4.コンビニでにわか雨

(Twitter診断ツール「恋愛お題ったー」によるお題
 ⇒「朝のコンビニ」で登場人物が「逃げる」、
  「ビニール傘」という単語を使ったお話を考えて下さい。)



 夜勤明けに寄る朝7時すぎのコンビニで、いつも見かける人がいる。
 今朝もいた。雑誌売場でファッション誌をしばらく立ち読みして、ペットボトルの並ぶ冷蔵ケースの前を経てデリカの棚へ。手に取るのはサラダだったりパスタだったり、隣の棚からヨーグルトやゼリーを追加したり。日によって様々だ。
 今日は冷麺と牛乳プリン。
 暑いからなぁ、と思いながらさらに隣の棚でジュースを物色するふりをしていると、気配が近づいてきた。白い手と腕が目の前に伸びてきて、ぎょっとする。
 「あ、ごめんなさい」
 言いながら彼女は、野菜ジュースに手を伸ばした。指が届く前に先にこちらが取り、手に押しつける。
 眼鏡の奥の目がびっくりして見開かれる。
 「……ありがとう」
 「いえ」
 急に照れくさくなって、パックを握りしめる彼女から離れた。
 感じ良くなかっただろうか。いやでも、ああいう行動は無駄口なしでないとかえってわざとらしいし。
 言い訳めいたことを考えながら外に出て、弁当買い忘れたなと思った。

 3日後、コンビニに寄るとやはり彼女が来ていた。
 いつもジーンズなどのラフな格好で、カバンを持っているのは見たことがないから通勤時ではなさそうだ。仕事は何なのだろうか。
 立ち読み中の彼女の後ろをさりげなく通り、ミネラルウォーターを選んでいると、一瞬早く伸びてきた手にボトルを奪われた。と思ったらそれをいきなり手渡される。
 振り向いたらなんと彼女で、しかも微笑んでいた。
 「え、あ、」
 「こないだはありがとう。この時間よく来てるよね」
 「……え」
 呆然とすると彼女はふふと笑って、「だってその服」と指差した。
 あ、と自分のうかつさに気づく。帰りはいつも施設の制服を着ているのだ。
 「すぐそこの特別養護老人ホームの制服よね。ヘルパーさん?」
 「介護福祉士、です」
 「ああそう。夜勤明けなんだ?」
 うなずくと、大変だよねと実感を込めた口調で返された。
 「徹夜は疲れるよねえ、まぁ私は自宅でだからまだ気楽だけど」
 「仕事、在宅なんですか」
 「ん、そう。翻訳やってるの」
 児童文学の紹介を兼ねて、学生時代から下請けを引き受けているのだという。
 「へぇ、すごいですね」
 「全然。大学出てやっと今年から本格的に始めたとこだから、まだまだ」
 「えっ」
 「?」
 「4大?」
 「うん」
 「……23歳?」
 「そうだけど」
 「年下なんだ」
 「ええ?」
 今年25歳になると言うと、彼女は急に焦り始めた。
 「やだ、同い年か下だと思ってました。すみません」
 童顔だとよく言われるし、自分でもわかっている。実年齢より3・4歳上に見える彼女とは対照的だ。
 「いえ、いや、気にしないでいいから。敬語いらないから」
 せっかく彼女と打ち解けかけているのに、敬語なんかでまた壁を作りたくなかった。
 でも、と彼女が言いかけた時、ざあっという水音が唐突に聞こえた。
 窓の外を見ると、大粒の雨が景色をかすませる勢いで降っている。
 「あちゃあ」というつぶやきに振り返ると、彼女が頬に手を当てて顔をしかめていた。予報では午前中に天気が崩れると言われていたが、
 「もうちょっと後で降ると思ったんだけどな」
 彼女はいつも通りカバンの類も、そして傘も持っていない。
 「ビニール傘、買えば」
 「え、ああ、でもこういう傘って普段使わないから、もったいなくて」
 「じゃ、これ使って」
 と持っていた傘を渡した。施設の置き傘、というか誰かの置き忘れを借りてきたものだ。
 「返すのいつでも、いや返さなくていいから。じゃ」
 「え、ちょっ、そんなの」
 「家近いし走るから!」
 呼び止める彼女に叫んで、逃げるように外へ出た。
 徒歩10分の駅に着いたら、ずぶ濡れで20分電車に揺られなければならない。確実に風邪を引くだろう。
 早くも熱が出てきた感覚だが、気分はとても晴れやかだった。

