
 「わたしの話が別れ話かも知れないって思ってたわけ? …………まったく、あんたってどれだけ鈍いのっていうか、ズレてるっていうか……」
 まあどうせ気づいてないと思ってたけど、とつぶやきで奈央子は付け加えた。こちらを見る視線はなにやら奇妙な——少々恨めしげな感じである。しかし理由がわからないので沈黙するしかない。
 そんな柊の様子に奈央子はため息をつき、なぜか泣き笑いに近い表情を浮かべる。それからおもむろに「……あのね」と、顔を柊の耳の方へと近づけてきた。戸惑ったままの柊に、奈央子は小さな声で短く、あることを告白した。
 「……………………え」
 聞かされたことを認識するのに、かなりの間が必要だった——それでもなお、理解にはまだ至っていない。顔を赤らめながら奈央子が言い足す。
 「もうすぐ3ヶ月目だって、今日病院で」
 そしてだめ押しのように、自分自身の腹にそっと両手を当てる。そこまでされてはさすがに、理解しないわけにはいかなかった。

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