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3.観覧車の彼女

(Twitter診断サイト「恋愛お題ったー」によるお題
 ⇒「早朝の遊園地」で登場人物が「笑い合う」、
  「缶コーヒー」という単語を使ったお話を考えて下さい。」)



 今日も暑い。例年にない猛暑だとかで、連日朝から30度超えである。
 今朝は風があっていくぶんマシとはいえ、外にいるとやはり汗が流れてくる。
 昼間にはどれだけ気温が上がるのだろうと憂鬱になりながら、運転開始のボタンを押す。モーターが動く音がして、そばの観覧車がゆっくりと回転を始めた。
 地元の古い遊園地。
 ここでのバイトは去年に続いて2年目。担当する遊具も同じだ。
 絶叫マシーンメインの他の園に比べるとしょぼいけど、それでもそこそこ来場者はいて、子供連れの家族や友達グループ、カップルと様々。そして観覧車に乗る顔ぶれは、子供連れとカップルがだいたい半々ぐらいだ。
 立場的にはあまり良くないが、やはりつい観察はしてしまう。特に夏休みは実にいろんな奴らがいる。
 暑い暑いと言いながらくっつき合っているのは可愛い方で、たった15分でラブシーンに没頭して一周しても気づかずにいたり。おまえら周りや他人の子供にちょっとは配慮しろ、と思うほどである。
 まあ正直に言えば、若干のひがみが入っていることは否めない。彼女募集中の身で、女の子と観覧車に乗ったことなんてないから。
 毎日接していながら体験したことがない、というのはありがちだけど、こういう場所だと時々ずっしりと落ち込んだりもする。
 「おはよう」
 その時、階段の下から声がした。我に返って、いくらか焦りつつ下を見る。
 清掃担当の制服を着た女性が手を振っていた。彼女の微笑みに、やや緊張しながら挨拶を返し、笑い合う。
 園内を掃除する女性の中で彼女は格段に若い。自分よりは年上だけど、他は50代以上の中で20代前半だから、その年齢差はやはり際立つ。
 彼女がここを通る時の挨拶と短い会話は、毎朝の習慣で個人的な楽しみだった。
 「今日も暑いねえ、大変でしょ誘導係」
 「いえ、そっちこそ、この後仕事いくつあるんですか」
 「2つ。レストランと塾講」
 バイトを4つ掛け持ちする彼女は、そうして学費と生活費を稼ぎながらデザイン学校に通っている。親の薦めた就職を蹴って再進学したから、援助は全くないのだという。
 ここの清掃バイトを選んだのは『授業が始まる前で学校に近いから』だと言っていた。
 それだけ頑張れる目標がある彼女を羨ましいと思うし、すごいとも思う。
 「今日の観覧車のご機嫌はどう?」
 「あ、いつも通りですよ。問題なし」
 「そりゃ何より」
 と言って彼女はホイールを見上げる。
 「ここ来て結構経つけど、1回も乗ったことないんだよねえ。まあそんな暇もないんだけど、相手もいないし」
 「じゃあ乗りませんか、今」
 「え?」
 きょとんとした反応に、自分が何を口走ったかに気づいて内心焦るが、今さら後には引けない。
 「えと、15分で済みますから、息抜きにちょっと。他の奴ら10分前まで来ないですし、その、海がよく見えるって、いや俺も乗ったことないんですけど、あの」
 制御室に頭と手を突っ込んで、
 「これ、さっき買ったとこで冷えてますから」
 置いてあった缶コーヒーを見せると、彼女はついに吹き出した。
 「それだけ薦められたら乗らないわけにいかないなあ」
 と言いながら階段を上がってくる。これよろしく、と箒と塵取りをこちらに預け、代わりに缶コーヒーを受け取る。
 降りてきた一台の扉を開けて乗せた。鍵を閉めると、彼女はとても楽しそうに手を振った。角度がついて見えなくなるまでそうしていた。
 15分後、彼女ははしゃぎながら外へ出てきた。
 「ほんと、海がよく見えるね。晴れてるからすごいきれいだった、ありがとね」
 にこにこと箒と塵取りを手に取る彼女が、年上なのに可愛く思える。いつも以上に。
 言いたいことがあるけど勇気が出せない。
 「次は一緒に乗らない?」
 そう言ったのは彼女の口だった。一瞬ぽかんとしたところに、
 「乗ったことないって言ったでしょ。今日のお礼に、1日デート」
 と続けられ、狼狽した。……えええ?
 信じられなくて、バレバレだったのだろうかと思うと恥ずかしくて、でも嬉しくて、だけどやっぱり嘘みたいで。
 「日にちは都合つけるよ。あ、でもキスまでね?」
 絶句している間に彼女は階段を下りて、振り返らずに行ってしまう。
 ……今のは何だったんだろう。
 現実に起きたことなのか、もしかして白昼夢だったのか。
 去る間際に彼女が見せたいたずらっぽい笑みが頭の中でぐるぐる回っている。とてもじゃないけど今日は仕事に集中できそうにない。

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2.月の夜、夕映えの部屋

(Twitter診断サイト「恋愛お題ったー」によるお題
 ⇒「夕方の部屋」で登場人物が「再会する」、
  「月」という単語を使ったお話を考えて下さい。 」)



 私の部屋の窓は西向き。だから夕方には夕日がよく見える。
 ちょうど周りの家々の間にできた空間が正面で、山の向こうに赤い太陽が、今日もゆっくり沈んでいく。
 20年以上見続けたこの風景とももうすぐお別れだなと考えた時、ドアがノックされた。はい、と応えた声に返る言葉はないまま、ドアが開く。
 現れた姿に目を見開いた。
 「……久しぶり」
 遠慮がちな表情と声。年数は経ているけど面影はちゃんとある。
 「——どうしたの」
 「今、帰ってきてて。土産持って来たらおばさんが茶飲んでけって。で、もうすぐ夕飯だっていうから」
 つまり呼びに来たらしい。
 「母さん、手伝えって言ってた?」
 「ん、まあ。花嫁修業の最終仕上げだとかで、妙に張り切ってる感じ」
 「うわあ、勘弁してほしいなあ」
 お互いにちょっと笑って、少しの沈黙。
 破ったのは彼の方から。
 「結婚、するんだって」
 「うん、来週」
 「そっか。……式は、出られないけど」
 「知ってる、聞いた」
 「おめでとう」
 「ん、ありがと」
 家が隣同士の彼とは年も同じで、必然的に同じ幼稚園と学校の同学年。
 とはいえ、小学校低学年を境に、それ以前のようにしょっちゅう一緒にいたりすることはなくなって、お互いに同性の友達との付き合いが中心になった。周りも、そして私と彼自身も長いこと、単なる幼なじみという認識でいた。
 その認識が変わり始めたのは高校1年の冬。
 期末試験の勉強をしていた夜、窓を叩く音に顔を上げたら、ノートと教科書を抱えた彼がいた。お互いの部屋は屋根伝いに行き来できて、子供の頃はよく訪ね合っていたけど、中学に入る前後にはそんなこともなくなっていた。だから本当に驚いた。
 慌てて開けた窓から、高く上った月を背によいしょと入ってきた彼。
 『数学教えてもらおうと思って。得意だったよな』
 『——なんでいきなり』
 『だってわかんない問題に当たったのが今だから。一番近いとこに聞くのが早道だろ』
 『私はフリーダイヤルの問合せ先か』
 『その代わり、英語は頼っていいから』
 確かに彼は英語が非常に得意だった。そういう交換条件で、深夜の勉強会が始まった。
 夜11時頃にやって来て0時半か1時頃には自分の部屋に戻っていく。うちの両親は早寝で眠りが深いから大声や大きな音を出さなければ起きない。
 二人だけの勉強会は次の試験の時も、2年になってからも続いた。
 そのうち試験に関係なく、同じ時間帯に時々来るようになった。
 口実は暇だからとか眠れないとか、時には相談があると言いながら話すのは他愛ない内容がほとんど。ある夜いつものように話している時、気づいたらキスされていた。
 『好きだ』
 抱きしめられて囁かれた彼の告白を、私は抵抗なく受け入れた。
 それからは毎晩のように会った。学校でも家でも態度は全く変えず、帰りや休日にデートするわけでもないから誰にも気づかれなかった。
 私の部屋での数時間が唯一の逢瀬で、それだけで満足していた。話をして、肩を寄せて抱き合って。朝まで一緒にいたことも何度かある。
 知っていたのは窓の外の月だけ。
 誰も知らない関係は、誰にも知られないうちに終わった。
 進路とか別の人との噂とか、他にも理由はあったと思うけど、どれも決定打ではなかった。たぶん、お互いが別の人間であると本当にはわかっていなくて、相手の知らない部分を許せなかったのだ。
 最後に喧嘩した夜以降、二度と彼は訪ねて来なかった。
 以来、東京の大学に入った彼と会ったのは数えるほどで、挨拶以上に話したこともほとんどない。
 特に卒業後は、得意の英語を活かし外資系企業に入社した彼が、すぐにアメリカへ行ったから。相当忙しいらしく『里帰りもしないのよ』とおばさんを嘆かせていた。
 だから、今日が数年ぶりの再会。
 「明後日には帰るんでしょ。家でゆっくりしてなくていいの」
 「いや、母親が『結婚式に出ないんだから今挨拶してこい』って。さんざん世話になったんだから礼ぐらいちゃんと言えってさ」
 「あ、そう。じゃ遠慮なくお礼してもらおうかな」
 わざと偉そうに返したら、彼は「えー」と呟き苦笑いを浮かべた。
 その表情がふいにあらたまる。
 「彼氏、いい奴?」
 「ん、すごく。私にはもったいないって親にも言われた」
 結婚相手は会社の1年後輩で、申込みは向こうから。最初は特別に思っていなかったけど、会った時から年齢以上に落ち着いた人で、その穏やかさにいつの間にか惹かれていた。
 「そっちは彼女いないの」
 「ちょっと前までいたけど今はフリー」
 「へえ、やっぱアメリカ人?」
 「いや、取引先で会った日本人」
 その時、階下から呼ぶ母の声が聞こえた。
 「やば、怒られる」
 座っていたベッドから立ち上がり、ドアを開け放したまま立っている彼の脇をすり抜けようとした時、手を取られた。
 振り向いた目と鼻の先に、彼の顔。
 「あの時はごめん」
 ちゃんと謝らなくて、と続いた声は少しかすれていた。
 途端に、10年前に心が引き戻されるような感覚。思い返すと今でもせつなくなる時はあるけど、泣きたいぐらいに懐かしい、大切だった時間。
 「ううん、私も意地っ張りだったから。ごめんね」
 気持ちをうまく表現できなくて、たくさん傷つけた。
 それでもあの頃、確かに彼が好きだった。誰よりも好きだった。
 懐かしい温もりと10年越しの言葉に、心のしこりが溶けていく。
 手を放さないまま、彼は私の先に立って階段へ向かう。
 こんなふうに彼と手をつないで歩くのは、きっと今日が最初で最後だ。

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1.キャンプとアイスと夜の闇

(Twitter診断サイト「恋愛お題ったー」によるお題
 ⇒「夜の浴室」で登場人物が「笑い合う」、
  「アイス」という単語を使ったお話を考えて下さい。」)



 校外学習で来た青少年キャンプ施設の広い浴室。
 窓はあるけど、電気を消せば夜だから当然暗い。小さい月の明かりだけが差し込み、時折かすかに聞こえるのは葉ずれの音と池にいるカエルの声。
 そんな中に今、私は閉じ込められている。
 さっきまで一緒に掃除をしていた、同じクラスのこいつと二人で。
 「ま、しょうがないよな」
 けろっとして言う顔を、軽くつねった。
 奴とは喧嘩友達。高校生にもなってどうかと思うけど事実だからしょうがない。
 つねったり小突いたりはたいたり、もちろん加減しながらだけど、しょっちゅうしている。
 頬をさすりながら「寝る前に点呼あるだろうし、誰か気づくだろ」と奴は続ける。
 「……けど、怒られないかな」
 つい不安を口にする。
 掃除を終えて出る前に、戸締りとか確認しておこうと思って引き返した。
 何十もの蛇口を閉め直している時に電気が消されて、ちょっと焦って扉に駆け寄ったら鍵も閉まっていた。呆然としていたら、空っぽの浴槽の中から奴が現れて、仰天した。
 『な、なんでいんのよ』
 『女子少ないからって手伝わされて。「あれ、あいついなくない?」って言われてから驚かそうと思ってたのに』
 『呑気なこと言ってんじゃないわよ』
 『いいじゃん別に』
 『よくない!』
 ひとしきりそんなやり取りをして今に至る。
 だからこの状況はあくまでも不可抗力なのだけど。
 「まぁそう後ろ向きになるなって。こういう時は前向きでないと。なんか楽しいこと考えよ」
 「……たとえば?」
 「えーと。あーそうだ、アイス」
 「アイス?」
 「宿泊所のさ、事務室の奥に冷蔵庫あるだろ。あそこに班の人数分隠してんの。クーラーボックスで手分けして持ってきて」
 「ええ?」
 奴の行動班が揃いも揃って曲者なのは知っている。しかしそこまでするとは。
 「先輩に教わったんだよ、案外見つからないからって。消灯の後で取りに行って、外で食おうと思ってたのになぁ」
 声のトーンが心なしか落ちてきた。
 「それ絶対、他の人に食べられちゃうでしょ。かえって空しくない?」
 奴が珍しく落ち込み気味なのがおかしくて、笑いながら言ってやる。そしたら奴も困ったような声で笑った。
 いつもと違う笑い方、いつもと違う場所、いつもと違う雰囲気。
 わずかな明かりの中に浮かぶ姿が知らない男子のように見えて、笑い合いながら、急にドキドキしてきた。
 「もし朝まで気づかれなかったら困るなあ」
 ドキドキに自分で戸惑う。目をそらして、少し声を大きくする。
 「こんなとこじゃ寝るに寝れないし、二人っきりなんて」
 「なに、俺と一緒にいんの嫌なの」
 「……そうじゃなくて。変な噂になっちゃったら、困るでしょ」
 ジャージの膝を抱える手に力が入った。
 水気を取って乾いたタイルはほのかに冷たい。
 たとえ私が気にしなくても奴には迷惑に違いない、と思うとなぜか胸が少し痛くて、足元が冷える心地がした。
 じわじわと積もる沈黙が、ふいに破られる。
 「俺は、気にしないけど。そっちは嫌かもしれないけど」
 心を読まれたのかと思った。思わず振り向く。
 暗い中に真剣なまなざしがはっきり見えた。
 どういう意味、と蚊の鳴くような声で聞くのが精一杯だ。
 「――さあ」
 それだけで顔をそむけて、何も言わない。
 頬が熱い。けれど足元は冷たくて体が震えてくる。
 腕をさすり膝の上で握りしめた手が、横から伸びてきた大きな手に包まれた。
 ……あたたかかった。

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